二 よみがえり妖狐
目の前に壮大な草原が広がる。
太陽の光を浴びて、キラキラと光る草原。宝石みたいに輝く川に、青い鳥がじゃれている。
そして、所々に、緑がかった遺跡のような建造物が転がっていた。
若いときから土臭い闘技場や石の壁しか見ていない豪にとっては、まさに異世界に見えた。
それを見て、豪は少しワクワクしていた。
久しぶりの感覚だ。この、心の底でもやもやと疼く何かは……。
血の気が一切混じっていない新鮮な緑の空気を飲み込むと、ふいに、頭の中で不安がはじける。
思い返せば、あの女は誰だったんだろう? この世界はなんなんだろう? それに、何の目的であの女はここにつれてきたのか?
人は、利益を求め、利益なしには人を助けない。そして、いざとなったら知らん顔で裏切る。
そんなことは、さんざん知り尽くしている。あの女を信用して良かったのだろうか……?
今さらになって襲いかかる後悔に、豪は顔をしかめた。
イヤ、元々終わった人生だ。恐れる事は何もないのか。
「なんだい? まだ迷っているのかい? 図体のわりに、臆病な人間だね」
聞き覚えのある声が、豪の熟考を止める。あの女の声だ。
丁度良い、今さっき考えてた事を訊いてみよう。そう思い、声のする方へ振り返る。
……が、居ない。何処にも居ない。
ただ、青々とした草原が広がっているだけだ。
「おーい、何処を見ている? こっちだよ、こっち」
それでも、声がする。
確かにこの方であっているはずなのだが……。
「……下、下! もっと下を見てみたらどうだい」
下……? なんだ、目の前で倒れているのか?
そう思い、言われる通り下を見てみると、そこにはこぢんまりとした青白い狐が豪の方を見上げていた。
目が合うと、狐の尻尾が揺れる。
「そう! 私さ。あんたをこの世界に招待した、私!」
何の冗談かと思った。
豪は眉にシワを寄せると、しゃがみこんで、狐の目を見つめてみる。
この狐が、あの時の不気味な女だと? 信じられない。
目の前の狐も、信じられないのも仕方がないのだと思ったのだろう。
証拠を見せてあげると言い放つと、てくてくと豪から離れる。
やがて、豪が立っても視界に入る距離まで離れると、突然狐からもくもくと白い煙が吹き出した。
影しか見えない位に煙に身を撒くと、みるみるうちに狐が人の姿になっていく。
見覚えがある。青白い肌に、妖艶な面構え。間違いない、あの女だ。
広大な草原を背景にその女が立つと、絵画のように中々さまになっていた。
「……驚いた。狐の女、どういう仕組みだ」
淡々とした口調で、豪は言い放った。
動揺すら見せない彼に、女は少し不気味に思った。
「狐の女……。ちょっとまどろっこしい言い方だね。私の名前は煌卑だよ。これから付き合う仲だから、覚えておくんだね」
豪の表情が少し曇る。
「これから付き合う仲……? どういう事だ」
「その事については後で話すよ。今はさっきの変身や、この世界のことを知りたいだろう?」
豪の表情は曇ったままだが、やがてゆっくりと頷いた。
煌卑が一息吐くと、豪に向かって説明を続ける。
「さっきのは妖術。人々の憎しみを対価にして、人々を惑わす……と言うのが一般常識だね。まあ、実際にはなんでもありの便利なものさ」
煌卑は懐から玉を一つ取り出して豪に見せつける。
異世界転移の時に使った、あの玉だ。
「実を言うと、あんたをこの世界に連れてきた時のアレ。アレも妖術さ。異界の魂をも自在に操れるんだ。便利なもんだろ」
持っていた玉を捻り潰すと、煌卑の手のひらから飴玉が溢れてきた。
どうだ。とでも言いたげに豪に見つめるが、豪は黙ってそれを見つめていた。
こう、なかなか反応が無いとからかうのも面白くないものだ。
そう思いつつも、そのいくつかを豪に譲ると、煌卑は一つの飴玉を口に頬張る。
「……んでもって、この世界はそんな妖術に満ち溢れている。中でも、妖術をなりわいとする者を怨子と呼ぶんだ。……ただ、そいつらの妖術は変にまどろっこしくてね」
聞きながら、豪は飴玉を懐にしまい、その内の一つを口に頬張る。
……甘い。甘すぎない、まろやかな甘味だ。こんな物は久しぶりだ。
煌卑は、豪の表情がどんどん穏やかになっていくのを感じて、すこし微笑んだ。
「でもね、その中でも、ずば抜けて妖術の扱いが上手い奴がいるんだよ。……妖術でこんな甘い飴を作れる妖狐ってやつがね」
豪は眉一つ動かさずに煌卑を見つめると、くすくすと優艶に笑った。
「薄々気付いてはいるとは思うけど。そう、私は妖狐さ。でなければ、あんな技は使うことなんて不可能に近いからね」
全く気付かなかった。その表情が伝わったのか、
「気付かなかったのかい、馬鹿だね」
となじられた。
思い返せば、異界の魂を呼び寄せる程の莫大な妖術。
それに、あの狐の姿。考えれば考えるほど、彼女を妖狐だと疑うべくもない。
「そして、あんたが疑問に思ってた、これから付き合う仲の件について話そう」
煌卑は、飴玉を素早く噛み砕く。
それを豪は、もったいないと思った。
「見ての通り、私達、妖狐は莫大な妖術を持っている。それは、武器にも使えるし、商売にも使える。それゆえ、国が妖狐を一匹持てば、その国は一気に強くなる」
突如、矢が二人の間をヒュンと、すり抜けた。
豪は飴を飲み込み、咄嗟に矢が放たれた方へ構える。
「だから、私達、妖狐は国から……、妖狐狩りから狙われているのさ」
豪は目を背けずに、煌卑の思惑を察して、力強く叫んだ。
「……つまり、その護衛として俺を連れてきたってことかっ!」
「その通り!」
次の瞬間、豪と煌卑はキラキラ光る青白い草原のなか、足音をたてて走り始めた。