プロローグ
―――漆黒の闇夜、ほのかな青白い光を放つ少女が静寂に包まれた町を駆ける。
川べりに面した街道には枯れ木が軒を連ね、それらにぶら下がる古ぼけた薄緑色の提灯たちは無残にも切り裂かれていた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」
そんな黄泉の国へ誘われるかのような不気味な町で、疾風のごとく駆ける一人の少女がいた。
背に龍を象った紺瑠璃の羽織を纏い、彼女はひたすらに前へ向けてしか走らない。
肩まで切り揃えられたであろう髪は無造作に跳ね返っており、大切な羽織さえ泥に塗れてしまっている。そして平々凡々な顔立ちの彼女の真っ白な頬には、僅かながら鮮血が付着していた。
「――どこへ行こうというのですか?」
「――僕たちから逃げられるとでも?」
「……っ!」
ただ真っ直ぐに駆けるその少女の背後で、二人の男の声がした。穏やかな口調にも関わらず、ぞわりと背筋が粟立つような冷たい声色が語りかけてくる。――殺気だ。抑えきれないとばかりに膨れ上がる気色の悪い殺気が、少女を覆い尽くそうとする。少女は必死で唇を噛み締めた。
「ねえ隋鶴兄上」
「なんだい唐鶴」
「僕らは双子だよね」
「そうだね。母上にも私たちの見分けが付かないと言われていたくらい似ていますね」
男たちの言う通り、二人はまるで鏡写しのような瓜二つの顔だった。
血の気の感じられない真っ白な白い肌。宝石を埋め込んだかのような美しい金の瞳。極め付きは絹のように輝く瑠璃の髪。二人は、まさしく人間を辞めてしまった人外のよう。美しすぎたその風貌はしかし、見る者を凍りつかせるようなあやうい狂気を孕んでいた。唯一異なる点を挙げれば、兄の方には口元にホクロが、弟の方には泣きボクロがあった。
「僕ら二人でユキちゃんを殺したら、ユキちゃんがどっちにとどめを刺されたか見分けが付かないんじゃないかな」
「なるほど。それは考えていませんでしたね」
「背中を切るのは兄上でいいから、僕が心臓を刺してもいいかい?」
「私だってユキさんの心臓を抉り取りたいですよ」
「ここは弟に譲ってほしいなぁ」
「兄弟といっても、歳は変わらないでしょう」
「王権があるのは兄上じゃないか」
「ふふ。そうでしたね」
「うーん、何だかまた兄上を殺したくなってきた」
自分の背後でとてつもなく恐ろしい会話の応酬が行われていることに、少女は生唾を飲み込んだ。すぐ後ろで彼女の命を狙っているのは、隣国の王族でありながら何万もの命を失わせてきた殺人鬼なのである。
彼らにとって命とは『刈る』べきものであって、それ以外の感情など持ち合わせていないのだ。頭のネジが数本外れているという話ではない。そもそも彼らには『常識』『倫理』という、人間として当たり前のネジすら生まれながらに置いてきてしまっているのだから。
しかし、それでも少女は振り向かない。
ただ前へ前へと一点のみを集中して駆けて行く。それだけが、今彼女に許された贖罪なのだから。
「唐鶴は本当に諦めが悪い弟ですね。また戦争がしたいんですか?」
「あれは兄上のルール違反だったじゃないか。毒殺なんて趣味の悪い」
「数滴の毒で死ぬような王は中ツ国には必要ありませんからね」
「ユキちゃんも毒殺するつもりかい?」
「まさか。あんな適当な殺し方では満足できませんよ」
「具体的には?」
「……きちんと手順を踏んで、嬲るように親しい人間の前で殺して差し上げるんですよ」
ねっとりとした気色の悪い蜘蛛の手が、小さな彼女の肩に迫る気配がした。僅かに彼女は走る速度を上げる。
「ああ、逃げないで下さいよユキさん」
間一髪か、男が残念がる声が耳に届いた。少女の心臓が一拍遅れて跳ね上がる。嫌な汗が頬を伝った。
「はは。兄上は僕より変態だなぁ」
「そうですか? これでも紳士のつもりなのですが」
「じゃあ変態紳士だね、兄上は」
「不名誉なあだ名は止めてください、唐鶴」
軽快な会話を楽しんでいるようなのに、決して彼女に迫る気配は止まらない。背後に迫り来る隠しきれない殺気、震えのとまらない両腕、先の見えない真っ暗闇の街道。
けれど、少女は決して涙を流さなかった。
ひた走るその姿は勇敢であり、果敢であり、希望に満ちていた。
――大丈夫。もう、あの頃の私じゃないから。
少女の意思は、強かった。
枯れ木の川沿いを通り過ぎると、今度は大きく開けた場所が飛び込んでくる。
そこには息を呑むほど美しい桃色の枝垂桜があった。桃色の花弁が夜風に乗り、ひらひらと舞い踊る。枝垂桜が月の光に反射して金色に輝いている錯覚さえ覚え、息を止めそうになる。
とても、美しい光景だった。
――それが、仇となってしまったのだろうか。
「あっ……!」
桜に気をとられ過ぎていたのか、少女は足をもつれさせ大きく地面に倒れこんでしまう。じくりと右足が傷んだ。ちらと足元を見れば、土と泥にまみれながら、どろりとした鮮血が足から溢れていた。暗く冷たい感触がさざ波のように襲ってくる。
転倒した少女に目もくれず、双子は未だ軽快な会話を楽しんでいた。
「大体、唐鶴は昔から『兄上、兄上』と私に付いてきたではありませんか。あの時の可愛い唐鶴はどこへ行ったのですか」
「まさかこんな変態兄上になるとは思ってなかったんだよ」
「だからといって、私の部下を憂さ晴らしに何人も殺すのは止めて欲しいのですが」
「だって兄上が王権を譲ってくれないし」
「王権は譲るものではなく奪い取るものですよ、唐鶴」
「あは。じゃあ今ここで兄上を殺しちゃっていいの?」
「その前にユキさんですよ。全く、失礼ではありませんか」
「それもそうだね。ごめんね、ユキちゃん」
謝るくらいなら、いっそ殺さないで欲しい。そんな簡単な言葉すら、恐怖で紡げなかった。あれほど楽しげな応酬を繰り返しても、結局彼らの行き着く先は殺戮だけなのだろう。それはあまりにも哀れで、悲しげで、恐ろしいと少女は思った。
「ユキちゃんを殺したら、次は兄上だよ」
「分かっていますよ」
「じゃあ僕が心臓を刺すってことで」
「それとこれとは話が違うでしょう」
言い合いをしながらも、彼らは懐から黄金に輝く護符を取り出した。兄は両腕に嵌めた籠手に、弟は腰に下げた日本刀に。それぞれが所持している武器へそっと重ねた途端――
「では同時に殺しますか。それなら問題は起きないでしょう」
「そうだね。兄上と一緒に殺すなんて、久しぶりだなぁ」
「久しぶりでもないでしょう。ついさっきも二人で殺したのですから」
「あは。そうだったね。安心していいよ、ユキちゃん」
「ええ、寂しくありません」
双子の持つ武器が太陽の如く眩い光を放つ。網膜を焼き尽くさんばかりの輝かしい光の裏には、真っ赤な鮮血が垣間見えた気がした。――瞬間、目にも止まらぬ速さで一気に少女へと武器を振り下ろす。
「「――殺した李風杏翡が待ってるのだから」」
その名に、双子の言葉に一度も反応しなかった少女がピクリと肩を揺らした。 しかし、時既に遅し。双子は振り向きかける少女の小さな背中へ、必殺の一撃を放つ。
――だが。
「――ッ!?」
「これは――!」
刹那、立っていられないほどの強烈な烈風が双子を襲った。まるでかまいたちのようなそれは、彼らの全身をざくざくと容赦なく切り刻み、あちらこちらで血飛沫が舞う。慌てて双子は少女から距離をとった。
「兄上、これってどういうことだと思う?」
「どうでしょうね。私も初体験のことです」
「初体験。いい響きだね。僕好きだな、初体験って」
「ふふ。何だか興奮してきてしまいますね」
「やっぱり兄上は変態だなぁ」
切り傷を与えられながらも、双子はどこ吹く風で楽しげに会話をしている。しかし、二人の籠手と日本刀は変わらず臨戦態勢だ。惜しみない殺気が風と共に舞っている。
「ユキちゃんには傷一つ付いていないってことは、アレだよね兄上」
「そうですね、唐鶴。彼女たちは、まだ私たちを楽しませてくれるようです」
砂煙が晴れる。視界が鮮明になった時、佇んでいる人影に双子は顔を見合わせて微笑んだ。その黄金色の瞳は、まさしく獲物を刈り取る狂気のハンターである。
ゆっくりとした動作で、少女はこちらに近付いてくる影に顔を上げた。その待ち焦がれた姿に、彼女の喉は歓喜に震えた。
「――待たせたな、ユキ」
月の光が逆光して、その表情は伺えない。
しかし、差し出された右手と穏やかな声に、少女は自分の視界がじわりと滲むのが分かった。
「キョウ、ちゃん……」
差し出された右手を握った瞬間――――少女の頬に、一筋の雫が零れ落ちる。
泣き虫の親友に、キョウと呼ばれた少女はふっと表情を和らげた。
「泣くな。……お前は本当に泣き虫だな」
「な、泣いてなんかないよっ……!」
ごしごしと少女は羽織の袖で小さな雫を拭った。
するとぐっと手を強く引かれ、キョウの隣に立たされる。彼女の強い意志を持つ顔が露となり、少女もキョウの手をぎゅっと握った。
「さあ、行くぞ。この戦いを終わらせるために」
「うん。この国に、平和をもたらすために」
そして、少女たちは最後の戦いへと身を投じた――――。
――――時は、少し前へと遡る。