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賭け

「奈津」


 母が私を呼んだ。


「何」


 私は声をひそめて返事をする。


 私は母の家を訪ねて、はるを居間で昼寝させていた。はるがやっと眠ったところだ。私もはるのそばで、畳にゴロンと横になっている。


「シュークリームいただいたの。あなたも食べない?」


 母も声を低くする。


 母は、白い紙箱を手に提げている。箱には、茶色い字で『トレビアン』と書かれている。駅前に、昔からある洋菓子店だ。私は子どもの頃、その店のシュークリームがすごく好きだった。


「うん。食べようかな」


 私は起き上がる。今、ちょうど15時を過ぎたばかりだ。


「奈津、夕飯も食べて行きなさいよ。今、アジを南蛮漬けにしたから」


「それは止めとく。用事あるから」


 いつもの私なら、母の誘いに飛びついただろう。うちの母が作る南蛮漬けは、酸っぱさが柔らかくて優しい味がする。


 でも今日は天気がいいから、夕日が見えるはずだ。私は、夕方までに自宅に帰らなくちゃいけない。ここでうっかり夕日を浴びて、15才の姿に変身しちゃったら困る。母をびっくりさせる訳にはいかない。母の家から、うちのアパートまでは、車で5分ほど。すぐ近所だ。


「ちゃんとご飯は食べているの? あなたずいぶん痩せたわよ。お昼のそうめんも、はるに食べさせるばっかりで、自分はほとんど食べていなかったでしょう」


「大丈夫。今日は暑いから、あんまり食べたくなかっただけ」


 本当は、このところ食欲がわかない。職場でも、昼休みにお弁当が半分も食べられなくて、社員の咲和ちゃんを心配させてしまった。


 どうしても元気が出ない。回転寿司の店で、拓途と最後に会ったときからだ。彼に嫌われたあの日から、もう1ヶ月以上も経つ。あれからずっと、拓途の顔を見ていない。LINEでも話せていない。


 正体が三十路のおばさんだとわかってしまえば、高校生の男の子が相手にしてくれるはずもない。それに、私は自分のことばかり考えて正体を隠し、15才のふりを続けた。そのせいで、拓途の初々しい恋心を踏みにじったのだ。


「梅ジュースは飲むでしょ」


 母は、私の気を引き立てるように明るく言った。


「うん」


 母は毎年、6月の初旬に、青梅と氷砂糖を漬け込んで梅シロップを仕込む。シロップは、1ヶ月ほどできれいな黄金色になる。今日は7月の23日だ。もうすっかり、飲み頃になっているはず。そのシロップを水で薄めれば、梅ジュースができる。


「じゃあ、奈津、これをお皿に出しておいて」


 母はシュークリームの入った紙箱と、ガラスの皿を私に差し出す。


「はいはい」


「『はい』は、1回よ。2回言わないの」


「へい」


 私はふざけて答える。


 母は呆れた顔をして台所へ戻った。箱を開けると、ふっくらとしたシュークリームが3つある。私は、2つを取り出して皿に載せる。


 母が、お盆を手に戻ってきた。


「お母さん、これ3つしかないの」


「そうよ」


「私は、はると半分ずつにするよ。佐伯さんの分を置いておかないと」


 私はシュークリームを割ろうと手に取る。


 佐伯さんは母の新しい夫だ。ふたりが再婚して、ここに新居を構えてから、9年目になる。


「あの人は、甘いもの食べないわよ。遠慮しないで、好きなだけ食べなさい」


 母は、私の前に梅ジュースを置く。


 母は、頂き物のシュークリームだと言ったけれど、本当は違うかもしれない。母は、昼食のあとに買い物へ出た。私が食欲をなくしているのを見て、わざわざ買ってくれたのかもしれない。


「うん」


 私はシュークリームを頬張る。昔から変わらない味。歯が浮いちゃうほど甘い。それでも。


「おいしい。この味、ほっとするんだよね」


「そう。よかったわ」


 母は安心したように微笑む。


「こっちも食べなさい」


 母はもうひとつのシュークリームが載った皿を、私に差し出す。


「奈津。あなた、用事があって帰るって言ったわよね」


「うん」


「はるを預かっておくから、用事が終わったら、また戻っていらっしゃいよ」


「でも、はるは私がついてないと不安がって泣くから」


 はるは、家にいるときは一日中、私のあとをついてまわる。ちょっとでも私の姿が見えないと、はるが大泣きする。私はトイレにもゆっくり入れない。


「大丈夫よ。最初は泣いてもそのうち慣れるわよ」


 母はこともなげに言う。


「奈津、ちょっと賭けをしてみない?」


「賭け?」


「このあと、はるが目を覚まして、あなたがいなくても泣かなかったら、今晩は、はるをうちで預かる。その間、あなたはゆっくりできるでしょ」


 母が、賭けの条件を提示した。


「はるが泣き止まないときは、あなたはうちに戻って、みんなで一緒に夕飯を食べるの」


「それって、どっちに転んでもお母さんが嬉しいだけじゃない」


 私は呆れる。母は何か理由をつけて、かわいい孫と一緒にいたいのだ。


「あなた、明日も休みなんでしょう。もしも奈津が賭けに勝てたら、うちに泊まればいいわよ」


 私は早めのお盆休みで、今日から2連休をもらっている。うちの職場のスーパーでは、みんなが交代で夏休みを取るのだ。


「それじゃ、佐伯さんがくつろげないよ」


 私は遠慮した。自宅でゆっくりできないなんて、母の旦那さまに気の毒だ。


「あなた、自分が賭けに勝てると思っているのね。はるは、自分がいないとダメだって思っているんでしょ」


 母が余裕の笑みを見せる。


「子どもをふたりも育てた私を、甘く見ちゃダメよ。はるは、泣かさないから」


 はるは17時を過ぎても、まだ気持ちよさそうに眠っていた。私は母にはるを預けて、一旦、家へ戻る。

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