戻れない
鏡の前で、15才の姿になった自分を見ながら、わたしは途方に暮れる。
とにかく35才の姿に戻れなければ、わたしは母の家へ、娘のはるを迎えに行けない。はるは15才のわたしを見ると、キーキー奇声を上げて泣き叫ぶのだ。今はとりあえず、母に連絡をして、はるをもうしばらく少し預かってくれるよう頼むしかない。
わたしは母に電話をかけようとして、ふと気づく。わたしが15才の姿をしているのだから、35才のわたしがいつも使っているスマートフォンは手許にない。うちには固定電話を置いていない。母の家の番号は何とか覚えている。外へ出かけて公衆電話を見つければ、母に連絡を取れる。
玄関の前には、なぜか、通学バッグがあった。わたしはそこから財布を取り出す。家の鍵は、その財布の中にある。ピンク色の手まり鈴が、鍵にぶら下がっていた。このキーホルダー、めちゃくちゃ懐かしい。
わたしが高校生だった頃にも、このアパートの部屋に住んでいた。ここはわたしの実家なのだ。わたしが結婚で関東へ行って、母も再婚で家を出て、弟の佳祐だけが、ここにずっと住み続けていた。
わたしは部屋の鍵を閉めて、駅前へ向かう。駅の近くなら、公衆電話があるだろう。
このままずっと元の35才に戻れなければ、どうしたらいいだろう。わたしは泣き出してしまいそうな気持ちで、駅までの道のりを急ぐ。10分ほど歩いて、駅よりも手前で、コンビニの前に公衆電話を見つけた。
わたしは財布の小銭入れを覗く。その中には、10円玉が3枚だけ入っている。公衆電話に10円玉を全部入れて、母の家の番号を押す。コール音が5回鳴った。
「はい、佐伯でございます」
母が電話に出る。
「あっ、お母さん。わたし」
わたしは母の声を聞いて、少しほっとした。
「あのね。ちょっと」
用事が長引いた。わたしはそんな言い訳を考えながら、母に嘘をつこうとした。すると。
「奈津、私が賭けに勝っちゃった」
母がわたしの言葉をさえぎる。
「え?」
「はるは、あなたがいなくても泣かないの」
母は嬉しげに答える。
「あなたがいなくても、はるはシュークリームがあればご機嫌なのよ」
「嘘っ」
「嘘じゃないわよ。今、うちの人がはるとお風呂に入っているの。奈津、あなた夕飯はどうする?」
母がのんびりとした口調で言う。
「あの、それがね」
わたしは夕飯を断ろうとした。
「彼氏に帰るなって、引きとめられたんでしょう。ゆっくりしてくればいいのよ」
母が妙なことを言い出す。
「え? お母さん何言ってるの」
「隠さなくてもいいわよ。あなたに、若い彼がいるって、佳祐に聞いたの」
母は、声を弾ませる。もしかしたら、何か勘違いをしているのかもしれない。わたしが今、彼氏とデート中だと思っているようだ。
「あなたは『男友達』と言うけれど、その人のことを話していると、目の輝き方が違うって。それが面白いから、佳祐はわざと『つきあう気がないのなら、深入りするな』って忠告して、背中を押してやったってね。佳祐がそう言っていたわよ」
「そんな。違うよ」
わたしはあわてて否定した。
バカ弟め! そういえば一度、佳祐に、拓途のことを話した。といっても、年下の『男友達』がいると説明しただけ。あいつが余計なことをしゃべったせいで、母はすっかり誤解をしている。
「そろそろ、はるがお風呂から上がるから、もう切るわね」
母が急に早口になる。
「このあとはるを寝かせるから、あなたは、明日の夜にでも迎えにいらっしゃいな。じゃあね」
母は電話を切った。電話が切れたあとのツー、ツーという音が、わたしの耳にむなしく響く。わたしは受話器を置く。10円玉が1枚だけ戻ってくる。
母の家には、一応はるの着替えを置いてきた。でも、下着もTシャツも1枚ずつしかないし、それで足りるかどうか、わたしは気になる。もう一度、母に電話をしたい。けれど、小銭はもう10円玉1枚しかない。
財布には、千円札が1枚だけ入っている。わたしは、目の前のコンビニで買い物をして、お札を崩そうと思った。




