一 人の心を取り戻すよみがえり
ズバッと斬られて、豪の生涯は終わった。
そして、今。豪は何もない暗闇に、一人ぽつんと立っている。
見た目は五十歳位の男性。その年齢と言えど、がたいは良い。
老け顔ではあるが、衰えを微塵も感じさせない虎のような威圧感に満ち溢れていた。
その証拠として、こんな暗闇の中でも彼の容姿は凛々かった。
やがて、豪はきょろきょろと辺りを見渡す。
どこを見回しても殺風景な闇ばかりが続くばかり。
一通り見回すと、彼は、自分が小さく見えるほどの膨大な闇の中を、戸惑いもなく歩き出した。
不思議なことに、こんな大柄な男が歩いても足音も響かなかった。
だが、彼はそんなことは気にせず、自分がおかれている状況について冷静に考えていた。
──まず、彼は奴隷経験を送っていた。
見世物として、今まで付き合っていた友達と闘技場で闘わされて、ザックリイカれて息絶えたはずだ。
……正直、すぐに死ねて良かったと思っている。友の悲しむ顔なんて見たくなかったからだ。
それで、今、この不思議な空間をさまよっている。
周りを捜索してみたが、この闇はどこまでも続くみたいに深い。
さらに、水の中に潜ったときの耳のつまりと息苦しさが豪を襲っていた。そのお陰で額にぽつぽつと汗をかいている。
何もない、何もできない。
考えても仕方のない事なので、豪は考えるのを止めて、その場にどさっと座り、何か変化が起きるのを待った。
(昔から、諦めるのは得意だったな……)
苦い思い出だ。無駄な傲慢は過去に捨てて、奴隷人生に適応した性格に変わっていったものだ……。
豪は日本に生まれ、若くして裏の世界の見世物奴隷になる。
その世界の王と民衆を楽しませるためだけに、今まで闘ってきたのだ。
最初こそ不満やあがきはあったが、それがすべて無駄だと悟った瞬間、それは、どこかへ消えた。
闘って、殺して、寝る。
そんな単純作業をやっていくうち、心はやがて壊れていき、意思を持たない機械になってしまった。
思えば、それは幸せなことだったのかもしれない。
しかし、性根の腐った王は何の反応もしない彼を、これでは面白くないと思い、若い頃からの友人と闘うよう命じたのだ。
諦めぎみな豪も、これだけは諦めずに、抗い続けた。
これが、心の奥底に残っていた、唯一の人の心だったのだ。
しかし、必死の反抗も空しく、とうとう友人との決闘が開始して、負けた。
そして、今やこの有り様だ。
待つにつれて大きくなってくる足音を、豪は聴き逃さなかった。
──響かぬはずの足音。
豪はとっさに立ち上がり、足音のなる方へ構える。
ゆっくりと大きくなるそれに比例して、闇の中からゆっくりと人が近づいてきた。女だ。
男だらけのむさ苦しい世界では、見たことの無いほどの妖艶で、絶世の美女に見えた。
しかし、その余裕のある凛々しい顔や油っけのある髪とは別に、その肌は幽霊のように青白く、不気味に思えた。
不思議と、この闇の中は明るく、黒い紙に縁取りしたように目の前の女がきちんと見える。
思えば、闇と言うには明るすぎる。闇と言うより黒い部屋にいるみたいだった。
「……さんざんな人生だったね」
淡々とした口調で、女が問い掛ける。おとなしいが、高圧的な声だった。
豪は無言で警戒を続ける。
「幼い頃から奴隷人生……。おまけに友に殺された……か」
豪の眉間にシワが寄る。
ぐつぐつと赤く煮えたぎる怒りを必死で押さえながら、ただ、女の方を睨んだ。
その睨みに気付いたのか、女は豪の目を見てクスクスと笑う。
やがて、ふっと真顔になると、豪の目をまっすぐに見た。
貫かれるような冷たい目だった。
「そこで、だ。新しい人生を始めないかい? それも、こんな腐った世界じゃあない。あんた達で言う、異世界さ」
一瞬、警戒がほどけた。
このふざけた一言が、緊張をほどかした訳ではない。
この女を、良いやつだと思って、警戒をほどいたのだ。
その安堵が伝わったのか、女は口元に笑みを浮かべる。
「……やはり、まんざらでも無いみたいだね」
さて。と、女が呟くと、懐から三つの丸い玉を取り出す。
豪はすぐに構えを取り直したが、先程みたいに、一切の隙のない構えではなかった。
明らかに動揺している構えだ。
やがて、その玉を女のにやけ面の前に重ねると、息を吹きかけた。
すると、三つの玉から出た目映い光線が宙を舞う。
その光線が円を描くと、そこにぽっかりと、人が通れるくらいの青い穴が開く。
非現実的で異質な光景だった。
女は、しわしわになった玉を捻り潰すと、粉になったそれをその穴に向かって吹き掛ける。
黒い背景に浮かぶキラキラと宙を舞うそれは、夜空に浮かぶ星にも見えた。
やがて、その粉が見えなくなる頃には、青い穴は程よく光を帯びていた。
「……さて。ここに入ると、その世界に行けるよ。その世界で今までの不満を解消するなりすれば良いさ」
豪の目を見つめながら、彼女は静かにこう言った。
妙な優しさと慈愛に満ちた目。豪は、彼女の事を警戒する事を忘れて、何かを熟考する。
もしかしたら、彼は人に戻れるのかも知れない。
人の心を取り戻して、今までの罪悪感を脱ぎさって、自由の身になれるのかも知れない。
──豪の曇った目に、光が宿る。
「俺は……。俺は……」
息を一つ大きく吸い込むと、意を決してはっきりと呟いた。
「俺は、今まで殺してきた奴と同じ分、人を救ってやる」
自分達の心臓の音が聴こえるほどの静けさのなか、その小さな声が大きく響いた。
女が呆気に取られたように彼を見た。
その時の彼は、人の姿をしていた。