夢なのか、夢じゃないのか
猛スピードで自転車を立ちこぎしている間にも、わたしの頭の中に、不安がいっぱい湧いてくる。
15才の姿で保育園へ行っても、怪しまれて、娘のはるを連れて帰るなんて無理だろう。もし、何とかごまかして連れて帰れたとしても、はるは、15才になったわたしを見て、自分の母だとわかってくれるだろうか。はるの泣きべそ顔が浮かんで、心がぎゅっと痛くなった。
ずっと15才のままじゃ、仕事にも行けない。どうしよう? とにかく、弟の佳祐には、15才になった姿を見せて、これからのことを相談するしかない。同じ家に住んでいるから、隠し通すなんて無理だ。
なぜこんなことになったのか、わたしは切なくなった。どうすれば、元通りの35才に戻れるのか、見当もつかない。
太陽は、水平線の下にほとんど隠れて、完全に沈みそう。あの男の子と話している間に、ずいぶん時間が経ったのかもしれない。
心細さを感じるくらい、辺りがみるみる暗くなる。今日は、日が暮れるのが異様に早い。そう思った瞬間、まるでブレーカーが落ちたように、目の前が真っ暗になった。
☆
「痛いっ」
顔に、硬いものがぶつかった。びっくりしてのけぞると、頭の後ろには、柔らかい感触。振り向いたら、そこに車のシートがあった。私は、ヘッドレストに頭をもたれさせていた。
バックミラーを覗くと、薄いブラウンのアイシャドウをした目元が映る。目尻に、くっきりとした小ジワ。頬には、ぽつぽつとシミも浮かんでいる。耳に黒髪をかけたショートボブのヘアスタイル。見慣れた35才の私が、そこにいた。
「夢だったんだ」
ほっとして全身の力が抜ける。身体が15才に戻るなんてことが、現実に起こるはずない。やっぱり、あれは夢だった。
景色や音や感触、ひとつひとつの感覚がリアルだったから、あれが夢だなんて気づかなかった。自転車のペダルを踏み込んだ感触が、まだ足裏に残っている気がした。あの高校生の男の子は、早口で、高いトーンの声で話した。目尻を下げてくしゃっと笑った。鼻の傷に彼が触ったとき、くすぐったいような痛みが走った。
車は、防波堤沿いの道を抜けた先にある、駐車スペースの前に停まっていた。
外は薄暗くなっていたから室内灯をつける。妙な夢を見たせいか、額にびっしょりと汗をかいていた。バックミラーを覗いて、ハンカチで顔を拭う。さっきの夢で15才の自分を見たからなのか、肌のくすみがやたらと目につく。私ってば、こんなにひどい肌をしていたのか。
よく見ると、鼻の頭をすりむいている。たまたま、夢の中で傷がついたのと同じ場所だ。あれは夢じゃなくて、本当に起こったことだろうか。そんな思いが一瞬よぎった。
私はあわてて、馬鹿な空想を打ち消す。さっき顔にぶつかった硬いものは、車のハンドルだろう。たぶん、そのときに傷ができたのかもしれない。私は鞄からコンパクトを出して、鼻の傷を塗り隠す。
私は大急ぎで、保育園へと車を走らせた。
☆
「本当にすみません! 遅くなって」
私は謝りながら、猛ダッシュで保育園へ駆け込む。
娘のはるは、園長先生とふたりで座って、アンパンマンのDVDを見ていた。他の子はもう帰ってしまったのか、保育ルームは遊具が片付けられてがらんとしている。
「いえいえ。書類が片付いたから、ちょっと座ってのんびりしましょうと思って、はるちゃんにお相手をしてもらっていたのよ」
園長先生がおっとりとした口調でおっしゃった。
「はる、帰ろう」
私は声をかけた。はるは、口をぽかんと開けたまま、DVDに夢中になっている。
画面の中では、アンパンマンとばいきんまんの乗ったUFOが、空中戦を繰り広げていた。ちょうどクライマックスの場面。いいところだし、もう少し見ていたいんだろう。
「早くおいで」
私はもう一度、はるを急かした。
はるの大好きなアンパンマンだから、ゆっくり見せてあげたい。でも、おかしな夢のせいで、お迎えが遅れちゃったし、のんびりしていられない。
「まあ、いいじゃない。はるちゃんは、お母様がお迎えにいらっしゃるまで、お利口さんで待っていたものね。アンパンマンを見るのは、ご褒美よ」
園長先生は、にこやかに私を諭す。
「あっ……そうですね」
先生のおっしゃることも、わかる気はする。保育園へ迎えに来るまでのたっぷり半日、はるは、私をずっと待っていたんだもんね。あとちょっとでDVDは終わる。ケチなことを言わないで、待ってあげてもいいか。
園長先生は、DVDが終わるまでつきあってくださった。はるはこちらへ走ってきて、私のスカートへ顔をうずめて、足に抱きつく。
「ママを待ってくれて、頑張ったね。えらかった」
私は、はるの頭をなでる。
「いたい?」
はるが私を見上げた。
「何が?」
私は訊き返す。
はるは、私の左ひざを触る。
「えっ、これって」
私はひざの外側をすりむいていた。傷の周りは紫色になって腫れている。さっき夢の中で、できたのとそっくりな傷。
はるはその傷を、よしよしするようになでた。
何なのだろう? この傷は。