ほくほくシアワセ
「肉屋はこっち」
彼が自転車で、路地へ入っていく。わたしもあとへ続いた。
保育園から住宅街の路地を抜けると、ひなびた商店街が見えた。八百屋に、花屋に、薬局、小さくても一通りのお店は揃っている。その中に、肉屋もあった。
彼はもの慣れた風に、肉屋のわきのちょっとした隙間へ自転車を停める。わたしも自転車を降りて、お財布を出そうとした。
「このくらい俺がおごる。待ってて」
彼がわたしに言ってくれる。
「でも、いいの?」
年下の子におごってもらうなんて、ちょっぴり気が引ける。まあでも、今、わたしは彼と同じ学年の15才になっているんだし、素直に甘えることにした。
「カルビコロッケでいいよな」
「カルビ?」
「ここのは、牛のカルビ使ってんだ」
彼は、自分のことのように自慢げに言う。その粋がった口ぶりが可愛い。
「おいしそう」
「絶対、旨くてびっくりするから」
彼は嬉しげに、肉屋のショーケースの前へと小走りして行く。
もうすぐ夕飯どきだから、お客さんはひっきりなしだ。
店頭にフライヤーがある。わたしの目の前で、油の中に、カツやコロッケのタネが次々と放り込まれた。ラードの甘い匂いがふわっと立つ。
店のショーケースの上に、肉の値段を書いた札が、ずらりとぶら下がっている。和牛切り落とし肉が250円。豚ばら肉も105円。キラキラと心がときめく安さ。わたしの心は、もうイチコロ。すっかり舞い上がってしまう。
わたしはショーケースの中の値札も見たくて、身を乗り出して覗いた。注文を待つ列に並んでいる彼とばっちり目が合う。彼がほんわかした笑顔を向けてくる。わたしは、肉の安さに鼻息を荒くしちゃったことが急に恥ずかしくなり、あわてて微笑み返す。
彼の順番がきた。彼は、お店の人と話し込んでいる。フライヤーにコロッケのタネが2つ放り込まれて、ジュワーっと音が立った。彼が照れくさそうにニヤッと笑う。いったい何を話しているんだろうと、わたしは気になった。
会計を終えた彼が、気恥ずかしそうな顔で歩いてくる。
「豚こま69円、今はもうやってないって」
「店の人に、訊いてくれたんだね」
わたしが言うと、彼はうなずく。
「でも、これもらった」
彼は、緑色の小さな紙切れをふたつ差し出す。それは、この店で使える100円分の値引き券だ。
「2枚くれた。『彼女の分もどうぞ』って」
「彼女いるんだね」
わたしは何気なく相槌を打つ。
「違う。なつのことだ」
彼が早口で言う。
「わたし?」
私はびっくりして答える。
「中学で仲良かった奴の親が、ここで働いててさ。俺となつが一緒にいるから、『やっと彼女できたんだ』って、勝手に勘違いして」
あわてて言い訳するように、彼が真っ赤な顔でまくしたてる。
「でも、まあ、そうなっても…………ぃぃ」
最後の方は、急にぼそぼそと小声になった。わたしは、彼の言うことが聞こえなくて、訊き返そうとした。
そのとき。
「カルビコロッケ2個で、お待ちのお客さま」
フライヤーで揚げ物をするおじさんに、大声で呼ばれた。
「とにかく、これあげるから使いなよ」
彼は、値引き券をぎゅっとわたしの手に握らせた。
コロッケが入ったビニール袋を提げて、彼はすぐに戻って来る。
「公園で食おう」
「うん」
わたしはうなずく。保育園の向かいに、小さな公園があるのだ。
「急ぎで行こう」
彼は、自転車を取りに走る。
商店街から路地を抜けて、保育園のまん前に出た。娘のはると同い年くらいの男の子が、母親に手を引かれて、ちょこちょこと、保育園の外付け階段を下りている。はるも、わたしを待っているだろう。
「迎えは、何時だっけ」
公園の入り口で、彼はペダルをこぐ足を止めて、わたしに訊く。
「遅くても、19時までには行かないと」
「じゃあ食う時間あるよ。今、18時43分」
彼は、ポケットからスマートフォンを出して、ちらりと見た。
「ここにしよう」
入り口に一番近いベンチのわきで、彼は自転車を停める。
「うん」
わたしも彼に続いて、ベンチに座った。
「あっ」
彼が大きな声を出す。
「怪我のこと、忘れてた」
彼は、申し訳なさそうにうなだれる。
「昨日、自転車でコケて、ひざの横すりむいてたもんな」
わたしの傷のことを、気にしてくれているのだ。
左ひざの傷には、医療用テープでガーゼをべったりと貼ってある。さっき海にいたとき、防波堤の上では、彼はわたしの右側へ座った。だから、彼には見えていなかったんだろう。
「ここ来るのに自転車飛ばしたから、痛かったよな。ごめん。気づかなくて」
彼は謝ってくれた。
「家でも、よく怒られる。あんたは燈台みたいで、近くの大事なところが見えてないって」
身長の高い彼が、背中を丸めてしょぼんとすると、灯りの消えた燈台みたいに見えた。
「大丈夫。痛くないよ」
わたしはそう答えておいた。本当は傷がズキズキ痛んだ。またあとで、腫れたところを氷で冷やせば、楽になるだろう。
「早く食べちゃおう」
わたしは話題を変えた。
「そうだな」
彼は苦笑いして、コロッケの入ったビニール袋を覗く。
「こっち潰れてるから、俺が食う」
形のきれいな方を、彼はわたしに譲ってくれた。年頃の男の子だから、がさつなところもあるけれど、根はちゃんと優しい子なんだ。
わたしは、熱々のコロッケにかぶりつく。
「はふっ、本当においしいね」
カルビの脂が、じゃがいもへ行き渡っていて、肉の味をしっかり感じる。30代のおばさんにとっては、ちょっと脂っこいけれど、若い男の子は、このくらいコッテリしたのが好きなんだろうな。
「だろ? 暫定だけど、ここのコロッケは、世界一だから」
彼がほこらしげに胸を張る。しょぼんと丸まっていた背中が、まっすぐに伸びた。彼は、幸福感を顔いっぱいに満たして、コロッケを頬張っている。
『世界一』という響きは、妙に懐かしい。わたしも若い頃には、町内にたくさんの『世界一』があった。駅前の洋菓子屋のシュークリームが、世界一おいしかった。世界一、大切な友達もできた。それから、世界一きれいな夕日も独り占めした。
この町を出て、広い世間を知るまでは、自分の知っている小さな町だけが、世界のすべてだった。
そんなことを思いながら、わたしは、温かいじゃがいもを最後のひとくちまで噛みしめた。




