大人のキス(若葉マーク)
「もう、じっとしてよ」
わたしはヘアワックスを使って、拓途の髪を整えていた。彼は制服姿で、ベッドの上に座っている。わたしはまだ15才の姿のまま、拓途の前へ立って、毛先の流れを作っているところだ。
「そこまで凝ったこと、しなくてもいいって」
拓途は、嫌がって身体をひねる。
「ダメだよ。ボサボサの頭で学校へ行ったら、女の子に笑われる」
わたしは拓途の頬を両手で包み、彼の顔をこちらへ向かせた。
「モテたいんでしょ。だったら、大人しくして」
「寝癖、直すだけでよかったのに」
拓途は不服そうな顔をした。それでも渋々と、わたしの方へと向き直る。
拓途の横に、男性向けのファッション誌を広げてある。昨夜、この部屋の床に、置きっぱなしになっていた雑誌だ。『女子ウケ』するという洋服やヘアスタイルを、でかでかと取り上げている。わたしは、その雑誌に載ったヘアスタイルの写真を見ながら、大急ぎで、拓途の髪型を仕上げる。
拓途は夏休みに入ったばかりなのに、午前中は毎日、補習があって登校しなくてはいけないらしい。勉強机の上の目覚まし時計は、7時45分を指している。拓途の高校までは、自転車で15分はかかるだろう。授業は8時30分に始まるそうだから、あまりのんびりはしていられない。
「はい、できたよ」
雑誌に載っていたヘアスタイルの中でも、毛先がツンツンしていなくて、清潔感のある髪型を選んだのがよかった。頭のてっぺんのあたりをふわっとさせて、前髪を斜めに流したそのスタイルは、拓途によく似合っていた。
「いつもより、頭が良さそうに見えるね」
わたしは拓途をからかう。彼は、ちょっぴりあか抜けて見えた。夏目漱石の顔も知らない子だなんて、今なら誰も思わないだろう。
「そっちだって、言葉をぜんぜん知らないくせに」
拓途は、わたしの知らないような新語をよく使う。わたしはいつも、彼にその意味を訊いてばかりいる。きっと彼もわたしのことを、呆れるくらい、物を知らない奴だと思っているのだ。
「ほら、下に行くぞ」
拓途は、通学カバンを手に取った。
「うん」
わたしも、あわてて階段を下る。
1階に着くと、拓途はすぐに洗面所へ向かう。彼は、鏡の前であごを引いてみたり、右を向いたり左を向いたり、じっくりと自分の髪型をチェックしている。さっきは嫌がっていたのに、今は、まんざらでもなさそうだ。拓途はそのあと、歯を磨き始めた。
その間に、わたしは仏間へ向かう。昨夜、そこで見た、男性の写真が気になったのだ。拓途とそっくりな笑い方をする男性を、もう一度だけ見たい。勝手に部屋へ入るのは気が引けて、廊下から写真を眺める。人の良さがにじみ出ているような笑顔を、しばらくの間、眺めていた。
頭のてっぺんを叩かれて、わたしは我に返る。
「何してんだ」
拓途がわたしの頭をぐりぐりとなでる。
「あの人が、拓途のお父さんなの?」
わたしは鴨居にかかる遺影を手で指した。
「うん、そうらしいよ。俺は、覚えてないけど」
拓途が他人事みたいに、あっけらかんと答える。
「じいちゃんも知らないし、ばあちゃんは、何とかギリギリ覚えてる」
「おばあちゃまも、拓途が小さいときに亡くなったんだね」
なぜかわたしの方が、しんみりとしてしまう。
「幼稚園くらいだと思うけど、わかんない。それよりそろそろ、家を出ないとヤバい」
拓途はせわしなく、玄関へと向かう。
「そうだ。拓途が授業に遅刻しちゃう」
わたしも彼のあとを追って、玄関でローファーを履く。
拓途が、いきなりわたしに抱きついてキスをした。彼の舌が、おずおずと様子を見るように、わたしの口へ入ってくる。若葉マークがついちゃうような、初々しい大人のキス。歯磨き粉の匂いが、じんわりと口の中に広がる。もしかしたら、拓途はこのキスのために、玄関へ急いだのかもしれない。
身体を離すと、わたしは妙に恥ずかしくなって、拓途の顔が見られない。拓途もぎくしゃくとした動きで戸を開け、自転車を押して外へ出る。




