イヤイヤ娘と格闘だ!
「いやない」
はるが答えた。この子は、ら行の発音がまだできなくて、『要らない』が、そう聞こえてしまう。
保育園からの帰り、私は、はるにヘルメットをかぶせて、自転車のチャイルドシートに座らせた。そのとき、ふと思いついて、『お肉を買って食べようか?』と訊いた。はるは、それをきっぱり拒んだのだ。
「牛さんのお肉おいしいよ。本当に要らないの」
私は、はるの気を引くよう、大げさに言ってみた。
「いやない」
はるに、あっさり断られる。
はるは、あまり肉を食べようとしない。小さな子にとっては、肉の繊維が固くて食べづらいんだろう。柔らかく煮ても、細かく刻んでも、いつも残してしまう。
まあ、魚や野菜を食べるから、ちょっとくらい偏食があっても大丈夫だと思う。私はあまり気にしないで、はるの食べたがるものを出すようにしている。いつもの私は、そうだった。
でも、今日は、無性に牛肉が食べたい。あの高校生の男の子と一緒に、肉屋のコロッケを頬張って、久しぶりに脂の旨みを味わったからかもしれない。
「ママはお肉が食べたいな。買っちゃおうかな」
「いやない」
はるは不服そうに顔を歪める。
「ママが食べるのもダメなの」
私は大げさに、悲しげに訊いてみる。
「いやない」
はるが、今度はケタケタと笑う。
はるは2才になる前くらいから、何を言っても『いや』と答えるようになった。いわゆる『イヤイヤ期』の真っ最中だ。
可愛いわが子とはいえ、朝から晩までイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ言われれば、さすがにめげる。はるは、自分の思い通りにならないと、耳をふさぎたくなるようなキーキー声で泣き叫ぶ。そんなことが、1日に何度もある。しょっちゅうだ。
それに、はるがどこまで本気で『いや』なのか、親の私にもよくわからないから困る。子どもが投げつける『いや』を、親が笑って受け止める。そんなキャッチボールみたいなやりとりを、はるは純粋に面白がっているのかもしれない。
「じゃあ、寄り道しようか」
私は言い方を変えてみる。
「よいみち?」
はるは、きょとんとした顔だ。
「今日は、はるが知らないお肉屋さんに行くよ。怖い怖い冒険だよ」
私は、絵本を読み聞かせるように、大げさに話しかける。
「おけん!」
はるは目を輝かせて、小さなこぶしを振り上げる。『冒険』と、復唱しているつもりなのに、上手に発音できないのだ。
はるの気がそれた。やっと、『いやない』の連発が止まる。フフッ……勝ったよ! 腕を上げたな、私! 心の中で親指を立てて、自分を褒めた。
こんな感じで、はるとのかけひきを楽しめるようになったのは、ごく最近だ。そうは言っても、いいときばかりじゃなくて、はると一緒に泣き出したくなることも、手を上げそうになることも、しょっちゅうあるけれど。
はると自転車に乗って、肉屋へ急ぐ。辺りはもう真っ暗だ。
商店街は、シャッターが下りてひっそりとしている。夕方に、あの男の子とコロッケを買った肉屋も、もう閉店したかもしれない。牛肉を買うのをあきらめようかと思った。すると、煌々と灯りのついたショーケースが、闇の中にぽっかりと浮かんで見えた。
私は、光に向かって急いだ。




