最後の言葉
拓途の身体の下で、わたしは足をバタバタさせて暴れる。
嫌がっていると気づいて欲しかったのに、拓途にはぜんぜん伝わっていない。彼の指先は、わたしの太ももをゆっくりと上へ伝って、ショーツに触れる。
どうにか逃げようとしているうちに、わたしは押入れの奥へ入り込んでしまった。
バン! と音がして、拓途の足がふすまに当たる。その勢いで、ふすまが半分くらい閉まって、押入れの中が真っ暗だ。
暗闇の中では、目の前にある彼の顔も見えない。荒い息づかいがはっきりと聞こえる。
カチャカチャと金属音もする。拓途がベルトを外そうとしているのかもしれない。彼は腰を少し浮かせた。
今しかない。逃げなければ。
拓途が体勢を変えて、横向きになった。キスでふさがっていた口も、やっと自由になる。
「いやんっ、もう、ダメ」
私は叫んで、押入れからはい出す。
とにかく拓途の興奮が治まるまで、どこかへ隠れようと思った。
私はとっさに、洗面所まで走る。
鏡の前へ立ったとき、見えたものに、私はびっくりして、頭が真っ白になる。
「えっ?」
鏡に映るのは、黒い髪。子育てに追われて、美容院にも行かずに放ったまま、肩につくまで伸びた髪。
私は、35才の姿になっている。
「あっ」
いつ戻ったのだろうか。私が変身するのを見ていれば、拓途は何かを言うはずだ。もしかしたら、真っ暗な押入れにいる間に、元へ戻ったのかもしれない。
私は思わず、鏡に触れる。
これが35才の私。頬にくっきりと入ったほうれい線、たるんだ口元。くたびれた顔をしたおばさんが、白いワンピース姿で立っている。胸元にむちっとはみ出る贅肉。その姿は、必死に若づくりしているようで痛々しい。
肩ひものついた少女っぽいワンピース。普段は、このワンピの下へTシャツを重ねたり、デニムパンツを履いたり、1枚だけで着ることはない。けれどさっきまで、私は15才の姿をしていた。いつもと違って、肌へ直接、着ているのだ。
後ろで、弾むような足音がした。振り返ると、そこに拓途がいた。
「元に戻っちゃった」
自分の声が震えているのに気がつく。なぜ、戻れたのが嬉しくないんだろう。
もう二度と、元の姿にはなれないかもしれないと覚悟していたのに、35才に戻れた。娘のはると平穏に暮らせる。母や弟に心配をかけずに済む。いつもと変わらず仕事にも行ける。飛び上がって喜んでもいいはず。
拓途は最初、ぽかんとしていた。一瞬、何が起こったかわからなかったのだろう。そのあと急に、怯えた顔つきへ変わる。
「拓途、どうしたの」
私が突然、おばさんに戻ったせいで、彼は驚いているのだろうか。私の正体がおばさんだって、彼はとっくに知っているのに、なぜこんなに怯えるのかわからない。
「何かあった?」
私は、拓途に近づく。
彼が顔をひきつらせて、後ずさりをした。
「何なのよ、そんな顔して」
私は、彼の頬に手を伸ばす。
拓途は身をかわして、足をもたつかせながら逃げるように走る。
「待って」
私は彼のあとを追う。私が追いついたときには、拓途は玄関で靴をつっかけていた。余程あわてているのか、制服のカッターシャツはズボンからはみ出して、肩にかけた通学カバンのひもが、ぐるぐるにねじれている。
「ねえ、本当にどうしちゃったの」
私は恐る恐る、訊いてみた。拓途が私を避けている。それはわかったけれど、彼がそうする理由を知りたい。
「私、何か悪いことしたのかな。嫌だと思うことは隠さず話そうって、さっき海で約束したよ」
私は言った。うちへ来る前、海にいたとき、彼とケンカして、仲直りのあとにそう約束したのだ。
拓途は困ったように、視線を泳がせる。
「お願い。どうして嫌なのか教えて」
私はもう一度、拓途に頼んだ。
拓途はしばらく思いつめたような顔をしていたけれど、やがてため息をつき、うつむいた。
「あんた、キモいの通り越して、怖い」
彼はボソッと言うと、玄関を出て行く。
『怖い』
自分に向けられた最後の言葉が、頭の中でこだました――
☆
「もう、くたくただわ」
母はそう言いながらも、嬉しそうだ。
昨夜からずっと、はるを預けていた。その間に、はるの大好きなアンパンマンのテーマパークへ行ったみたいだ。孫と過ごした一日のできごとを、母は楽しげに話してくれた。
「ばあば、かってくえたの。アンパンマンいーっぱいなの」
はるは、真っ赤な浴衣を着ていた。アンパンマンの笑顔が、散りばめられた柄。それに負けないくらい頬をピカピカに赤くして、はるは興奮気味に話す。
はるは最近、言葉も増えて、よくしゃべる。舌っ足らずなのは変わらないけれど、以前と違い、何を話しているのかなんとなく伝わる。
「わあ、その浴衣、格好いいな。ばあばが買ってくれたんだ」
私は、はるを褒めちぎる。
「こえ着ておまつりいくの」
はるが目を輝かせて、私にねだった。




