第四話:見知らぬ場所、見知らぬ光景
『あーあ。何してんのよ、アンタ』
沈む意識の中、何者かの声が頭の中に響き渡った。
伽耶と同い年くらいの、少女の声だ。
どこから聞こえているのか、周囲を見渡してもただただ広がる暗闇ばかりで、その姿を捉えることは出来ない。けれど、伽耶にはその声が不思議と恐怖感も不快感も無かった。
『ほんっと、昔から呆れるほどアンタってどんくさいわよねぇ』
その誰とも知れぬ言葉にむっとして、伽耶は反論すべく思わず口を開く。
「私はどんくさくなんかないよ!」
『そうかしら? 少なくとも、あたしが知りうる限り、うっかり川に落ちるなんて普通出来ない芸当だと思うけど?』
「別に自分で落ちたんじゃないからね!?」
『……それに。何だかアンタ、久しぶりにあたしの声が届いたじゃない。珍しいこともあるのね』
「……え?」
少女の僅かに寂しさを孕んだ言葉に、伽耶はっと息を呑んだ。
――何故、自分は誰の声とも知れぬ相手と会話をしているんだろう?
まるで、昔からこのやり取りが行われていたかのような。
『まあいいわ。それより、この状況の方がヤバいんじゃない?』
「この、状況? ――わっ!?」
瞬間、暗闇を照らす眩い光が伽耶の視界を覆い始める。網膜を焼き尽くすほどの強い光に、思わず目を瞑ってしまう。
少女の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
◆ ◇ ◆
次に意識が覚醒したのは、頬を撫でる冷えた夜風が自身の体を震わせた時だった。
「う……ここ、は……?」
砂に覆われた地面に顔を付けていた伽耶はゆっくり身を起こし、恐る恐る瞳を開ける。
その景色は、まるで伽耶の知る場所ではなかった。冷たい風が、伽耶の二つに結ばれた髪を大きく揺らす。恐怖でひゅうっと声にならない叫びが喉を震わせる。
「な、なに? ここは、どこなの?」
先刻まで川の中にいた筈なのに? 死ぬ寸前だった筈なのに?
髪も制服も全くと言っていいほど濡れていない。しかも、あれほど息苦しかった感覚も、冷たい感触も、驚くほど無い。
混乱する頭で、伽耶は慌てて胸元に提げておいたペンダントの存在を手で直に確認する。その存在を確かめた後、そっと右手で握って大きく息を吸った。
「落ち着いて……落ち着くの、伽耶……」
伽耶は自身に暗示をかけるように、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
吸う空気が自然と体じゅうに染み渡るような、どこか懐かしいような、不思議な感覚がした。
落ち着いて呼吸をしているうちに、ぐるぐると混乱する思考が徐々に冷静になり、伽耶はゆっくりと周囲を見渡してみることにした。
灯り一つ無い、月下の夜。
町並みはまるで見覚えのない薄汚れた翡翠色の平屋が軒を連ね、野犬がどこかで遠吠えしているのが反響していた。明かりの灯らない薄緑の提灯ちょうちんが並びぶら下がった川辺。
頭上に咲き乱れる淡い桃色の枝垂桜が、一層この非現実的光景に拍車をかけていた。
それらはまるで現実感がなく、まるで映画の世界の様である。
伽耶はゆっくりとした動作で立ち上がり、セーラー服のスカート裾に付いた砂を払うと、こみ上げる不安を払拭するようにして歩き始めた。はらはらと桃色の花弁が舞う。
恐怖で心臓が早鐘を打ったように脈打っている。伽耶はぎゅっとペンダントを握りしめた。
(本当に、ここはどこなんだろう……。誰もいなくて凄く、怖い……)
ビルや目ぼしい店もないことから、どこかの農村なのだろうかという発想が浮かんだが、すぐにそれは打ち消した。
何故なら、建物の造りが今の現代日本ではあまり見たことがないからである。外観がとても古く、平気で築100年は超えていそうなほど古ぼけた建物ばかりだ。まるで焼け跡のような黒ずんだ屋根、灰を被ったような家の壁、まばらな配置の石畳の道。
これらの光景に、伽耶はある仮説が頭に浮かんだ。
「もしかしたら、ここは日本じゃない……?」
夢みたいな話だが、あの川に飛び込んだことによって、どこか見知らぬ外国にでも移動してしまったのだろうか。非現実的過ぎる考えに、なかなか思考がまとまらない。
あの一瞬で? どうやって? そもそも何故自分が?
まとまらない思考の端で、伽耶は必死に気付かないふりをしていたある考えが浮かび上がってくる。
―――ここは日本でも外国でも無い……全くの別世界だったら?
恐ろしい思考に至ってしまい、思わず伽耶は足を止めた。否、恐怖で足がすくんでしまったのだ。
真っ暗な視界の中、そんな訳がないと伽耶は大きく首を横に振った。しかし、悪い考えほどどんどん浮かび上がってくる。
(それじゃあ……私は誰にも助けてもらえない……? 知らない場所で、知り合いもいない場所で、私は一体、どうすればいいの?)
じわじわと恐怖の入り混じった不安が込み上げてきて、しかし、このままではいけないと思い至って、滲みかけた暗い視界を払拭するように袖で瞳をごくごしと擦る。
「大丈夫! 絶対なんとかなる!」
赤くなった目尻のままペンダントを強く握りしめ、今度は動く足を再び前へと動かす。
街灯の一つもない薄暗い景色。
しばらくして枝垂桜の通りを過ぎると、枯れた木々が川べりに列をなす光景が飛び込んでくる。
さながら黄泉の道へ自分を誘っているような錯覚さえ覚える。吹き抜ける夜風は夏服をいとも簡単にすり抜け、身震いする冷たさを持っていた。
「誰か、いる……?」
ふと顔を上げると、遙か遠くの街道を歩く、灯りを持った人影を見つけた。
沈んだ気持ちが一気に歓喜へと変わり、伽耶は思わずその人影へと駆け足で近付いてく。
「あのー! すみません!」
徐々に近づくにつれ、人影の輪郭がはっきりと映し出されていく。
それは二人組の男だった。
雪のように白い、背に虎の顔を象った、純白の羽織りを纏った男たちだ。
二人の男は伽耶の声に不思議そうに振り向き、そしてすぐに不審な顔をした。
―――何か、おかしい。
伽耶はその様子にとピタリとその場で足を止める。
小太りの男が眉を顰め、伽耶を値踏みするように上から下までじっと眺めた。
「なんだお前は? 新羅の者か?」
すると今度は提灯を持っていた、やせ細った男が伽耶を訝しげに見る。
「その身なり……この国の人間ではないな。何者だ」
「えっ? 私は……」
矢継ぎ早の質問。伽耶はしどろもどろと何と答えればいいか口ごもっていると、男たちの表情はますます不信感を持った顔へと変化していく。
不穏な空気に、冷たい汗が頬を伝った。
「おい、どうする?」
「新羅の人間でないにしろ、俺たち高麗の人間がここにいたとバレると厄介だ。……殺すか」
「ころす……!?」
小太りの男が放った言葉に、伽耶はさあっと全身の血の気が引いていくのが感覚的に分かった。
(殺す? 誰を? ……私を?)
その声色には、確かな確信があった。殺気がどういうものか分からない伽耶であったが、彼らから発せられるどす黒い感情は、殺気と呼ばずになんと呼ぶのだろう。
とても冗談を言っているようには思えず、伽耶は震える体で一歩身を引いた。
それが合図だった。
どういう原理なのか、小太りの男の手のひらへ向かって、周囲の風が集約していく。それは片手では収まりきらないほど大きな存在感のあるものへと翡翠色に象り始める。
風は徐々に勢いを無くし、同時にその色の輝きも失われていく。代わりに最後に残ったのは、死神が命を刈り取る為のような、鋭利な形をした鎌だった。
「ひっ……!」
伽耶は死に物狂いで彼らに背を向け、駆け出した。
「待て!」
背後で、伽耶を追う声がする。
(なにあれ、なにあれ、なにあれ……!? こんなのおかしいよっ、なんでこんな事になっているの!?)
見知らぬ土地で、見知らぬ他人に、何故か自分は命を狙われている。恐怖で思考はぐちゃぐちゃで、何も考えられなくて、まとまる気配すらなかった。
懸命にもと来た道をひた走る。
どこへ向かえばいいのか、どうすればいいのか、もうなにも分からない。
怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて、泣き出しそうになりながらも、伽耶はただただ走る。
心臓が、締め付けられるほどとても痛かった。
伽耶が目覚めた枝垂桜の通りまで駆けてくると、足も息も―――心も、もう限界だった。
よろよろとへたり込むと、少し遠くで男の人たちの足音が聞こえる。まもなくここへやって来るだろう。
じわりと視界が揺らぎ、遂に地面に小さな雫が零れ落ちた。
「私……死んじゃうのかな……」
小さく呟いた声はか細く、情けない。
こんなことならあの川で、自分の知る場所で、この命を終わらせたかった。
全く知らない場所に連れてこられて、敵意ある人間に追い回されて、知り合いも誰もいないこの世界で命を終わらせるなんて、なんて寂しい最期だろうか。
「見つけたぞ! 手間を取らせやがって、面倒なガキだ」
「新羅の奴等にみつかると厄介だ、手早く済ませよう」
伽耶の背後で息を切らせた二人組の男たちがそう告げる。ようやく追いついてきたらしい。
耳元で鋭利な刃物が振り上がり、空気を裂く音がした。
伽耶は痛みに耐えるようにぎゅっと膝の上の両手の手のひらとともに、目を瞑った――。