第87話 渇望
「ん......、うッ?」
薄暗く冷たい牢獄で、ティナ・クロムウェルはその碧眼を開けた。
まだ意識が混濁し、ここに至るまでの経緯が判然としない彼女を、腹部からの激痛が思い出すように襲い掛かった。
「ぐふッ......、は!」
同時に、ティナは血の欠片を風化した床へ吐き出す。
か細い両手は手錠で拘束され、いつもの蒼が鮮やかな制服の代わりに、白一色の薄いトップスとショートパンツが彼女の幼く可憐な体を包む唯一の布だった。
最低限衣類があるだけマシと割り切り、ティナはすぐさま状況の把握に勤める。
まずここが牢獄であり、自身の惨めな格好から捕まったのだと判断。だとすればアジトだろうか、一定感覚で響く地揺れのような振動も気になるが、今は脱出方法の模索が最優先だった。
門番は居ないが、鍵はガッチリ掛かっている。
手は使えない、ピッキングしようにも道具一つ無く、ましてや満身創痍。とても壊せそうになかった。
「通気口も無し、壁に綻びも見えない......こんなのお手上げじゃない」
思わず座り込む。
寒い......、これからどうなるのだろう、普通に考えれば尋問かその他聴取、拷問――。
ティナは無意識に王都での生活を思い出していた。
夏を楽しく乗り越えられるよう、フィオーレと出会った喫茶店を苦労の末見つけた時。
あそこのケーキを、皆と一緒にもう一度で良いから食べたい。
こんな場所じゃなく、家のお風呂にゆっくりと浸かりたい。
ミーシャから貰った激辛料理店の一品無料チケットも、まだ使っていなかった。
思い出せば出す程、ティナはガラスのような瞳から溢れる涙を止められなくなる。自分は何故騎士になったのだろう、こんな目にあうのなら、いっそ騎士になんか......。
――――ガンッッ――――
そこまで考えて、ティナは人生で最も愚かな思考をした頭を鉄格子へ思い切り叩き付けた。
デコから鮮血が伝い、手を拘束する錠が赤く染まる。
――バカバカバカバカバカッ!!!!!
胸中で罵倒を繰り返す。
希望だけは捨ててはならない、もう一度蒼い空を見るつもりで動くべきなのだ。
ティナ・クロムウェルは再び決意する、必ず故郷へ帰ってやると。
だが次の瞬間、その影は現れた。
牢獄前にいつの間にか立っていたのは、並の大人程はあろう二体の『ファントム』。
彼らはおもむろに鍵を開け中に入ると、警戒心をあらわにするティナの腕を掴んだ。目を覚ましたのを知って連行するつもりなのだろう。
今なら鍵は開いている、手は塞がっているので、ティナはその華奢な足で蹴りをファントムへと浴びせる。
必死の抵抗だった、絶対に生き延びてやるという意地に近い。
それでも、武器を持たない彼女では限界があった。
「がッッ!?」
もう片方のファントムが、ティナの無防備な脇腹へ蹴りを入れ返していた。その場で崩れ落ちたティナは、生への渇望に満ちた目でファントムを見上げる。
諦めたくなかった、奇跡を......彼女はただひたすらに奇跡を願った。そしてそれは、この場に居る筈も無い王国軍騎士によって目の前で起こされた。
「大当たりですよアミアン一等騎曹!! やはり攻撃精神こそ最善手なんですって!!」
「威力偵察ってこれかよ!? もう奇襲じゃねえか!!」
ティナを連行しようとしたファントムは、二人の王国軍騎士が剣によって、いともあっさり葬られた。
王国軍第六師団、エルキア山脈偵察隊のアミアン一等騎曹と、エラン三等騎曹。
彼らは幸か不幸か、プレアデス発進の際に機内へ巻き込まれていたのだ。