第九話:自分のための未来に
それから、どれくらいの時が経っただろう。
この部屋では時計が無いらしいのか、今が何時なのかも分からない。故に戸の間から日が傾いていく様をぼんやりと眺めているしかない。
戸の隙間から広がる景色は閑散としており、人の通りがあるとは思えないほど静まり返っていた。人の声も、足音も、鳥の声すら何も聞こえない。
誰もいないたった一人の静寂。人と隔絶されたような空間。セーラー服に着替えた伽耶は、戸の傍で膝を顔に埋めながら、心に襲ってくる恐ろしい孤独と戦っていた。
それはちょうど、その日がてっぺんギリギリに届くか届かない程の高さに上った時だった。
いきなり、突然に、唐突に、突然に、伽耶の部屋の戸が盛大に開けられる。
「―――おいおまえーっ! あるじさまがおよびだぞっ! いくぞーっ!」
それは、太陽の光を一心に纏う明るい向日葵色の髪をした少女だった。齢10程度のまだ幼い少女が伽耶の部屋の前で仁王立ちに立っている。
いきなり戸を開けられたことによって、何事かと伽耶は勢いよく振り返った。戸から入ってきた直射日光がきらきらと部屋に差し込んでくる。欝々とした心に、僅かに向日葵の光が降り注ぐ。
常盤色をしたまん丸の瞳が、じっと観察するように伽耶を見る。思わぬ来訪者に身動きが取れず、硬直したまま伽耶は少女としばらく見つめ合う。気まずい空気に、内心伽耶はだらだらと大汗をかいていた。
しかし、二人の沈黙を破ったのはもう一人の来訪者だった。
「―――日世、ダメじゃないか。ボクと一緒に行く約束だったろう?」
向日葵の影で、菖蒲の花が顔を覗かせる。
少女の背後から現れたのは、菖蒲色の髪をした年若い少年だった。11、12歳程だろうか。年齢に似合わず利発そうな容姿、ぞくりとするどこか冷めた瞳。
向日葵の少女とは対照的な物々しい雰囲気に、伽耶はたまらず息を呑んだ。
しかし日世と呼ばれた少女は唐突に現れた少年に驚きもせず、子供らしく不満げに唇を尖らせた。
「だってヨナキがのろのろじゅんびしてて、ちょーおそいんだもーん」
「そ、それはこれから主様に会うんだからちゃんと身支度はしないと……って、ボクの名前は夜鳴だ!!!」
「ヨナキはほんとあるじさますきだなー、まあ、ひよもだいすきだけどさー」
「ボクの話を聞け!!」
「あはははは!!」
けらけらと楽しそうに笑う少女に、恨みがましく少女を睨む少年。こうして見ると、とても仲の良い兄妹のようにも伺え、伽耶は元の居場所で笑い合う自分の家族がまぶたの裏に浮かんだ。
目の前で繰り広げられる漫才のような二人のやりとりについていけず、伽耶はただぼんやりとそれを眺めているしかなかった。
しばらくして、気を取り直した少年が一つ咳払いをして伽耶に向き直る。
「ちょっと脱線しましたが……、ボクらの主様がお呼びです。一緒に来てもらえますね?」
有無を言わせない威圧感に押され、伽耶はただただ黙って頷くしか出来なかった。
■
伽耶がいた部屋から、この屋敷の主という部屋までの道のりで驚くほど多くの人間とすれ違った。
これまで一体どこにいたのか、静まり返っていた伽耶のいた部屋周辺からは想像がつかないほど、多くの人間がこの屋敷にいたのだ。驚かない方がおかしいだろう。
落ち着きなくキョロキョロと周囲を見渡していると、すれ違った女中と目が合った。
「あ……こんにちは」
そう反射的に会釈すると、女中は伽耶の全身を上から下までじろじろと眺めた後―――まるで異物でも見たような目をして、すぐに伽耶から視線を外した。
そさくさと逃げるように立ち去った女中の後ろ姿を見送りながら、伽耶は疑問符を浮かべながら首を傾げる。
「……どうしたのかな? お腹でも痛かったのかな」
「おねーさんばかなの?」
「えっ!?」
唐突の罵りに、驚いて伽耶は目の前を歩く小さな少女を凝視した。
視線に気が付いた日世は目を点にさせる伽耶に振り返り、無垢な瞳でこちらをじっと見上げる。
見つめるだけの日世の代わりに、道を先行して歩いていた少年―――夜鳴が一度も振り返らずただ端的に言葉を紡ぐ。
「この屋敷に、異物という存在がいることが恐ろしいんですよ」
「……私?」
伽耶が夜鳴の言葉の意味を飲み込む前に、目の前を歩く彼らの足が唐突に止まる。
何事かと彼らの視線の先を見ると―――やたら豪奢な戸の前で昨晩出会った青い髪をした男、そして雀が伽耶たちの目の前に立ちふさがったのだ。伽耶は襲ってくる強烈なプレッシャーに、たまらず生唾を飲み込む。
日世たちが恭しく頭を下げる。先に口を開いたのは夜鳴の方だった。
「ご命令通り、例の御仁をお連れしました。……こちらに、主様が?」
夜鳴の言葉に頷いたのは、雀の隣に立つ青髪の男だった。
「ああ、そうだ。主様にはこちらでお待ち頂いている。お前たちは下がってよいぞ」
「……はい」
「えー、ひよ、あるじさまにあえないのー? ひよもヨナキもいっしょにはいっちゃだめー?」
日世が男の言葉に唇を尖らせ、じたばたと両手をばたつかせる。
傍の雀が日世の視線に合わせるように腰を折って、言い聞かせるように優しく微笑んだ。
「日世、主様はこれから大事なお話があるのよ。邪魔したらいけないわ。お話が終わったら、あとで一緒にお時間があるか聞いてみましょう?」
「えー……」
「ワガママを言って雀様を困らせるな、日世。行くぞ」
夜鳴が未だに渋る日世の手を引き、その場から連れ出そうとぐいと引っ張る。
「はーい……。……ヨナキだって入りたかったくせに」
「何か言ったか?」
「べっつにー。……じゃーねー、おねーさん。ころされないようにきをつけてねー」
「……え?」
振り向きざまの日世の不穏な言葉に、伽耶は一瞬何のことを言われているのか理解出来なかった。
こんなに平和そうな屋敷で、こんなにも平和そうな少年少女に囲まれていたせいか―――伽耶は見て見ぬふりを続けていた事実を、忘れようとしていたのかもしれない。
それは、目の前で伽耶を鋭利な視線で見つめる雀たちが物語っている。
―――自分は、まだ安心できる立場ではないのだということに。
「―――おい、貴様」
「は、はい!」
一歩、男が伽耶の前に出る。思わず昨晩の記憶が脳裏を掠め、恐ろしさに身を硬直させてしまう。
伽耶の中で平和の象徴であった日世たちが去ってからというもの、その場の空気が一気に氷のような冷たさを纏ったような気がした。
眉間に皺を寄せたまま、男は威圧感たっぷりに口を開いた。
「これから貴様には、我らが主様に二人きりで面会する機会を与える。主様直々のご判断だ。だが、くれぐれも……く・れ・ぐ・れ・も! 妙な気は起こそうとするなよ……その時は、貴様の首はこの場にないと思え」
男が威嚇を込めて、腰に下げた剣をわざとらしく握る。その言葉が嘘偽りで言っているのではないと、伽耶に意識させるためだろう。震える両手を、服の中に仕舞ったペンダントを握ることによって誤魔化す。
ちらと雀に視線を送ると、彼女は日世に見せたような優しい笑みとは真逆の、冷え冷えとした冷酷な顔をして伽耶を見つめていた。鼓動が早鐘のように脈打っている。恐怖と、不安と、憂虞。様々な感情が伽耶を胸を渦巻く。
(怖い……凄く怖いよ……。でも……)
逃げ場はない。立ち向かうしか、伽耶には許されていないのだから。
彼らの主に伽耶という存在が安全であり、危険視される人間ではないということを認知してもらえれば、恐らくこの最悪な状況も今よりは改善されるだろう。
そのためにも、この巨大な壁を伽耶一人で乗り越えなければならない。
伽耶はそんな意味も込めて、大きく頷いた。
「―――大丈夫です! 私、頑張ります!」
「何を頑張るんだ馬鹿者!! 斬られたいのか!!」
……早速、挫折しそうになるが。
しかし伽耶は自分を奮い立たせるように胸元のペンダントから手を放し、目の前で威圧する豪奢な戸を見上げながら、両手に拳を作って握りしめた。
「……それでは、こちらの戸からお入りください。主がお待ちです」
雀が――男が―――豪奢な戸の前から身を離す。
もう心は決まった。どう転ぶかは、伽耶の采配しだいだ。
目の前の戸の主との会話によって、すべてが決まるといっても過言ではないだろう。
自分自身の未来を掴み取るため、伽耶は大きく息を吸い込み―――意を決して戸を開けた。