第1話:夏休み
「雪野さんって、ほんと空気読めないよね」
その言葉を聞いた時、自分の手が震えたのが分かった。
「分かる分かる。なんていうか、周りが見えてないっていうか、あたしらがどういう気持ちでいたか全然気付いてないよねー」
「『中学最後の体育祭、みんなで頑張ろうね!』とか、ウザすぎ。今時流行らないっつーの」
「男子のウケ狙いたかったんじゃない?」
「んな訳ないじゃん、単に何にも考えてないだけでしょ」
「あはは、小夜子キツすぎー。てか、一番嫌ってたもんね、雪野さんのこと」
小夜子。その不愉快さに満ちた声が耳に届き、足が氷漬けされたかのように動けなくなる。楽しげな笑い声が、こんなにもこの胸を切りつけるものだとは思いもしなかった。
放課後。忘れ物を取りに再び教室に戻ってくれば、なんと自分の悪口が繰り広げられていた。しかも、ずっと仲良しだと思っていたグループの友達に。ドア越しに聞こえる嘲笑交じりの声に、それがはっきりと本心なのだと突き付けられる。
「自分がさも世界の中心だと思って行動しているのが、見ていてイライラするの」
「あー、『さよちゃん、さよちゃん』って言って、小夜子は一番ベタベタされてたもんね」
「……自己中心的なのよ、あの子。自分の気持ちが他人も同じだって思ってるくらい、周りが見えていないし」
息が出来ない。瞬きも出来ない。冷たい感覚が、足元からすーっと小波のように襲ってくる。
仲良しグループのなかでも、小夜子とは特別仲が良かった。親友だと思っていた。ガンガン前へ進んでいく自分を、小夜子はそっと後ろから「仕方ないなぁ」って顔で一緒に支えてくれていたのだ。そんな小夜子が。まさか、自分を嫌っていたらなんて考えもしなかった。
「それに……まあ、鬱陶しいのは事実だしね」
「――っ!」
もう、その場にいられなかった。視界が滲み、酸素を欲した肺が激しく脈打ち始める。決して動かないと思っていた足は、騒がしく悲鳴を上げる心音によって覚醒する。ゆっくりと後退するように足首をずらし、そのまま逃げるようにその場から駆け出した。
あの日以来、残り少ない卒業まで彼女たちのグループで過ごした。何も知らない顔をしたままで。しかし、時折耳に残るあの時の笑い声が反響し、彼女たちの前で上手く笑えなくなってしまった。
辛くて、苦しくて、悲しくて、今にも叫び出したいのに、怖くて身動きが取れない。いつものようにおはようって笑いかけてくれる皆にも、小夜子にも、曖昧に笑うしか出来なかった。そんな自分が、とても嫌だった。彼女たちは感づいていたかもしれない。
二年以上楽しく仲良くしていた皆を、それでも構わないと最後まで信じることが出来ない自分はなんて矮小で嫌な人間なのだろう。これは裏切り行為だ。皆と一緒にいた時感じた、あの『楽しい気持ち』は嘘じゃないのに。ばらばらに心臓を切りつけられても、今でもこうして心の底では好きなのに。
――そうだ。どれだけ裏切られようと、どれだけ酷い言葉を浴びせられようと、信じたいと自分が決めた相手は、どんなことがあっても最後まで信じ通すべきだ。それが、自分へのけじめとして。
わたしはもう、後悔したくない。
それが、雪野伽耶の決意だから。
◆ ◇ ◆
「あっつ~~~~~~~い!」
じりじりと照り付ける太陽。肌にへばりつく汗ばんだワイシャツ。からからに乾いた喉。空調完備が整っていないむせ返るような熱気がこもる教室。
机に顔をうつ伏せにしながら、伽耶は悲痛な声を上げた。
時刻は午前11時。蝉時雨が反響する教室で、伽耶は溶けるような思いで息を吐く。ああ、何故わたしは夏休みの日に、補習に出てるんだろう……うだるような暑さの中、伽耶の重たいため息だけが漏れた。
全く補習の進まない伽耶を見かねたか、見張り番である男性教諭の影近付いてくる。たまらず伽耶は愚痴を漏らした。
「暑いです……」
「我慢しろ」
「先生、暑すぎて頭が沸騰しそうです……」
「エアコンが故障してるんだ、仕方ないだろう」
「この暑さでエアコンが効いてないなんて、拷問だぁぁぁ……!」
「――雪野」
「……スミマセン」
氷の女王も逃げ出すような、絶対零度の視線とその無機質な声。百井川葉済教諭は、伽耶の高校生活初の担任だった。筋の通った端正な顔立ちには、微笑み一つ浮かばない。
伽耶はふざけるのをやめ、しぶしぶプリントの上に転がっていたシャーペンを握り直した。
ちらりと窓の外を見やる。
憎たらしいほど真っ青な空を自由に飛ぶ小鳥が、籠の中の伽耶を嘲笑っているような気さえした。
「……せっかくの夏休みなのになぁ……」
そう、伽耶にとって今年は高校生になって初めての夏休みなのだ。
高校生らしく、友達と人通りの多い都内へ出かけてクレープを食べ歩いたり。更にはクラスの人気者の男の子から夏祭りのお誘い。はたまたプールに出かけてちょっとイケメンな年上のお兄さんとのドキドキワクワクな出会いなど。
そんな素敵すぎる夏休みイベントの妄想をしながら夏休みを迎えた初日。
伽耶の家に、百井川から一本の電話が入った。
『雪野、今日から補習だ今すぐ来い』
夏休み前の期末考査で散々な結果を出してしまっていたにも関わらず、伽耶は百井川からの通告をすっかり忘れてしまっていた。この担任教師からのたった一本の電話に、ふわふわと風船のように浮かれていた気分をパン! と針で破裂されたような、そんな虚しい気持ちで補習を受けることになってしまったのである。
しかし、これは僥倖でもあった。自分以外にも案外補習に来ていたクラスメイトは少なからずおり、これはこれで夏休みっぽいなと前向きに伽耶は考える。
こうして補習と告げられ、早一週間。
ちらほらと同じ補習講座を受けに来た同じ生徒達と共に、伽耶はこのエアコンの全く効かない空き教室にて課題をこなしている。
今日来た補習組は、伽耶を含め四人。残り数名の生徒は体調不良と称し不参加だ。休んでしまっても補習の日数が伸びるだけなのでは、と百井川からプリントを受け取りながら伽耶はそんな風に思った。
「ねぇ倭歌ちゃん。課題、今どんな感じ?」
百井川に注意されながらも、伽耶はすっかり集中力が切れてしまっていた。シャーペンを机の上に放り投げ、自分の後ろに座る幼馴染に声をかける。しかし彼にしては珍しく一生懸命課題に取り組んでいるようで、こちらからではつむじしか見えない。
「ねぇねぇ、倭歌ちゃんってばー」
つんつんと人差し指でそのつむじを突いてみる。
すると。
「―――あぁぁぁあ!! うるっせえな、お前は!!」
痺れを切らしたように、静寂に包まれていた教室に怒号が響き渡る。しかし、長年の付き合いで伽耶は彼の怒声をどこ吹く風と全く気にしない。
「だって倭歌ちゃんが反応してくれないんだもん」
「『だもん』じゃねーよ、ふざけんな! あと、倭歌ちゃんって呼ぶんじゃねぇ!」
「女の子みたいで可愛いよ」
「嬉しくねぇ!!」
怒髪天の倭歌は顔を真っ赤にしながら拳を机に叩きつけるが、彼の怒りっぽいところは昔からだ。これくらいでいちいち気にしていたら、家が隣同士である彼の幼馴染は務まらない。
倭歌の大仰なリアクションについ可笑しくなり、伽耶はにまにまと意地悪な笑みを浮かべる。すると、額に青筋を浮かべた倭歌がビシッとシャーペンの先端をこちらに向けてきた。
「あのな! 暇人なお前と違って、俺は三教科とも補習になったせいで部活に出られねーんだよ!!」
「それは倭歌ちゃんのせいじゃ?」
「うるせー!! だからこうして死ぬほど課題やってんだろーが!! ちょっとは周りに気を遣えやバカ伽耶が!」
唾を存分に飛ばしながら倭歌がそう叫ぶと、突如、冷ややかな風が教室中に吹きつけ始めた。
「氷室くん、うるさいわよ」
「課題の邪魔」
全く同じ冷めたトーンの声をした男女二人から同時に糾弾され、倭歌はうっと息を詰まらせる。そんな倭歌に、クールな二人は更に追い打ちをかけた。
「氷室くんは無駄に声が大きいから、頭に響いて痛いのよ。もう少し声のボリュームを下げてもらえるかしら」
「な、何で俺に言うんだよ和倉。ちょっかいをかけてきたのは伽耶の方だろっ」
「それに過剰反応したのは貴方でしょう。しかも、拳を机に叩きつけるなんて……野蛮人のすることだわ」
「や、野蛮人……」
流れる長い黒髪を揺らしながら、和倉は一刀両断と倭歌の言い分を切り捨てた。致命傷を与えられた倭歌は、悲しい血渋きを上げながら大きな体を丸め始める。
「自業自得だろ」
「……」
そしてトドメを刺したのは、倭歌の隣に鎮座し黙々と課題に勤しむ美青年だった。ハニーブロンドの髪が太陽の光を反射し、きらきらと輝いている。
「まあまあ、皇君。倭歌ちゃんも悪気があった訳じゃないんだよ」
「……フン」
そう伽耶が仲裁に入れば、皇は一度鼻を鳴らすだけでそれ以上は糾弾してこなかった。いつの間にか顔を机に突っ伏していた倭歌は、やがてぼそりと小さな声で呟く。
「大方はお前のせいだろうが……」
「あは。ごめんね、倭歌ちゃん」
そう手のひらを合わせて謝るが、もう倭歌は顔を上げてくれなくなった。どうやら不貞腐れてしまったようだ。これは失敗した。相手をして貰おうと思ったのに、まさか倭歌の方がつぶれてしまうとは。
作戦は失敗し、とうとう伽耶は手持無沙汰になってしまった。
退屈になって大きく溜息をついていると、不意に顔に影がかかる。
伽耶はぱっとその方向に顔を向けた。
「百井川先生?」
首を傾げていると、トン、と百井川教諭が伽耶の机の上の課題プリントを指した。
「雪野、いい加減に課題に戻れ」
「はーい……」
伽耶はその言葉に、ようやく静かにシャーペンを手に取った。
「お前もだ、氷室」
「おう……」
プリントに目を通しながら、伽耶はちらと窓際に立つ百井川教諭を盗み見る。去年新任したばかりだというのに、彼の授業はとても分かりやすいともっぱらの評判だ。他の教科担任の授業と比べてしまうほどには、伽耶はこの担任の授業が好きだった。
まだ年若いにも関わらず教え方は生徒に好感を呼び、分からない問題のある生徒を職員室に呼びつけ、そのまま教えたりと面倒見も良い。
なんといってもその整った顔立ちに、百井川教諭は今現在絶大な人気を誇っている。
(あーあ。百井川先生って、本当に喋らないよなぁ。私たちと一緒にもっと話したらいいのに)
立ち姿さえ絵になる彼は、確かに伽耶すら見惚れてしまう整い過ぎた容姿を持っている。
しかし時折、伽耶はふと思うことがある。
彼はまるでどこかこの世界から切り離されたような、この日常の風景に馴染んでいないような、そんな浮世絵離れした雰囲気を持っていた。
(そんな訳ないって分かってるけど、不思議な雰囲気だよね)
伽耶はひとり小さくかぶりを振って、再び課題と睨めっこを始めた。