第79話 奪われるという事
ロンドニア西方地区では、鞘に剣を入れたままのヘルメスがクロエを圧倒していた。
重量を感じさせない速度の剣技は、その場の誰よりも強く、異質であった。
「お兄ちゃん目を覚まして!! そんなヤツなんかに操られないでよ!!」
杖を握りしめながら、フィリアは目尻に涙を浮かべて呼び掛ける。
しかし、ヘルメスの瞳に光は宿っておらず、薄気味悪いローブ男をただひたすらに守り続けていた。
「無駄ですよ、私の『洗脳魔法』は闇が深い程に効力がある。彼の権力に対する憎しみは非常に大きかったのでそう簡単には解けないでしょう」
ヒューモラスはおどけるように言うと、ボロボロになってなお一点で突っ込んでくる黒髪の少女を見た。
紫色に輝く目は、スキルを発動している他に激昂しているせいか恐ろしく凶暴に光る。
立ち向かっては弾かれを繰り返す彼女は、常にヒューモラスだけを眼中に入れていた。
「だああああああああッッ!!!」
もう十回は繰り返しただろう攻撃。
それでもクロエは諦めない、猛烈な蹴りでヘルメスの鞘を宙に飛ばすと、一直線にヒューモラスへと接近した。
「展開、『魔甲障壁』!!」
クロエのマジックブレイカーをもってしても貫通を許さないそれは、アッサリ彼女の突き立てた剣を止めてしまう。
余裕に満ちた表情を浮かべるヒューモラスに、クロエは障壁越しに睨みつけた。
だが、その膠着状態も一瞬で終わる。
「あぐッ!?」
ヘルメスの鞘が彼女の脇に痛打を与えたのだ。
地面を転がったクロエは仰向けに倒れると、笑みを浮かべるヒューモラスを未だ闘志のこもった目で見つめる。
この魔導師が口にした"グラン·フィアレス"とは、クロエの亡き父親であった。何故こいつが、何故こんなやつが父を知っているのか、彼女は何としても知りたかった――。
「分かりますよ、何故私があなたのお父上を知っているのか聞きたいのでしょう?」
それは最も探していて、最も望んでいなかった答え。
「では改めて自己紹介を。私は元プラエドル頭首にして、元王国軍第四魔導師中隊所属ヒューモラス·ブレイン! 十年前に王都を襲撃し、君の父であるグラン·フィアレスを殺したのは、他でもない私です」
クロエの中で何かが切れると同時、スペアの短刀を彼女は秒も掛からず取り出すと刃を投擲。
殺意で覆われた剣は刺されば喉に、しかし寸前で避けられ頬を掠めるだけに終わった。
「父親に似て諦めが悪い、期待していた抵抗がこの程度とは......笑止!!」
ヒューモラスはかざした手のひらから障壁を具現化すると、押し潰すようにクロエへと叩き付けた。
「がっ......ッッ!!」
障壁の重みはドンドン増し、やがて岩石を粉々にする圧力となってクロエを襲った。
石畳ごと押し潰され、体中の感覚が激痛に埋もれる。
「クロエさんから離れろおッ!!!」
魔法杖に爆発魔法を付加したフィリアが肉薄、硬いマナクリスタルの部分でヒューモラスを全力で殴り飛ばした。
「ぬおおおっ!?」
突然の奇襲にガードをし損ねたヒューモラスは、盛大にふっ飛び民家へと突っ込んだ。
クロエを圧迫していた障壁が消え、雨音だけが周囲に残る。
「ヘルメス貴様! 何故私を守らなかった!?」
起き上がったヒューモラスは、支配下にはある筈のヘルメスが何もしなかった事に激怒した。
そして、ある可能性にも気付く。
「まさか......まだ私の魔法に逆らっているというのか」
もしそうだとすれば、これまでの辻褄。
剣ではなく致命傷に至らない鞘を使い、妹であるフィリアに攻撃を一向に行わないという一連の流れが噛み合うのだ。
「――どうやらここまでのようですね」
こうなっては、最悪ヘルメスの洗脳が解けかねない。
ファントムの秘密を見た者の大半をここで始末しておきたかったが、殺されては本末転倒だ。
何より、別所で交戦しているエルミナの断末魔が聞こえた気がした。
「行きますよヘルメス、退却です」
屋根に飛び移ったヒューモラスは、ヘルメスを従え雨中に消え去ってしまった。
何も出来なかった......、フィリアは沼のような喪失感に包まれるとその場で膝を着く。
「グスっ......うぅっ、ぐッ」
泣き声が聞こえた。
それは初めて聞くクロエの、怒り、悔しさ、憎悪、全てをグチャグチャに混ぜ合わせたような嗚咽だった。
「勝てな......かった、お父さんの仇だったのにッ! 何も......えぐっ、出来なかった」
曇天を見上げながら、彼女達は己の無力さを思い知った。
大切な人を奪われ、悔し涙を流すしか出来ない自分がどうしようもなく哀れに見える。
「クロエさんだけじゃないです......、私も......っ、結局変わってなかった! 軍に入って、変わったつもりになってただけだった......!」
どうしようもなく大きな壁、突き付けられた現実はこの日、第三遊撃小隊を完膚なきまでに打ちのめした。