君だけは特別
わたしの後ろには、昨日ここで会った男の子がいた。彼は自転車にまたがったままで、こちらを見ている。今日の彼は、制服のブレザーを着ていない。長袖カッターシャツに、ネクタイをしめた姿だ。
「あの、わたし」
どうして彼がこんなに親しげに話しかけてくるのかな。わたしは35才で、彼は絶対に、わたしを知らないはずだ。まさか。わたしは、また15才の姿になっているんだろうか。
わたしが下を向くと、赤いタータンチェックのミニスカートが見えた。二度見、三度見、しつこく四度見までしたけれど、間違いない。今日もまた、昨日と同じように、女子高生に変身してしまった。
まずい。35才のおばさんのままで、探偵さながら、彼を偵察するつもりだったのに、15才に変身しちゃった! しかも、こっそり偵察するはずだった彼本人に、しっかり見つかっちゃってる。困ったな。また女子高生に変身するなんて想定してなかった。どうしよう? とにかく、笑ってごまかしておこう。
「隣に、座っていいかな」
彼は、わたしの返事も待たずに、自転車を停めて、防波堤へ上がってくる。
「明日が楽しみだ」
彼は、目尻を思いっきり下げて、ニヤニヤしている。
「明日?」
わたしには、彼の言いたいことがわからない。今、会ったばかりなのに、なぜ、明日の話をするの?
「昨日は、自転車でコケて、今日は、防波堤で寝てるし」
彼が吹き出した。そうか。わたしがドジなのを、馬鹿にしているのか。明日もわたしが何かやらかしたら、笑ってやろうと思っているのだな。この子、意外と嫌なヤツかも。
「なつは、何するか予想つかないし、ずっと見てたくなる」
彼はニヤつきながら、わたしの顔を覗き込む。
わたしはだんだんムカついてきて、顔をそらせる。ああ、腹立つな。顔が熱くなってきた。火照ってきちゃったかも。
「さっきからわたしを、『なつ』って呼んでるよね」
今、わたしと彼とは、見た目は同じ年頃だ。だから、彼がわたしにタメ口で話すのは、自然なことかもしれない。でも、わたしの心は、35才の大人のままなのだ。こんな年下の子から呼び捨てされるなんて、どうも納得がいかない。
「違う? プロフィールの名前が、『なつ』になってたから、そう呼んだんだけど」
彼は、不思議そうに訊く。
わたしはLINEのプロフィール欄に、『なつ』という名前を登録している。『神崎奈津』という本名をフルネームで書くのは無防備すぎる気がして、下の名前だけをひらがなで書いた。彼はそれを見たんだろう。
「違わないよ。でも、そういう風に、誰でも呼び捨てにするの、わたしはイヤ」
わたしは腹が立ってたまらない。この子は、相手に断りもなく呼び捨てにするのが、失礼だって思わないのか。おばさんは、礼儀に厳しいんだから。ちゃんと注意しなくちゃね!
「俺は……誰でもそういう風に呼ぶわけじゃないから」
「え?」
彼があまりに変なことを言うもんだから、わたしはつい、怒りを忘れてしまう。知り会ってまだ2日目なのに。そんな台詞は普通、つきあいたい女の子に言うものだろう。
「だし巻き作れるのが、すごいって褒めてくれたのは、なつだけだ」
「だし巻き?」
そういえば彼は、だし巻きを作るのが上手いって、プチ自慢みたいなのをしていたな。
でも、だし巻きを作るのが難しいと知っているからといって、なぜわたしが呼び捨てにされるのか、さっぱりわからない。
「同世代はみんな、だし巻きと卵焼きの違いすらわかってないし、そんな話、学校じゃできなくて」
彼の横顔が、寂しそうに曇った。
「そういう話すると、『空気読めないやつ』みたいな感じで見られそうだし。だから、まあいいかって、ゲームの話に適当に合わしてる」
彼は、苦笑いを浮かべる。
「なつとだったら、そういう話を、ネトゲの装備と同じくらい普通に話せそうだし」
彼の言いたいことは、なんとなくわかる気がした。
彼の周りには、彼と同じような母子家庭の子も、家事をする子もいないのだろう。同じクラスの子達とは話が合わない。彼は、無理に話を合わせなくてもつきあえる友達が欲しいのだ。そして、たまたま知り合ったわたしが、その条件にぴったりと当てはまった。そういうことなら、ちょっとは仲良くしてあげてもいいかもね!
『ねとげのそうび』という言葉の意味は、わたしにはわからない。話の流れからして、ゲームの用語かな。たぶん、彼の友達の間で、よく出る話題なのだろう。
「ご飯なんて、座れば自動で出るのが『普通』と思う人もいるもんね。その、出てくるまでがどんだけ大変か、知ってるのはいいことだよ。ゲームで強いとかより、ずっと大事だよね」
わたしは、娘のはると母子ふたりで暮らしているけれど、じつは、わたし自身も母子家庭で育った。両親は、わたしが中学校へ入る前に離婚したのだ。わたしが結婚で家を出るまでの10年間は、母と弟の佳祐と3人で暮らした。
わたしが中学生の頃は、夕飯のおかずは、温め直せばいいところまで母が作ってくれた。でも、高校に入ると、毎日そういうわけもいかなくなる。わたしの学費のために、母はもう一つ仕事を増やして、夜も小料理屋でアルバイトを始めたから。
ただ揚げたてほくほくのコロッケを作って食べるだけのことが、けっこう難しいなんて、自分でやってみるまでは思いもしなかった。最初にコロッケを作ったときの失敗を思うと、自然に笑いがこみあげる。
「何、笑ってんの」
彼がわたしに訊いた。
「思い出しちゃった」
「何を?」
「わたしが初めてコロッケを作ったときにね。揚げ油の温度が低すぎて、せっかく丸めたコロッケのタネが、油の中でぐずぐずに溶けちゃって」
今ではもう笑える話になった。でもあのときは、バラバラに崩れたじゃがいもを見ると、うちは元の4人家族には戻らないんだという思いが、なぜか急に胸に迫って、わたしは涙がこぼれそうになった。
「一から自分で作らなくても店で買えばいいのに、そのときは、どうしても、揚げたてアツアツのやつを家で食べたくて」
「それわかる。無性にできたてが食いたくなる感じ」
彼も嬉しそうに、話に乗っかってくる。
もしかしたら彼も、ラップなんてかかっていない、ほかほかと湯気の立つ料理に焦がれていたのだろうか。だからこそ一心に、だし巻きを作れるようになりたかったのかもしれない。わたしはそんな風に想像した。
「コロッケの話してたら、めっちゃ食いたくなってきた」
彼は、頭を抱える。
「わたしも」
わたしまで、ほくほくのじゃがいもが恋しくなった。




