第六話:明日の我が身
それは、見目麗しい少女であった。
凛としたその立ち姿にゆらりと闇夜に映え、月の光を一心に浴びる美しい一房の黒髪。反り上がった長いまつげと、形の良い眉。伽耶を見つめる澄んだ空の色をした瞳は感情が読めず、氷のような冷たさを放つ。少女のようにも、少年のようにも映る中性的な顔立ちである。
薄い桜の花弁のような唇は僅かに引き絞られ、そこから発せられる言葉は厳かで常人を突き刺す鋭利さがあった。いとも容易く男を吹き飛ばした腕は、触れれば折れてしまいそうなほど白く細く、少女の美しくも儚い印象を裏付ける要素となっている。
紫紺の袴の上に鮮やかな深緑の羽織が風に乗って揺らめき、鶯色をした剣が腰に携えられている。
「――」
まるで、世界が彼女の全てを肯定しているかのような圧倒的存在感。
怖気づいてしまうほどの巨大なプレッシャー。他者を寄せ付けない絶対零度の氷の彫刻のような、幻想的なまでの美しさ。
そして何より――胸が締め付けられるような、今すぐに泣き出してしまいそうな憂いを帯びた顔。
その表情を網膜に焼き付けた途端――伽耶は恐怖という感情が脳へ到達する前。家臣と思しき二人の鋭利な視線に飲み込まれるその前に、考えるよりも先に――体が動いていた。
「――あの!」
伽耶は、少女の手を両手で包み込んでいた。
咄嗟のことに、家臣二人が目を剥いて伽耶を見るなか、手を掴まれた少女本人は僅かに睫毛を震わせただけで、その憂いた顔を変化させることは出来ない。
驚嘆するほど少女の手は氷を纏ったように冷たく、いくら伽耶の両手で温めても、一向に体温が上昇する素振りもない。握っている伽耶の両手の方が徐々に体温が失われていくほどだ。――それでも、この止めどなく溢れそうな感情を伝えたい。伽耶はそんな追い立てられるような衝動に駆られた。
しかし、それを払拭するかのように伽耶は更に少女の手を包む手を強め、高揚する感情の赴くままに真っ直ぐに彼女を見据え――満面の笑みを浮かべた。
「助けてくれて、ありがとう!」
「――」
少女はその冷徹な表情を僅かに動かし――だが、伽耶が少女の顔を見ることは叶わなかった。
「――この無礼者が」
何故なら、背後から凄まじい衝撃が伽耶の頭を襲ったからである。何が起こったのかを確認する前に、脳が揺さぶられる感覚と共に伽耶の視界は暗黒の闇へと包まれた。
◆ ◇ ◆
――世界が、燃えている。
網膜に焼き付くのは、目下に揺らめく業火の炎。
丘の上から放たれる無数の光の矢が、無慈悲なまでに民家やその住民を襲う。光の矢が民家を貫くたび、そこから憤怒の炎が燃え上がり、隣の民家へ、そのまた隣の民家へと炎は広がり続ける。
燃える民家から飛び出してきたのは、幼子を抱いて駆けるまだうら若き母親。その顔を煤だらけにし、今にも心細さに泣き出してしまいそうな様子だったが、自分の子供を守るために懸命に走っていた。
別の場所では、まだ齢5にも満たない少年少女が手を取り合いながら駆けている様が目に入る。兄妹と思しき彼らも、この悲惨な状況下に唇を噛みしめぽろぽろと大粒の涙を流している。
家が焼け、人が焼け、命が失われていく焼け焦げた匂い。
しかし、そこへ光の剣を持った男たちが現れ、逃げ惑う人々を容赦なく次々に切り捨てていく。赤子を抱いていた母親も、まだ幼い少年たちでさえも。
彼らの周囲には血の雨が降り注ぎ、その足元には魂の抜けた人のかたちをしていた何かが転がっている。
男たちの背には、鷹の顔を象った深緑の羽織りが纏われていたが、血塗られその鮮やかさは既に失われていた。
静寂に包まれるはずだった満月の夜。
町は怒号、悲壮、諦観、そんな阿鼻叫喚が飛び交う地獄と化し、神の救いなどあるはずもなかった。
(これは……夢?)
伽耶は茫然とした面持ちで、丘の下の地獄と化した町を眺めていた。
これを夢といわず、なんだというのだ。
あまりに凄惨で、悲惨で、無慈悲過ぎる。目を覆いたくなる凄惨な状況下に、伽耶はこれを己が生み出した夢だと結論付けずにはいられない。
ぎゅっと拳を握り締め、伽耶は俯きながら大きく顔を歪めた。
(そうだよ……こんなの、私の作り出した夢に決まってる。そうじゃないと……こんな、酷いこと――)
『目を逸らさないで』
「――!」
そっと、誰かが自分の固く握りしめた拳に触れたような気がした。どこかで聞き覚えのある、少女の声だ。
思わず顔を上げ、自分の拳に触れたであろう隣を慌てて見やる。
しかし、その姿は淡い光に包まれ正体は伺えない。だが不思議と恐怖は無く、触れた温かい手からはほのかに優しい気持ちが伝わってくる。
『これは、あたしたち一族の逃れられない罪なのだから』
「あなたは、一体……」
ぽつりと言葉を零すと、淡い光はまるで伽耶を抱きしめるように包み込む。光が腕のように伽耶の背に回り、顔のように伽耶の右肩に乗る。
『早くあたしを思い出して。そしてあたしの名前を呼んで。お願い、××――』
光が声なき声でそう告げた途端、伽耶の体は更に温かな光に覆われ――そして、穏やかに目を閉じた。
◆ ◇ ◆
見慣れない天井が、伽耶の視界を覆い尽くす。
板張りのそれには蛾のようなものがひらひらと上空を飛んでおり、伽耶は自分の体温で温まった布団に包まりながら、ぼんやりと夢半ばに天井を眺めていた。
先刻まで見ていた夢が思い出せない。寝起きの良い普段の伽耶なら、さほど気にせずさっさと身を起こし身支度を始めているところだ。しかし、その時は何故だか、その夢を思い出さなくてはいけないような気持ちに迫られた。
朝の眩い光が、戸の隙間から入り込んでくる。
「何の夢……見てたんだっけ……」
ぼんやりと膜のように覆われる思考。未だ寝ぼけ眼のまま、伽耶は数十分の間虚空を見つめていた。
――さて。自分の体の異常に気が付いたのは、それから随分と後になってからだ。
伽耶の意識がようやく覚醒した時、異常なまでに両手に感覚を感じなくなっていた。寝返りを打とうと体を横に向けた時、伸ばせるはずの両手に力が入らず、伽耶は遂に我に返った。
「……あれ? ここ、どこ!? ――痛っ」
慌てて身を起こし、周囲を見渡す。頭に響く鈍痛がくらくらした。
三畳ほどの、人ひとりが寝れる程度の板張りの部屋だ。部屋の端には木彫りの机、そしてその上には習字道具に近い、半紙と墨、そして筆のようなものが置かれていた。
布団のそばには丁寧に畳まれた伽耶の着用していたセーラー服と、結んでいた二つの髪留めが並んで置かれている。そのセーラー服を視界に入れた途端、はっと伽耶は弾かれたように顔を上げた。
そうだ、昨日は夏休みの補習があって――倭歌と一緒に帰宅して――自分は川に落ちて――いつの間にか、おかしな場所に辿り着いてて――。
そこまで考えて、伽耶は自身が身にまとっていたセーラー服ではなく、いつの間にか薄い夜着に着替えさせられていたのだ。そして何より――自分の両手首が縄で縛られていることに気が付いた。
「えっ!? なんで!? なんで私、縛られてるの!?」
きつく縛られているのか、手首の上からは完全に血の流れが止まって青黒く染まっており、手のひらの感覚は恐怖を覚えるほどまるでなかった。
伽耶は真っ青になりながら、どうにかしようと立ち上がろうと足に力を入れた時。
「え……っ」
ばたん、と大きな音を立てながら伽耶は盛大に頭から板張りの床に倒れ込んだ。
痛む額に涙目になりながら足元を見ると、その足首にもきつく縄が縛られていた。そこも手首同様に血の巡りが回らず、足先から青黒く変色している。どうりで足に力が入らないはずである。
完全に八方塞がり。せめて足さえ縛られていなければ、対策の仕様はあった。しかし、両手両足が縛られた状態になってしまうと、身動きすら取ることが出来ない。
しかし、このままでもいられない。なんとか手首だけでも外そうと懸命にもがき始める。
「……うう、固い……何か切れるものがあればいいのに……」
恨み言を一人呟き、手首の動作と並行して拙い思考を巡らす。
そもそも、ここはどこなのだろうか? どこかの民家と思しき場所なのは分かるが、どうやって自分はここまで来たのだろうか?
昨晩までの記憶を必死に掘り返そうとした時――。
「あら、起きたのね。おはよう」
「……へ」
緋色の髪を揺らした美女が、朝の光と共に戸を開けて現れた。