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おばさん、気づかれず

 職場の駐車場に着いたのが、8時25分。勤務は45分からだ。少し余裕がある。私は車の中で、化粧をしてしまおうと思った。


 鞄から、眉ペンシルとマスカラを出した。私はバックミラーを覗いて、眉を描く。今日はどんよりした曇り空だ。車の中が薄暗くて鏡が見づらい。見やすくしようと身体をひねったら、化粧品を床に落としてしまう。


「急いでるのに」


 ひとりでぶつぶつ怒りながら、足元を手探りする。時間がなくて焦っているのに、化粧品は見つからない。


 そのとき、誰かがガラス窓を叩く。


 車の外に、咲和ちゃんがいた。彼女はうちのスーパーへ、この春に入社したばかりの18才だ。高卒で若くてもしっかりした子で、まだ5月なのに、正社員の仕事を滞りなくこなす。店のみんなに、『さわちゃん』と呼ばれて親しまれているのだ。


 私は、車の窓を開ける。


「神崎さん、おはようございます。何してるんですか」


 咲和ちゃんが不思議そうに訊く。


「おはようございます。寝坊しちゃって、化粧できてないの。今は、顔の突貫工事中」


 私はおどけて答える。


「本当だ。神崎さん、いつもと感じ違いますね」


 彼女は、私の顔をまじまじと見る。


「やだ、見ないで」


 私は、手で顔を隠す。


「そういうすっぴん風のメイク流行ってますよね。神崎さん、肌きれいだから似合ってます」


 咲和ちゃんが、やけに私を褒める。彼女は、パートのおばさんを転がすのが上手い。嫌な予感がした。まさか、面倒な仕事を任されるんじゃないだろうか。


「神崎さん、今日は1番レジの担当ですよ」


「えっ、そうなの」


 私は焦る。1番レジは、進物コーナーの担当も兼ねている。早く出勤して準備しなくては。


「うん。わかった」


 私は、化粧をあきらめて仕事に入った。



 空はどんよりと沈んだ色だ。


 私は仕事で残業したあと、車で保育園へ向かっていた。今、走っている国道の上を、厚い雲が覆っている。


 今朝、保育園ではると別れたときのことを思い出すと、自分が情けない。涙と鼻水で濡れたはるの顔を、拭いてあげる暇もなくて、ほとんど放り込むように預けてきた。


 私がだらしないからだ。昨夜は、高校生の男の子とLINEで話して、ずるずると夜更かしをして、その挙句に朝寝坊した。


 時間がなかったのは自分のせい。はるがぐずって出かける支度ができないのも、いつものこと。なのに、私は勝手にイライラして、ろくに朝ごはんも食べさせず、はるが嫌がるのに無理やり着替えさせた。ひどい母親だ。


 もうあの男の子とLINEで話すのは無理だ。会うのも止めようと、私は決心した。


 保育園へ着くと、はるは珍しく、自分から走ってきた。はるは甘えて、私の胸にしがみつく。


「怒ってごめんね。ママが悪かった」


 私は、はるの頭をなでる。


「お家に帰ろう」


 早く帰って、はるに夕飯を作ってあげよう。


 はるを抱いて、保育園の外付け階段を下りる。途中で、ふと下を見た。私はギョッとして足を止める。


 あの高校生の男の子が、保育園の前の道から、こちらを見上げている。彼は制服のブレザー姿で、自転車をわきに停めて、人待ち顔だ。


 彼はもしかして、15才の姿をした私を待っているのだろうか。ここにいれば、女子高生の私が、はるを保育園へ迎えに来ると思ったのかもしれない。期待で輝いていた彼の目が、一瞬で、無関心に変わった。私と目が合うと、彼は顔色も変えずにそっぽを向く。


 35才の私は、落ちている空き缶みたいに、彼から無視された。昨日、15才の私には、ほんわかした笑顔を見せてくれたのに。

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