第二話:夕焼けと幼馴染
気が付けば、外はもう眩い黄昏色に染まっていた。
いつの間にか、教室に残っているのは伽耶と倭歌の二人だけになっている。
伽耶たち四人に与えられた課題はそれぞれ異なり、定期テストの結果に応じたプリントが与えられている。補習課題が一教科だけであった和倉と皇の二人は、太陽がてっぺんに差し掛かったところで早々に帰宅しまった。
残ったのは、全くやる気の起きない膨大な課題の残る伽耶。そして、大の英語嫌いである倭歌は英語の課題で完全に行き詰まり、今もこうして頭を悩ましている。
「俺ら日本人だろ……。日本語だけ話せればいいだろうが……」
やる気が起きず、ぼうっと外を眺めていた伽耶の背後で、倭歌はそんな悲壮な声を漏らしていた。
するとそんな倭歌の綺麗に切り揃えられた髪のてっぺんに、百井川教諭の容赦ないチョップが炸裂する。
「いでっ!」
「英語は世界共通語の一つだ。今の時代、日本語だけでやっていけるほど社会は甘くない」
「絶対使わねぇ職場に就職すればいいだろ!」
「……そんなに英語が嫌なら、好きになるように英語の吉原先生に言って氷室の課題を二倍にして貰うよう頼んでおこう」
「ひィ――! か、勘弁してくれよ先生! ちゃんとやるから! 英語好きにになるように努力するからよぉ!」
「ならもう少し精進しろ。英語は今の時代、切っても切り離せない存在なんだからな」
「へーい……」
がっくりと肩を落とす倭歌に、百井川教諭もどこか呆れたようにふっとほんの少し口元を綻ばせた。
「もう六時か……そろそろお前ら帰れ。残った課題はまた明日やれ」
腕時計を確認した百井川教諭は、くるりと伽耶と倭歌に背を向けそう告げた。
そんな彼の後姿に、二人は揃って笑顔で顔を見合わせる。
「やったー! 今日の課題は終わりだー!」
「よっしゃ帰ろうぜ!! じゃーな、百井川先生!」
二人は待ってましたと言わんばかりに素早く身支度を整え、鞄を引っ掴み、挨拶もそこそこに教室を飛び出したのだった。
「……俺も、随分絆されてるな」
伽耶と倭歌が消えたドアの先を眺め、百井川は苦しげに目を細めた。
◆ ◇ ◆
昇降口を抜け駐輪場へ辿り着く頃になると、伽耶と倭歌は息も絶え絶えになった。次第に何故真夏のなか意味もなく走ったのだろう、とふとお互い冷静になり顔を見合わせる。
いつもは帰宅する生徒と自転車で溢れかえっている駐輪場には、部活に参加しているであろう生徒の自転車のみが止められており、歩いている生徒も伽耶たちしかいないようだ。
普段の学校風景とは違う閑散とした雰囲気に、どこかもの悲しさを覚える。
陸上部に所属する倭歌はすぐに息を整え、自転車に鍵を差し入れながらやや恨みがましい瞳で伽耶を睨んだ。
「おい、何で伽耶がここまで付いてきてんだよ。お前、いつもは徒歩で帰んだろーが」
「倭歌ちゃん、分かってて言ってるでしょ」
「うぜぇ……」
すっかり息が整った伽耶は、スタンドを蹴った倭歌が動かし始めた愛用のイエローラインの入った自転車にぴったりとくっ付いていた。
倭歌はもう予想がついているのか、既にげんなりしている。しかし、そんな幼馴染の様子など意に介さず伽耶は意気揚々とすぐそばの校門を指さした。
「早く校門通っちゃおう、倭歌ちゃん! 先生に見つかったら面倒くさいから!」
「やっぱ俺の後ろに乗ることが目的かお前!」
「どうせ隣の家なんだから、固いこと言わない! 行こ!」
ぐいぐいと渋る倭歌の背中を押して、校門へと強引に連れていく。
(倭歌ちゃんと一緒に帰れるなんて、何年ぶりかなぁ。ふふ、嬉しいな)
伽耶は気付かれないように、そっと唇を綻ばせ幼馴染の背中を見つめた。
校門を抜け、ある程度道なりに進んだところで倭歌がサドルの上に乗り上げる。それを見計らうと同時に、伽耶は前かごにある倭歌の鞄の上に自分の鞄を無理やり重ね、後ろの荷台へと回り込んだ。
何か言いたげな視線を送る幼馴染を無視して、素早く荷台に横乗りになる。伽耶は彼の腹回りのワイシャツを引っ掴んで目の前の道路を指差した。
「さあ、出発進行だよ! 倭歌ちゃん!」
「お前なあ……。あと、倭歌ちゃんって呼ぶな」
倭歌がぐっとペダルを踏み込んだ瞬間、烈風が如くの風が伽耶の全身を襲った。
「わっ!」
驚嘆したのも束の間、伽耶は必死に振り落とされないよう懸命に彼の腰にしがみつく。
その様子に、倭歌は疑問符を浮かべながら振り向いた。
「おい、どうした伽耶? ちょっと速かったか?」
こくこくと激しく首を縦に振って首肯のサインを送ると、倭歌は仕方ないとばかりに大きく溜息をつく。すると、漕ぐスピードがゆるく変わった。こうした幼馴染の甘いところが伽耶は大好きだった。
緩い風に変わったことにより、いくばか余裕の生まれた伽耶は、倭歌に捕まる両手を放して頭だけ彼の背にくっ付けた。
「ねー、倭歌ちゃん」
「なんだよ」
「また同じ陸上部の子に告白されたの?」
「お前どこ情報だよ、それ」
「篠崎くんが教えてくれたよ?」
「アイツのあの口の軽さはどうにかならねぇのか……」
同じ陸上部に所属する男子生徒の名を上げれば、倭歌はまたかと嘆息を零した。
彼と伽耶は同じクラスという事もあって、自分とは別のクラスである倭歌の話をよく聞かせてくれるのである。
「それで倭歌ちゃん、また断っちゃったんだって?」
「……まあ」
どこか気恥ずかしそうに答える倭歌に、伽耶は強めにグーで彼の背を殴った。グーで。
「いってぇ! なにすんだ伽耶!」
「だから倭歌ちゃんはダメなんだよ! 篠崎くんの話だと、凄く可愛い女の子だって聞いたよ! 何で断っちゃったの!」
「うるせえ! 俺は今、部活に集中したいんだよ!」
「もー、だから彼女出来ないんだよ倭歌ちゃんは……」
部活漬けのスポーツマンな上、面倒見が良いと評判の倭歌は女子生徒からそこそこ人気な存在である。
中学時代はまるで女子生徒の眼中になかったというのに、高校に入ってからぐんと身長が伸び始め、随分と男らしくなったと幼馴染の伽耶でさえ思った。それ故に、今現在はひっきりなしに告白されているという噂をよく耳にする。
「余計なお世話だ。つーか、こんな事してるからお前も彼氏が出来ないんだろ。いい加減、俺から離れろよ」
「そう言って、本当に私が離れたら寂しいくせに! このこの!」
「このまま振り落としてやろうか」
「わー! やめてー!」
そんなふざけ合いをして、真下にせせらぎ音を立てる小さな橋を過ぎようとした時だった。
伽耶がばっと顔を上げ、慌てて倭歌の背を叩いた。
「あっ倭歌ちゃん! ちょっと止まって!」
「なんだよ?」
伽耶の言葉に倭歌は自転車を止め、片眉を上げて振り返る。
自転車の荷台から飛び降りた伽耶は、橋の小さな手すりに手をかけて大きく川の向こうの空を指さした。
「あれ、あれ見て!」
「あ……?」
それは、夕焼けだった。
金色に輝く太陽が目下の川に反射し、きらきらとさながらトパーズのように煌めいている。雲はそんな太陽に同調するかのように、鮮やかなオレンジ色に輝く。
黄昏色に染まる空は、徐々に仄かな夜色のペンキに塗り替えられようとしており、夜の訪れを知らせているかのよう。
静かな川のせせらぎが宝石のぶつかり合いのような音を出し、夕焼けは徐々に夜へと染まっていく。
とても美しい、静寂に包まれた瞬間だった。
「……おお」
「綺麗でしょ! この時間だと、川が凄くきらきらしてるんだ!」
伽耶一人ではしゃいでいるものの、倭歌もどこか心ここにあらずで、ぼうっと空を見上げている。どうやら気に入ってくれているようで、伽耶は嬉しくなって一人でにやけてしまった。
――――それは、一体誰の声だったのだろう。
「わ、凄い風……」
伽耶たちの間に、凄まじい風が吹き荒れる。
真夏にしては珍しいさながら台風のような烈風に、伽耶は両サイドで結んだ自分の髪が激しく揺らめいているのを眺めて――そして聞いたのだ。
――――ごめんね
「……え、」
「―――伽耶!!」
気が付けば、伽耶は宙を舞っていた。
ぐっと何者かの強い力で背中を押された感覚がしたと同時に、小さな手すりが音を立てて外れたのだ。無防備だった伽耶は、重力の赴くままにそのままするりと滑り落ちていく。
そこからは、全てがスローモーションのように見え始めた。
目まぐるしく変化する景色。
空気が頬を掠めていき、目が開けられない。
とても近くで川の匂いがした。
目の前に迫る川を直視することが嫌で、伽耶は僅かに首を捻って橋の上を見上げた。
「伽耶……っ!!」
橋の上から倭歌の悲鳴にも似た声が聞こえてくる。
自転車を転げ落ちるようにこちらに向かって手を伸ばす彼に、伽耶も懸命に右手を伸ばそうとするも、その距離は既に遠すぎた。倭歌が今にも泣き出しそうな顔をする。
伽耶を待ち受けているであろう目下の川は、周辺の川とは比べ物にならないほど水位が高い。
もう何年も前から子供の溺死事故が起きている川として、地元に住む人間の間ではとても有名だった。
「う……っ」
伽耶は情けなくなって、顔をくしゃくしゃと歪めた。
視界がぼやけて、先刻まであんなに美しかった黄昏色の空が、今はもう見えなくなっていた。
このまま、自分は川に落ちて溺死してしまうのだろうか。あの、冷たい川の中で。
やり残したことも、たくさん、たくさんあるのに。
伽耶はふいに家族の顔が頭に浮かんだ。優しい母親、気が弱い父親、そして―――厳しい祖母。
(……倭歌ちゃん)
そしてきっと倭歌は、自分を責めてずっと泣いてしまうのだろう。
そんな光景を思い描いて、伽耶はきゅっと唇を噛んだ。強い思いがみるみる心へ染み渡っていく。
―――まだ死にたくない!
何でもいい。どこでもいいから、生きていたかった。
伽耶の大切な、大事な人が自分の為に悲観し泣き崩れていく姿など見たくない。
零れる自分の涙が空を舞う時、伽耶はこちらに向かって手を伸ばす倭歌の右腕に付けられた、翡翠色の数珠がきらりと煌いてたように見えた。
「うっ……!」
ばしゃん、と大きな音を立てて自分の体が川へ落下したのが分かった。
背中から徐々に沈んでいくような、自分の体の自由が利かなくなるような、嫌な感覚だ。じわじわと衣服から水が浸食し、体が徐々に沈み込んでいく。大きく息を吸うたびに川の水を飲みこんでしまう。
なんとかもがこうと伽耶は四肢をバタつかせてみるも、深い川では足が付かない。伽耶は泳ぎがあまり得意ではなかった。四肢を動かすたびに体が沈み、水を何度も飲み込み、視界が真っ青に染まり始める。
遂に頭のてっぺんまで川の水を被り、伽耶はたまらず息を止めた。視界が全て青に変わる。自分の息が泡となり、上空へ上がっていくのが見えた。
自分の息も、自分の命も、この泡沫のように消えゆくのだろうか。
―――くるしい、くるしいよ。だれか、たすけて。
「……っ!」
口いっぱいに溜めていた空気が遂に全て吐き出され、伽耶の意識は瞬く間に体と共に闇の中へと沈んでいった。
それはまさに、泡沫のように――。