三 よみがえりの始まり
どこまでも晴れ渡る青空の下、豪と煌卑は草原を駆けていた。
次々と景色が移り変わる度に、心地良い風が顔を拭う。
不思議に爽やかな気分になれ、体も軽く感じた。
犬でも連れてくれば、喜んでここを駆け回るだろう。
やがて、一つ弓弦が甲高く鳴ると、豪は地面に伏せる。
矢が頭上を駆け抜けるのを確認して、再び走り出す。
そして、煌卑があの玉を一つ取り出すと、空に向かって放り投げた。
それが発光したかと思うと、急に風が背中を押してきた。
追い風だ。それも、かなり強い風で、走るだけでもスキップのように体が浮く。
矢も時折、風に逆らえず、こちらへ向かってくる前に落ちたり、変な方向へ曲がったりする事もあった。
「……すげえな、気候まで変えられんのか」
尊敬の声を上げると、煌卑は満足げな顔をこちらへ向ける。
気候を変える程の妖術……。
なるほど、これじゃあ、妖狐狩りから狙われるわけだ。
矢に一本も当たる事無く、草原を駆け続ける。
だが、近づけば近づくほど風の抵抗する時間は少なくなり、矢の速度は速くなる一方。
いつ当たってもおかしくない程、イヤ、そもそもまだ当たっていない事が奇跡だろう。
やがて、そろそろ豪の顔が苦痛に歪んできた。
奴隷生活で体力には自信があるはずだが、慣れない草の床に戸惑っているのだろう。
それに対して、ただ真剣に走り続ける煌卑は疑問を浮かべていた。
(おかしい……、ここまで走ってまだ敵が見えないとは。さっきの距離まで矢が届くはずがない)
煌卑の眉がかすかに曇る。
幻覚か? 高性能な弓か? 怨子の妖術か?
様々な仮説が頭の中で立てられたが、それが次の瞬間、音をたてて崩壊した。
大地を震わす和太鼓の音色が響く。
すると、渡り鳥が集団で空を覆い尽くすように、一斉に矢が広大な空を覆い尽くしたのだ。
矢弦の音など聞こえなかった。その刹那、煌卑は確信した。
──妖術だ。それも、かなり強い。
煌卑の目が深く濁る。
ここまで強い妖術は、怨子を遥かに超える。
かといって、妖狐の可能性も低いだろう。
わざわざ同種が狩りに来る事はない。……イヤ、あの三匹は違うな。
そうこう熟考している内に、いつの間にか二人は矢の影を踏みつけていた。
もう、かなり近い。
それなのに、二人とも冷静過ぎた。
豪は、はあはあと息を切らしていたが、その目には油断ならないある決意の光を持っていた。
目と鼻の先に、矢が迫る。
盾でも持っていれば避けられはするが、あいにく、豪も煌卑も粗末な服装で、どうする事も出来ない。
その刹那、一つの矢が無造作に、地面へと突き刺さる。
それを合図に、一斉に矢が雨あられと宙を切り、地面を貫いていく。
その瞬間、豪は急に煌卑に向かって倒れてきた。煌卑の目が丸くなる。
──やがて、ふわっと豪の匂いが煌卑を包む。
豪は煌卑に覆い被さると、全身にその矢を受けて、ふっと、息絶えた。
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気付けば、辺りは闇。水の中のような、息苦しい闇に包まれている。
この感覚を豪は忘れていなかった。
そして、目の前には煌卑。これもまた、あの時と同じだ。
豪の無言で煌卑を見つめる目には、深い深い水の底のように冷たく、生気が全く宿っていない様に感じた。
それを見て、煌卑は心の中で溜め息を吐く。
「全く、折角の命を無駄にしてどうするんだい。恐れを知らない男だね」
呆れた様に言うと、虚ろな目のまま、豪の眉間にシワが寄る。
「守れと言われたから守ったんだ」
「そんなもの、妖術でなんとか……って、今のあんたには妖術は無かったね。すまない」
豪の心の奥底から怒りが湧いてくる。
命を呈して守ったつもりが、それが不必要だと言われたら当然だ。
……しかし、良く良く考えれば煌卑には妖術がある。
あんな矢の集団くらい、どうにでもなったのかもしれない。
決して納得してはいない自問自答だが、それでなんとか怒りの火を鎮火した。
豪が一つ深呼吸をすると、冷静に煌卑を見た。
「俺は、この先どうなるんだ? もう、あんな妖術が普及しきった世界じゃ、俺は大して役に立たない」
「大丈夫、死んでも生き返らせてあげるさ。私の妖術でね」
豪の目から曇りが抜ける。
少し嬉しそうな目をこちらに向けてくるもんで、思わず煌卑は笑った。
その健気な目が、どうしようもなく純粋で、どうしようもなく滑稽に見えたのだ。
豪は煌卑の思いに気付いたのか、すっとその目から感情を無くした。
「それに、妖術なんて覚えれば良い。あんたには、その才能があってもらわなきゃ困る」
煌卑は豪に指を指して、押し付けるようにして言う。
豪は眉一つ動かさず、ただ一言だけ。出来るのか? と呟いた。
「ああ、出来るとも。あんたなら、怨子なんかより、ずっとずっと強い妖術使いになれるはずさ」
お世辞だ。
そう豪は思ったが、あまりにも煌卑の目が綺麗に光るもので、あえて口にするのを止めた。
それに、もし、妖術を覚えられたら覚えられたで、これ異常に得な事は無い。
恐らく、さっきの矢の攻撃は妖術だろう。
そして、煌卑の飴を出すのも、気候を変えるのも妖術。
つまり、妖術は人を救ったり、殺す事が可能なのだ。
人々を救いたいのなら、それを覚えるのは必要不可欠。
……つかのま、豪は何かを思い出しそうな気がした。
もやもやが、水面に浮き出ては消え、浮き出ては消えを繰り返しているように。
しかし、それは考えれば考えるほど、消えてしまう物だった。
やがて、呆気なく水の奥底まで沈んでしまった。
その思いつきは、じつは、とてつもなく大切な思いつきだった。
しかし、それを知る由も無かった豪は、それを再び思い出すまで、豪の頭によみがえる事は無かった。
「どれ、手始めに、あんたを殺した妖狐狩りに復讐をしようじゃないか。これを持ってくといい」
そう言うと、煌卑は何処からともなく短槍を取り出して、豪に渡した。
豪はそれを握ると、かつての奴隷生活を思い出した。
若い頃に一時期、短槍を使用していた思い出がよみがえる。実にイヤな思い出だが、それと同時に体の意識が短槍に集中してくるのを感じた。
血がたぎり、体が震える。
認めたくないが、体が闘争を求めている。
少しそれを振り回して見ると、イヤでも良い素材だと判った。
闘技場で使った粗末な物とは違う。
石突きの部分に、美しい金色の装飾。
それに、握りやすいように計算された太さ、片寄らない適度な重み。
どれもこれも感動を覚える物だった。
試しに、手馴れた動作で突きを繰り出す。
手から滑りにくく、なおかつ、いざとなれば滑りやすい。
これは短槍を使い果たした者にしか解らない魅力だ。
振り回すと、しなりやすくもあり、丈夫でもある。すぐに自分の体に馴染める代物だった。
「……別に妖術が無くても、生きていけそうだね」
豪を傍観しながら、煌卑がぼそっと呟く。
それは豪の耳には届かず、一人でその短槍の魅力に取り付かれて、狂ったようにそれを振り回していた。
無駄な動きは多かったが、どれもこれも油断ならない一撃だという事は判る。
振る度に風を強く切る音が聞こえた。
やがて、手を鳴らす音が聞こえると、豪は、ふっと動きを止め煌卑の方を見た。
そこには、いつぞやの青い光を帯びた穴が、胡散臭く空いていた。
「さ、もう一度行くよ。よみがえりの始まりさ」