平和な日常~やっぱりあれは夢だよ
「あら、ひどい怪我。早く手当てしましょう。でも、ストッキングの下だから、脱がないとだめだわね」
園長先生がおっしゃった。
傷はストッキングの下にある。今日は一日中、私はストッキングを履いたまま。あの夢を見るまでは、怪我なんてしていないし、第一、こんなにひどくすりむいているのに、ストッキングが破れていないのはおかしい。あの夢が現実だったんじゃないかという空想が、私の胸に、またひょっこりと浮かび上がる。
とりあえず今は、夢のことなんて考えている暇はない。家へ帰ると、ハードな戦いが待っている。『肝っ玉戦隊★お母さん仮面』に変身しなくちゃいけない。家庭の平和のため、私は戦うのだ。はるは遊びたがって、なかなか夕飯を食べないから、策を弄してかからなくては。お風呂が嫌いでぐずるのをなだめすかして身体を洗い、風呂上りに大はしゃぎでバタバタ走り回るのを、最終兵器★アンパンマンのぬいぐるみを手に、布団へ誘い込んで寝かしつける。そのあとも、片づけることが山積みだ!
「ありがとうございます。あとで、家でシュッと消毒しときます」
私は先生にお礼を言う。
「あの、お迎えが19時を過ぎてしまったので」
ついでに、気になることを訊いてみた。この保育園では、19時を過ぎると、延長分の保育料がかかる。
「そうだったかしら。よく覚えていないから、延長料金はいただかないことにしましょう。他のお母様には内緒ね」
園長先生は、ふわりと優しい笑みを浮かべた。
☆
古びたアパートの前で車を降りると、自宅の窓から灯りが見えた。今日は、弟の佳祐が帰ってくる日なのに、うっかり忘れていた。佳祐は長距離トラックの運転手をしているから、勤務のときはだいたい2、3日の間、泊りがけで出ずっぱりになる。
私は、はるの手を引いて、アパートの外付け階段を上がり、玄関のドアを開ける。
「ただいま」
「おう、姉ちゃん帰ったか」
佳祐は、玄関を入ってすぐのダイニングキッチンにいた。
ちゃぶ台の前で、ドカッとあぐらをかく、ガタイのいい弟。私が15才のときに、こいつは小学生だった。それが今は、金色に染めた髪をツンと立てて、やんちゃな風貌の29才になっている。佳祐は、もやし炒めをつまみに、缶チューハイを飲んでいた。
「けーたん!」
はるは、いちもくさんに佳祐のそばへ走って、でっかい背中にへばりつく。
「おいっ、はる。いい子にしてたか」
佳祐は、ひょいと小脇にはるを抱えて、ゆさゆさと揺する。
佳祐は構い方が荒っぽいから、はるにとっては、それが遊園地のアトラクションみたいな位置づけで、楽しいようだ。はるは手足をバタバタさせて、大はしゃぎした。
「こらっ、痛えぞ、大人しくしやがれ」
冗談とはいえ、2才児に向かって凄んでみせる、いかつい弟。嬉しくてキャーキャー叫ぶ、2才児。
うちの外でやったら、近所の人がびっくりして通報されかねないビジュアルだけれど、家でやっている分には、微笑ましい。
「ふたりとも、うるさーい! 静かにしてよ」
私は一喝した。
いつもの平和な暮らし。やっぱり夕方のことは、夢だったんだ。夢で、15才に変身しただけ。それを一瞬でも現実じゃないかと思うなんて、馬鹿みたいだ。
私は自分にあきれつつ、玄関で靴を脱ぐ。
「ママね。ちーでたの」
はるが佳祐にじゃれつきながら、報告する。
「ちーでた? しっこでも漏らしたか」
佳祐が、ニヤリと笑う。
「ちょっと、違うよ! ひざを怪我して血が出たの」
私はあわてて訂正する。
「怪我したんか。姉ちゃんが?」
佳祐が訊いた。
「大したことない。ひざの外側をすりむいただけ」
「どれ、見せてみろ」
佳祐が言う。私は、スカートのすそを持ち上げて、佳祐にひざの傷を見せる。
「こりゃひでえ。腫れてんぞ」
佳祐は身を乗り出して、傷を観察した。
「どうすりゃ、こんな風になるんだ」
夢の中で怪我をしたら、同じ場所に傷がついていた。正直に話しても、佳祐には鼻で笑われるだろう。
「よくわからないの。帰りに運転しながら居眠りしたみたいで、ぜんぜん覚えてない。たぶん急ブレーキを踏んだか何かで、そのときにぶつけたと思う」
私は適当にごまかした。
「覚えてないって。危ねえ。よっぽど熟睡してたな」
佳祐は、チューハイをあおった。
「そうそう。夢まで見ちゃったもん」
「そら寝すぎだろ」
佳祐は、呆れた顔になる。
「姉ちゃん疲れてるんと違うか? 飯食ったあとで、はるを風呂に入れとくから、ちょっとでも休めや」
「だけど、佳祐だって、仕事の間はまともに寝てないんだし」
長距離トラック運転手の仕事は、かなりのハードスケジュールだ。佳祐だって、わずかな仮眠を取るだけで関東から夜通し運転したあとに、荷解きとトラックの整備を終え、それでやっと帰宅が許されるらしい。本当は、今ここで倒れ込みたいくらいに眠いと思う。
「どうせ風呂に入るんだから、1人も2人も一緒だろ。なあ、はる」
佳祐は、はるのお腹をくすぐった。はるは、ケタケタと笑って身体をくねらせる。
「それとな。明日は休みだから、車、貸してくれるか」
佳祐が、遠慮がちに言った。佳祐が、いつになく優しいのは、そういう含みがあるからか。佳祐には週に一度だけ、丸一日休める日がある。その貴重な休日は、どうやら恋人に会っているらしい。
「いいよ。私は、自転車でも仕事に行けるし」
いつもより早起きすれば、大丈夫だろう。保育園へ寄ってから職場へ行っても、自転車で20分程度だ。
「さあ、ご飯、作ろっか」
私は急いでエプロンをかけ、キッチンへ立った。