一章
テクス・テイル TEXTALE
登場人物
遠野 純永 C大学生(法学部法律学科)
一志木 賽 C大学生(法学部法律学科)
花田 勇 C大学生(法学部政治学科)
早川 実理 美大生
真柴 郷子 C大学生(文学部日本史専攻)
九葉 吾務人 C大学生(文学部哲学専攻)
冴樹 仁 フリータ
まだ個人の状況を考えるとして、すべての語、すなわち繰り返されるすべての現れについて同じ回路を考えるならば、(言葉のイメージを複数受けとる以上)それを規則的に連携させる操作を表す部分を付け加える必要があります。そうして統一されたものを、話者は、少しずつ意識するようになります。その結果、反復される一連のものが、主体[sujet]においてある秩序を形成することになります。
まだ個人のレベルではありますが、この連携操作によって、言語とは何かに近づいてきています。(まだ個人の場合だけでしか考えていません。)
社会的な行為とは人と人とをつなげた上での個人の集まりの中にしか存在しえませんが、個人の外では考えることができません。社会的な事柄は、ある平均的なもので、どの個人においても確立されないし、もちろん完成もされません。
回路のどの部分で社会的な資本化、結晶化が行われるのでしょうか?任意の部分ではなく、物理的な部分でもありません。(だから、私たちは知らない外国語の音に強い印象を受けはしますが、そうだからといって私たちはその言語の社会的な事柄の中にいるわけではないのです。)また、心理的な部分全体が社会的になるわけでもないということにも注意しましょう。心理的な部分においては、あくまで個人が主なのです。
言語を使うことはあくまで個人の行為で、私たちが発話を認識するのはこの部分においてなのです。(社会的なのは)受容的で連携的な部分です。異なる個人の中に貯蔵されてはいても、すべての個人にかなり同じ存在が形成されるのは、この部分です。
この領域こそ言語の領域を表します。個々人において、無数の言葉のイメージが、対応する同数の概念と結びつけられています。一人の人を取り上げると、そのたった一つのサンプルの中にも社会的総体の中での言語とは何かを見ることができるでしょう。もし個人の中に貯蔵され、ある秩序と分類に従って配置されている言葉のイメージを調べることができるならば、そこに言語をなす社会的な結びつきを見ることでしょう。
この社会的な部分は純粋に心の中のもので、純粋に心理的なものです。このようにして、人は言語を保持しているのです。
(ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート/フェルディナン・ド・ソシュール)
子供の頃遠視だった遠野純永は、本をよく読むようになってから近視になり、眼鏡を掛けるようになった。遠視だった頃、純永は、ぼんやりした子供だと周りからは思われた。それは、近くに居る家族や友達を曖昧に認識していたからであり、その頃の彼は主に音で人を区別、理解していた。しかし、音に反映されるものが、人間の反応の全てではない。相手が黙る時のその顔、目配せ、微笑み、苦笑い、落胆、驚き、そういうものが存在するということ、それを知ったのは高校生になってからだった。
純永は、ふと考える。あの頃、どんな顔が周りにあったのだろうかと。
一章
1
大学のガイダンスが一通り終わった。差し迫って決めなければならないのは、導入演習という名のゼミの先生を決めることだった。先生達が壇上に登り、それぞれ自己紹介をしている。眼鏡越しに、それを注視していた純永は、突然左隣に座っていた女性から話しかけられた。
「こんにちは。あなたはどの先生が良いと思ってる?」
髪は黒髪で、肩まで真っ直ぐに伸びている。整った目鼻立ち。特に、言葉を発する時の口元が印象的だった。焦茶色のブラウスに、細いジーンズを履いている。今まで出会ったことが無いタイプの女性なのではないか、と直感的に純永は感じた。
「あ、どうも。そうですね…、まだよく分からないけれど、さっき正義の二面性に少し触れていた先生が、ちょっと気になっています」
突然話しかけられたので、先生達に関して思っていたことをそのまま口にしてしまった。もっとぼかして第一印象をじっくり築いていくべきだったか、と純永は少し不安になった。
「ああ、あの先生ね。あ、遅くなったけれど、私は一志木賽って言います。あなたは?」
「僕は、遠野純永です」
「良かったらこの後一緒に食事でもどう?どの先生にするか、一緒に話せたら良いし、お互いのことももっと情報交換できたら良いでしょ?」
賽は、快い笑顔でそう言った。
2
導入演習のガイダンスが終わった後、純永と賽は学生食堂で向かい合っていた。
「地元は福岡なんだ。私は、ここが地元。私、入学式ってサボっちゃったから、初めて大学に来たんだけれど、やっぱり人が多いね」
「ウチの大学は多いよね」
入学式で新入生の数を見ていた純永は、全く同感だったので、そのまま相槌を打った。
「遠野君はどうして法学部に入ろうと思ったの?」
「えっと…、法律に興味があったから、かな」
「どういう風に?」
「価値観の異なる人間同士の間で、一応でも、当事者が納得するルール、納得しなくても、真の、というか、普遍的なルールみたいなものって存在するのか、どうやって定めるのか、そういうことに関心があるかな」
賽はずっと純永の眼を見つめている。純永は、試されているような気がした。よく分からないけれど、少なくとも、自分よりも相手が上位に居る。相手はついさっき出会ったばかりの人間であり、対等であるはずなのに、既に主導権を握られている感じがした。
「一志木さんはどうして法学部に入ったの?」
「私はね…、法学部って、文系の中では偏差値が一番高いじゃない?たぶん本当はあまり意味が無いことだと思うけれど、そういう頭の良い人って、どういうことを考えるのか、どんな人間なのか、そういう人に囲まれて自分はどんな風に振る舞うか、変わるか、そういうことを考えると面白かったから」
賽はさらさらと志望動機を述べた。その意味を純永はもちろん理解できたが、相手は自分と比べて、明らかに他者を、この場合純永を意識して、自分を構築して見せているようだった。
「サークルはもう決めた?」
賽は質問した。
その後、二時間程二人は話し込んだ。