第七話:始まりの挨拶は忍から
燃えるような長い緋色の髪が日の光を浴びて、きらきらと光の粒子の如く反射している。まるで彼女そのものが輝いているような錯覚さえ覚え、伽耶はぼうっと目の前で微笑む柔和な女に見入ってしまう。
女は穏やかな微笑みをたたえたまま、何か膳のようなものを両手に抱えながら伽耶の前に座った。
「お腹空いたでしょう。朝ごはんを持ってきたのだけれど、食べられるかしら?」
「朝ごはん……」
彼女に言われ、伽耶は初めて気が付いた。目の前に置かれた膳の上の食事を目にした途端、思い出したように伽耶の腹の虫が騒ぎ出してきたのである。
膳の上に置かれていたのはたったの三品だけだったが、漂うほのかな米の香りにたまらなく伽耶のなかにある空腹感が刺激され、膳への視線は外さないまま黙って頷いた。
「ふふ、お腹が空いているのは良いことだわ。さあ、冷めないうちに食べて」
女の言葉に頷いた伽耶は、早速膳に置かれた箸を手に取ろうと手を伸ばしかけ――はっと自身の両手首が動かないことを思い出した。
「あの、その前に……この縄を解いてもらってもいいですか?」
「あら、その縄……子龍ね。ごめんなさい、血の流れが止まってしまうほど縛っていたなんて……痛かったでしょう」
そう言って女が一本に括った緋色の髪を揺らしながら、伽耶の両手首の縄、そして両足首の縄を解く。途端、血の巡りが通うようになり、じんわりと体中に温かな体温が戻ってくる。両手首の縄の跡を擦りながら、伽耶は思わずほっと大きく息を吐いた。
「あの、貴方は……?」
いくばか余裕の生まれた伽耶は、自身の手足に巻き付いていた縄を手元で結び直している女に、おずおずと声をかけてみることにした。
思い出したかのように女がぱちくりと目を瞬かせる。
「ああ。そういえば、まだ自己紹介してなかったわね。私の名前は雀。この屋敷の主に仕えている者よ。宜しくね」
「雀、さん」
雀、と名乗る緋色の髪の女。どこかで聞き覚えのある名前に、伽耶はぐるぐると思考を巡らし――そして、はっと思い至る。靄のかかっていた脳内に、ようやく光明が差し込んだような気分だ。
明るくなった脳内に伴い、伽耶のなかにある昨晩の記憶がみるみる蘇ってくるようだった。
川に落ちた後。おかしな場所に辿り着いたと思ったら、まず殺気立つ男二人組に追いかけられた。それから不思議な少女に助けられて――ありがとうとお礼を言って――そこからは、ずきずきと痛む頭がこれ以上の記憶は無いと訴えてくる。これが昨晩起きた出来事の全てだろう。
「………」
しかしながら、目の前の穏やかな女が雀だとするならば、昨晩のまるで忍のような鋭利な雰囲気を漂わせていた女も、ここにいる雀ということになる。まるで別人と思わせるほど全く雰囲気が異なり、伽耶は少なからず戸惑った。
だが、危険なところを助けてくれて、こうして食事まで出してくれた雀に対してこれ以上言及することは躊躇われた。今はとにかく彼女の恩義に報いる方法を考えなければいけない。
伽耶は雀の返答に「そうですか」と返すと、出されたままのだった膳に視線を戻し黒塗りの箸を手に取った。
「いただきますっ」
「うふ、どうぞ。お口に合えばいいのだけれど」
雀の微笑みを受けながら、伽耶は両手を合わせて合掌する。
まずは銀の円状の器に入った、米のようなものを掬い上げ口に運ぶ。水気が少なくパサパサしており、普段伽耶が口にする米とほぼ遜色はない。味のない玄米のようだと伽耶は思った。
次に、同じく銀の器に入った汁物を手に取った。よくよく見てみると、春雨のような、白くてツルツルした麺状のものが、何やらネギと一緒に入っている。少し不安ではあったものの、勢いよくそれを啜ると、薄味だがサッパリした後味でとても飲みやすかった。
そして最後に、モヤシのようなものがぐるぐる巻きにされ、まるでモンブランのような形で皿の上に積まれているものを掬い上げ、口に運ぶ。塩か何かで漬けてあるのか、少々しょっぱいものの、普段伽耶が食べているようなごく普通のモヤシであった。
(なんだ……普通に美味しいや。ちょっと質素だけど、これはこれで……)
普段伽耶が生活の中で口にしている品ばかりで、ほっとどこか安心感が生まれる。やはり日本人は米が大事だな。うん。
ちょっと効きすぎた塩味にハマってしまい、ぐるぐる巻きのモヤシを黙々と食べていると、雀が上機嫌に口を開いた。
「その萌草は私が漬けたのよ。美味しいでしょう?」
(萌草ってなに!? モヤシじゃないの!?)
聞き覚えの無い単語に仰天しながらも、伽耶は雀のうんちくをうんうんと咀嚼し頷きながら聞く。どうやらこの膳に乗せられた品々すべて、伽耶のいた世界と随分名称が違うようだ。その当たり前のように突き付けられる事実に、伽耶はまたこの世界が分からなくなる。
――ああ、早くわたしの家に帰りたい。
「ふうっ、美味しかった……ご馳走様でした!」
たった三品だけだったということもあり、空腹であった伽耶はすぐに平らげてしまった。膳に向って再び合掌し、雀にも頭を下げる。
「凄く美味しかったです。ありがとうございました!」
「ふふ、お気に召したようでよかったわ。貴方、凄く美味しそうに食べるのね」
「はい、とってもお腹が空いていたので!」
「私もなんだかお腹が空いてきちゃったもの、いい食べっぷりだったわ」
「えへへ……とっても美味しくて、おかわりしたいくらいでしたっ」
満面の笑みを向けると、雀は眉尻を下げて口を開いた。
「私もそうさせてあげたいんだけど……。貴方の素性が分からない以上、これ以上のおもてなしをするわけにはいかないのよ」
「あ……」
雀の言葉に、温まった体温が急激に下がったような気がした。冷めたい汗が背中に伝うのが分かる。
――疑われているのだ。
これだけ何度も言葉を交わしても、伽耶の素性が分からない以上、信用されるということは決してない。楽観的なつもりはなかったが、それでも雀のことは『信じたい』『信じて欲しい』という気持ちが沸き起こっていたのは、どうしようもない伽耶のなかにある事実だった。
伽耶の返答次第では、友好的である雀ですらこちらに敵意を向けてくるのだろう。昨晩のような、鋭利な短剣を携えて。それは――とても、悲しいことだ。
目尻を下げる伽耶を他所に、雀は目の前の膳を下げながら居住まいを正した。
「さて……じゃあ、まずは貴方の名前から聞いていいかしら?」
伽耶の安息の場所は、どこにもない。そもそも、まだ何も始まってすらいないのだから。
「……えっ? 名前、ですか」
一瞬、我を忘れた。一体何を恐ろしい質問をされるのかと思ったが、案外良識ある問いに伽耶は虚を突かれる。しかし、冷静に考えてみればその通りだ。話せば話すほど、雀はとても常識溢れる人間だと確信が持てる。
そんな雀に、まだ自己紹介すらしていなかったことに伽耶は猛省した。これでは信じてもらうことすらできないではないか。真摯に向き合おうとしてくれる雀に応えようと、伽耶も佇まいを直し自分の名を告げる。
「わたしの名前は雪野伽耶です。高校一年の16歳です」
「……『伽耶』? 『伽耶』ですって?」
「はい、そうですけど……」
「………」
それきり、雀は口を閉ざしてしまう。とても険しい顔だ。
何かとんでもないことを口走ってしまっただろうかと不安になりかけるが、何度思い返してみても、ただ自分の名前を口にしただけである。何が問題であったのかですら分からない。
あの穏やかだった雀の周囲には、伽耶がこれまで感じてきた鋭利、冷徹、どれも違う――禍々しい感情のような、殺気に近しい負の雰囲気が漂っていた。
「……『伽耶』だなんて……悪い冗談だわ。きっと偶然よ……ええ、その通りよ」
雀が何やら小さく独り言を呟いていた気がするが、そのあまりの剣幕に聞き返すことは躊躇われた。
しかし恐ろしくはあったが、純粋な関心の方が勝ってしまい、伽耶は我慢出来ずに思い切って声をかけてみる。
「あの、雀さん?」
伽耶の言葉にようやくはっと我に返った雀は、少し困ったような微笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。
「ああ……、ごめんなさい。それで――カヤさん。見慣れない格好をしていたけれど、貴方はどこの国から来たのかしら?」
「く、国? 日本、です」
問われたことに対して自分が知りうる知識で返答するものの、雀はますます困惑した顔をする。
「ニホン? ……そんな国は無かったと思うのだけれど」
「――えっ?」
雀の言葉に、今度は伽耶の脳内が徐々に混乱の渦に飲み込まれていく。
全身の毛穴から冷や汗が止まらず、膝の上に乗せたままの拳が小刻みに震えている。鼓動が早鐘のように打っており、自分がとてつもなく動揺していることがよく分かった。
(日本がない? どういうこと? じゃあ、ここは一体どこなの?)
とにかく、情報が足りなさ過ぎる。知らなければ。今、自分がどういう境遇に陥っているのか、伽耶は知らなければいけないと思った。
からからと乾く喉から息が零れ、雀に向かって声を発しようとする。しかし――
「ねえカヤさん。貴方は、どうしてあの場所にいたの? どうして追いかけられていたの?」
「それは……」
「昨夜貴方は、高麗や新羅を知らないと言っていたけれど、それはどうして?」
「う……っ」
「そもそも、どうやってこの国に入れたの?」
「ま――待ってください!」
咄嗟に伽耶は雀の言及を押しとどめた。これ以上問い詰められれば、伽耶はきっとおかしくなってしまう。雀も雀で、自分の行動の浅はかさに我に返ったのか、慌てて軽く頭を下げてきた。
「ああ、ごめんなさいカヤさん。私ったら……聞きたいことが多すぎて貴方を困らせてたわね」
「いえ、それは大丈夫です。でも、わたしも知らないことだらけなんです。この国のこと、本当に知らないので」
「……その話は、本当なのね?」
「はい。わたし自身も、何が何だか分からなくて……」
昨晩の不安な気持ちが波のように打ち寄せ、伽耶はぎゅっと膝の夜着を握り締めた。そんな伽耶の握り拳に、雀はそっと手を乗せてくれる。温かな雀の体温が伝わって、伽耶は何だか泣いてしまいそうになった。
「詳しく話してもらえる?」
「……はい。ありがとう、ございます」
それから、伽耶はぽつりぽつりと昨夜のことを思い起こすように語り始めた。
「わたし、橋から誰かに突き落とされて川に落ちてしまったんです」
「相手が誰かは分からなかったの?」
「うつ伏せみたいに落ちていったので、後ろの光景はすぐには見えなかったです」
「そう……」
「落ちた川はすごく深くで、足が全然届かなかったんです。もう息が出来なくなって、わたし死んじゃうんだなって思った瞬間、意識が無くなって……でも、気が付いたら、あの枝垂桜の辺りで倒れていて」
「……」
「外は真っ暗だし、誰もいないし、もうダメだって思った時に、灯りが見えたんです。提灯を持った二人組の……あの、昨日吹っ飛ばされた人たちなんですけど」
「ええ、分かってるわ」
「あの人たち、こう言っていました。『新羅の人間でないにしろ、俺たち高麗の人間がここにいたとバレると厄介だ』って。……あの、新羅とか高麗って一体何なんですか?」
伽耶がそう尋ねると、これまで何かを思案するように俯いていた雀がばっと勢いよく顔を上げた。その顔つきは、先刻までの柔和な雰囲気を漂わせていた女ではない。ただ一人の主君ために身を捧げる臣下の表情だった。伽耶はたまらず息を呑んだ。
「――この話。真と信じて構わないのですね?」
「え? は、はい。そうです」
「承知しました。ただちに主にご報告させて頂きます。後ほど迎えを寄越しますので、しばしお待ちを」
「あ、あの、雀さ――」
伽耶が声を掛ける前に、雀はやはり忍のような身の軽さで瞬く間に姿を消した。戸の開閉した音すら聞こえなかったのだから、彼女の身体能力は凄まじいのだろう。
そんなことをぼんやり頭に浮かばせながら、伽耶はその場にごろりと寝そべった。
「……私、これからどうなっちゃうんだろう」
敷かれたままだった布団へ体をずらす。顔を上げれば、知らない天井が飛び込んでくる。そのことが無性に悲しくて、伽耶はたまらず寝返りを打って体を横に傾けた。
「……お母さん……お父さん……、倭歌ちゃん……」
掛け布団を静かに握り締め、伽耶は零れ出しそうな雫をぎゅっと目を瞑って堪えた。