四 かつての友
二人は再び青空の下に出た。
闇の中の息苦しさから開放されると、外の新鮮な空気が体の芯まで入り込んでくる。
風はすっかり元通りになっていた。
いつの間にか、汗をかいていたらしく、汗だくの顔がひどく冷たくなった。
豪は短槍を右手に持ち直す。
風に音をたててなびく奴隷の服は、所々ボロボロに破れ果てている。
その中でも、止めにやられたのだろう。肩から腰にかけての斬り跡が印象的で、当時の悲惨さを物語っていた。
豪は辺りを見回し、ある事を不自然に思った。
二人を襲撃したはずの矢の集団が、きれいさっぱり無くなっている。
その代わりに矢が貫いたであろう穴が、散々に広がっていた。
煌卑は少し、胸騒ぎがするのを感じた。
基本、妖術は間接的に人々を傷付ける物だ。
だから、ここまで直接的な物は極めて珍しい。
それこそ、妖狐でしか出来ないような芸当だ。
となれば、この矢の使い手は妖狐である事は、ほぼ確定した。
そして、煌卑はその妖狐の正体が判ってしまった。
「……豪、急ごう」
煌卑が強張った顔で呟く。
豪はその顔を見ずに頷くと、足音をたてて走り出した。
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妖狐狩りが見える頃には、豪はすっかり疲れ果てていた。
あれから矢の類いの攻撃は一切無く、順調に進めた事が少し不安だった。
むしろ、早くこちらに来て欲しかったのか、妖狐狩りは、ちょいちょいと手を振ってこちらを招いていた。
彼は、背が豪の胸元までしかなかった。
そのわりに、地面に付きそうなほど長い、純白と淡紅色の交ざった服を三枚くらい着重ねている。
その姿は十二単を連想させる物だったが、頭をすっぽりと被うフードが和服とは程遠い何かを感じさせた。
そして、胸には金色の、狐が尾を巻いた様な装飾を施している。
「久しぶりだな、煌卑よ」
やがて、彼が言葉を放つ。
頭に響く重い声に、豪は妙な違和感を感じていた。
体の底で何かが蠢くような……懐かしい声に感じた。
そんな豪には一切目をくれずに、彼は煌卑との世界に入り込んでいる。
煌卑は彼を忌まわしそうに見ながら、声を絞り出すようにして言い放つ。
「……やあ、千怒。なぜ、攻撃をして来たんだい」
「貴様が居なくなってから、我が夜桜の盾の評判はがた落ちさ」
煌卑の問いを無視して、彼は話を続ける。
その態度が気に食わないのか、煌卑は拳を強く握る。しかし、攻撃の素振りは見せなかった。
千怒はその怒りに気付いたのか、けらけらと笑った。
「なんだ、逆怨みか? 攻撃されても、貴様なら生き残れるだろう? 単なるおちゃめだよ」
その返答を聞いて、煌卑は鼻で笑った。
豪を指差すと、千怒がようやく気付いたのか豪の方を見る。
「残念ながら、こいつ、豪が死んだんだよ。……私がよみがえらせたけども」
良く見えないのか、千怒がフードを取る。
すると、おびただしい程の傷だらけの醜い顔が姿を表した。
醜いが、しかし、一度見れば決して忘れられないような力を帯びる顔でもあった。
豪も多少なりとも傷はあるが、それを余裕で上回る傷の数。
──俺以上の壮絶な人生を送ったに違いない。
そう豪は思い、千怒の目を見つめると、ぞわっと鳥肌がたった。……冷徹な目。
初めてだ、こんな恐ろしさは。生きた心地がしない。
心臓を冷たい手で鷲掴みにされた様な、そんな気分だ。
思わず握る短槍に力が入る。
それに気が触れたのか、急に千怒が脇腹へ蹴りを入れてきた。
とっさに、それを、短槍で弾く。
しんとした静寂に、痛々しい音だけが響いて消えた。
かなりの強い力だと解った。腕がピリピリとする。
これを喰らっていたらどうなったのか、考えるだけでも恐ろしかった。
「何をしているのさ! ……また殺す気かい?」
煌卑の一喝で、千怒の敵意はふっと消え失せた。
やがて、豪の方を見下ろすと、一礼する。
「豪とやらよ、すまなかったな。……中々良い腕だ」
豪は何も言わず、礼を返した。
いつの間にか汗をびっしょりかいていたらしい。汗に濡れた背中が風に吹かれて冷たかった。
二人が顔を上げると、千怒は煌卑の方へ向かう。
そして、煌卑の肩に手を置くと、千怒はこう耳元で囁いた。
「いずれ、貴様を連れ戻しに来る」
そう言われた瞬間、煌卑の目が見開いた。
すぐさま千怒から離れると、じっと千怒の目を睨み付ける。
千怒はにやっと笑うと、フードを被り直して、草原の向こうへと歩き始める。
やがて、点になり、見えなくなった。
──しばらく、煌卑の頭の中には千怒の言葉が繰り返されていた。
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気付いた頃には、日はもう暮れかかっていた。
青々とした草原が今や、どこまでも夕焼けの色を映し出している。
それを踏みつけながら、二人は限り無い草原を歩いていた。
千怒とやらに出会った頃から煌卑の気分が低く、変なちょっかいはおろか、一言も喋らずにかなりの時が経つ。
それもそのはず。豪自身も今まで体感した事が無い、恐ろしい気分を味わったのだから。
あんなのと目を合わせれば、こうなるのも仕方がない。
千怒の事について、豪は訊いてみたかったが、煌卑の気分がまともに受け答え出来る状況では無かったので、後で訊こうと思った。
しかし──
(……黙っていれば、中々の美人だな)
豪は横目で煌卑を見下ろしながら、こう思った。
夕焼け色に染まるその顔は、煌卑の気分の低さもあってか、かなりの哀愁が漂っていた。
やがて、草原の奥にぽつんと一つの村が見える。
豪は、妖狐狩りに見つかるとまずいと思い、その村を避けて通ろうとしたが、煌卑があの村に入ろうと言ってきた。
「あんた、その格好だと耐久面に問題があるだろう。それに、目立つ。まともなのを作ってあげるから、妖狐狩りが居るのを承知で、ひとまずあそこで休ませてもらおう」
豪は客観的に自分を見る。
奴隷生活で麻痺していたが、このボロボロの布切れは確かにおかしい。
大人しく煌卑の言う通りに、あの村へと豪は向かう事に決めた。
黄昏時に二人の影は、どこまでも、どこまでも伸びきっていた。