第44話 至高の時間
「ただいまー」
木製の扉を引き、ティナはようやく自宅へと帰った。
見慣れた玄関、嗅ぎ慣れた家の香りにホッと安心するや否や、奥から一匹の子猫がティナを出迎えた。
「ミーッ」
「久しぶりミニミ、いい子にしてた?」
腰を下げて優しく頭を撫でる。ティナの問いを理解できたかは不明だが、ミニミはくすぐるような声を出した。
アクエリアスで拾った時に比べるとだいぶ回復したようで、その鳴き声には活力が宿っている。
「お帰りティナ、研修はどうだったんだ?」
ミニミに続いて姿を現したのは、ボサボサの茶髪に濃い髭を付けた大柄な男。彼女の親であるカルロス・クロムウェルだ。
駐屯地ではペットが飼育できないので、ミニミの主な世話をしているのも父親だ。
「個人的には成功かな、色々あったけど冒険者の人達とも仲良くなったし、きっと無駄にはならないと思う」
「そうか、お前がそう思えるんなら俺は良いと思うぞ。疲れただろ? 風呂をいれてるから入るといい」
「ありがとお父さん、じゃあそうさせてもらうわ。どの道エルド少佐へ報告するのに汗付いてるとマズイし」
父親の好意へ甘える事にしたティナは、真っすぐお風呂場へと向かった。
三型戦闘服を脱ぎ捨てて幼い成長途上の体を晒け出す。いっぱい食べている筈なのだが、胸はやはり年相応というか膨らみが足りず「発展途上国......」とティナは呟いた。
今頃クロエやフィリアも同様だろうと、自己を安心させるべく言い聞かせてから浴場の戸を開ける。
「日が落ちるのもすっかり遅くなったなー」
夏は日没が遅いので、空は夕方でも昼間と大差ない。
窓から差し込む光が光沢ある壁に反射し、湯気に包まれたお風呂場全体が照らされていた。
日光に輝くシャワーを肌に浴びせ、リンゴの香りがするボディーソープでかいた汗を綺麗サッパリ洗い落とす。
「そうだ、さっきルノから貰った入浴剤早速使ってみよっと」
別れ際ティナは、「お近付きの印に」と、実家でハーブ店を営んでいるというルノからハーブの入浴剤。ミーシャからは今度オープン予定の激辛料理専門店で使える一品無料券を頂いたのだ。
「はぁ~......ハーブの良い香り、落ち着く~。激辛料理店の無料券はまた使うとして、この入浴剤今度普通に買おうかしら」
材料はカモミール。甘い香りが彼女を抱擁し、透明なお湯を優しい乳白色で覆い隠した。
湯船に浸ると思わず独り言が漏れるのは、入隊前からの変わらぬ癖だ。
明るい内に入るお風呂は贅沢の極みと言ってよく、ティナにとってこんなに気持ちの良い時間は他に存在しないと断言出来るレベルであった。
「ニャー」
ティナがお湯と悦に浸っていると、戸を器用に開けてミニミがお風呂場に入ってきた。
「あんたもサッパリしたいの? っていうか、猫ってお風呂嫌いじゃなかったけ。平気?」
ミニミはただゴロゴロと喉を鳴らす。
今にも人間の言葉を話し出すんじゃないかと期待したが、当然ながら猫である。その場で数秒にらめっこが続いただけだった。
◇
「あ~いいお湯だった。やっぱり日が出てる時に入るお風呂こそ至高ね、疲れも全部吹っ飛んじゃうくらい」
入浴から上がったポカポカのティナが、替えの三型戦闘服を来て居間に戻った。
「はは、お前らしいな、って......ミニミまで一緒に入ったのか? なんだよお前、俺が誘ったらすぐ逃げるくせに」
新聞を折りたたみながら、カルロスはミニミに対し届きもしない抗議をする。
暖かい家の雰囲気に、ティナは家を離れたくないと無意識的に感じてしまうが、職務上そうもいかない。
「もう少ししたら駐屯地へ戻るんだろ?」
「うん......、また起床ラッパを合図に着替えと点呼。起きないクロエのベッドを蹴る日常へと帰るわ」
「一秒でも遅れたら腕立て伏せなのは変わってないんだな、俺も昔よく同室の騎士のベッドを蹴ったっけな」
他愛のない会話。駐屯地で日々の大半を過ごす彼女にとって、こういう家族との会話は非常に大切な時間なのだ。
門限が迫り、ティナは荷物を持って玄関へと向かった。
空もそろそろ薄暗くなり始め、一日の終わりが刻々と近付く。
「休暇が取れたらいつでも帰って来いよ、あんまり間を空けると親不孝だぞ」
「はいはい、外禁食らわなかったらちゃんと帰るから大丈夫。お父さんこそ体調気をつけてよ」
靴を履き終わったティナが、扉をガチャリと開けた。
王都を照らす光は太陽から街明かりへと変わっており、暖色の家々が美しく輝く。
家の中から見送る父親に手を振り返すと、ティナはアルテマ駐屯地へと歩き始めた。