EPISODE.1
その日は晴天だった。
冬が近づくこの季節は、程よい気温と天候に恵まれていて、雨の降らない日が数日続いている。何の変哲もない、普段と何一つ変わらない晴天だった。
街も普段と何ら変わりはなかった。今日はいつもより賑やかな方だ。街の人は皆、今日も「人間らしく」生きている。
幾年前だっただろうか、死のウイルスが流行し、街から人々が姿を消したのは。正体不明の死のウイルス、通称パンドラウイルスは、人々に「命を狙われるよりも恐ろしい」恐怖を与えた。街を歩けば、すれ違う他人がパンドラに侵されているかもしれない、人と会ったらまず死ぬことを考えろ、といった妙な噂が拡散され、人々は出歩くことをやめたのだ。思えば、どこからそのような噂が流れたのか、そして人々に影響を与えたのか。科学化が進む今、多くの人が利用するソーシャルネットワークサービス等が妥当だと考えるべきか。いずれにせよ、政府は追及することを諦めたのだ。
そして、この死のスパイラルに対し、根本を絶つよりも進行を絶たせようとして生まれたのがPVEQだ。パンドラウイルスに感染した者は誰であれ、発覚次第処刑する。人々の間で次に謳われるようになったのは、「どうせ死ぬウイルスなら、他人を傷つけてしまう前に死んだ方がいい」という文言だった。PVEQは称賛された。街を歩いてもパンドラキャリアにすれ違う心配が薄れていったのだから。
「……パンドラは皆PVEQが殺してくれるから安心、ねぇ……」
コンクリートの地面に鳴り響く空薬莢の音。それに重なるように呟いたのは、真っ赤に染まる地面をしゃがんで見つめていた金髪の青年。彼の前に横たわっているのは、先ほどまでこの通りを歩いていた男性だった。今となってはもう、ぴくりともしないけれど。金髪の青年は、この男をしばらく見つめていた。男の頭から流れる血の動きを楽しんでいるかのように。
「容赦ないね、ヴィアンカ」
ヴィアンカと呼ばれたのは、金髪の青年の後ろに立ち、右手に拳銃を持った男だ。倒れた男の頭を打ち抜いたのは彼であったが、顔色一つ変えず彼は拳銃を胸元のホルスターに納め、
「容赦していたら死ぬのは俺達だ、メイ」
呟いた。
金髪の青年、メイは、ヴィアンカを振り返り、にこりと笑う。
「そうだね」
メイは、自然な動きで手を差し出し、それに応えたヴィアンカの手に引かれ立ち上がった。
「……返り血は?」
「大丈夫、そんなに近づかなかったし」
ほら見て、とメイはヴィアンカに両手を広げ大の字になってみせる。あどけない仕草に、ヴィアンカは「そうか」とだけ囁いた。
「最近パンドラ増えてる気がするんだよねー、ねぇヴィアンカ?」
先ほど殺した男のことなど既に忘れてしまったかのように、空に向かって大きく背伸びをするメイの隣で、ヴィアンカは腕につけられた携帯端末を操作している。
「いつも通りだと思うけどな」
「えー? だって前まで発症直後とかあんま会えなかったじゃん」
「……そう、だな」
メイの言葉に何を思ったか、ヴィアンカは僅かばかり視線を彷徨わせた。彼の口数は少なかったが、メイはそれも慣れているらしく、動きを止めた彼を覗き込み、ふふんと鼻を鳴らして笑ってみせる。
「俺、意外と鋭いんだからね」
確かに、とヴィアンカは囁く。ここ最近、PVEQが発足して数年の頃よりも一日の「処刑」数が増加しているのは明らかだ。PVEQを設置した目的が、「パンドラの感染拡大を阻止すること」であったと言うのなら、処刑数が増えているのは、キャリアの発見がより迅速になったからか、それとも、ただ単純にパンドラの感染拡大が進んでいるからか。前者であれば、遅かれ早かれ処刑数はピークを迎えた後減少傾向に陥るはずだ。しかし現在の傾向では一方的な増加を続けているのみ――つまり、パンドラは収束に向かうどころか、むしろ、
「世界中に広まるのも時間の問題、か」
そのときは、人類はおそらく、滅亡の道を歩むだろう。
「俺らPVEQも、意味のないことをしてるのかもしれないね」
ヴィアンカはメイの言葉に、小さくため息をついた。彼の考えは正答だった。このパンドラウイルスキャリア処刑制度が必ずしも今の社会に適切で、他の手段は考えられなかった、というわけではないと言い切ることができた。何せこの制度は、いくら巧妙で崇高な言葉で着飾られていようと、所詮は「人殺し」を無理やり正当化した制度だ。
PVEQは忘れてはならない。決して、自分たちが正しいことを行っているわけではないということを。
「――ヴィアンカ? どうかした?」
「……いや、何でもない。メイ、PAFIAに連絡を」
はーい、と緩やかに返し、端末を操作するメイの隣で、ヴィアンカは不意に通りの奥を見つめ、ぴたりと動きを止めた。メイも遅れて、ヴィアンカの視線の先に目を向けた。
「子どもの声」
ぼそりと呟き、先ほどまで見つめていた方向に一気に駆け出すヴィアンカ。「ちょっヴィアンカ! まって」叫ぶメイの言葉に見向きもせず走り、突き当たりを抜けた先に銃を構えた。
案の定、「標的」は、いた。しかし、
「ぃ、いやだ、やめて」
そこにいたのは、子どもを抱きかかえた母親。いや、もう「母親」としての意識はないのかもしれない。銃を構えた男を捉えるその目からは、赤い液体が溢れ、何かを叫ぼうとしている口からも、血を吹き出している。彼女はそのような状態になっていても、子どもをその震える腕でしかと抱きしめていた。腕の中で泣きじゃくっている子どもはおそらく、まだ感染には至っていないだろう。しかし、パンドラウイルスは血液感染するウイルス、たとえ子どもの身体に傷口がなかったとしても、母親の血液が目や口などの粘膜に流れると、その時点で感染してしまう。
「ヴィアンカ、駄目だよ、近すぎる」
銃を構えたまま動かないヴィアンカの後ろで、メイが懐からナイフを取り出し静かに構える。母親を説得して子どもから離すのはもう不可能であろう。パンドラウイルスは、理性さえも安易に失わせる。
「や、やめて……いで」
声を上げたのは母親に抱きしめられた子どもだった。幼くはない、10歳くらいの少年だ。
「ママをころさないで」
はっきりとそう言ったのを、二人は聞き逃さなかった。その言葉にメイは戸惑いを覚え狼狽えたが、ヴィアンカは動じもせず銃の引き金に指をかける。
「ヴィアンカ、一旦子どもから離そう」
「……俺は外さない」
「、ヴィアンカ!!」
メイが、ヴィアンカの銃を構えた腕を降ろさせる為に手を伸ばすのと、その銃声が響いたのはほぼ同時だった。ヴィアンカは瞬き一つしなかった。空を挟み込むような建物に反響して、その音は酷く重く、空気を震えさせた。
銃弾は、彼の言葉通り、「標的」から外れていなかった。人間を即死させるために最も効果的な、眉間の僅か上の場所を、確実に撃ち抜いていた。ぐらり、音もなく倒れていく母親を、腕から解放された子どもは身動き一つせず見つめていた。
母親は動かなかった。
「……ヴィアンカ、こういう時はちゃんと考えてから撃とうって」
銃声の残響に静まった場を返し、呆れたような声を上げたのはメイだった。がしがしと頭を掻き、溜め息をつく。
「パンドラを殺すのに躊躇いは必要ない。躊躇ったら死ぬのは俺たちだ」
銃を降ろし、感情のない声で言うヴィアンカ。その視線の先にいる子どもは、母親を見つめたまま座り込んで、動きも、何の言葉もなかった。ゆっくりとした足取りで、ヴィアンカが歩み寄る。倒れた母親と座り込んだ子どもの近くに彼がしゃがみ込んだとき、「なんで、」子どもが声を上げた。その声は酷く震えていた。
そして、
「なんでころした!!」
大きな声で叫ぶと同時に、手に持っていた鞄らしき物をヴィアンカに向けて振り上げた。鞄は弧を描いてヴィアンカの顔に当たった。
ヴィアンカは動じなかった。
その光景を見て子どもに駆け寄り慌てて取り押えるメイ。子どもは言葉にならない声を何度も、何度も上げながらメイの腕の中で暴れた。
「はなせ、はなせよ、ぼくにさわるな!!おまえも『ひとごろし』なんだろ?!」
子どもの顔は、飛び散った母親の血液と、その目から溢れた涙でぐちゃぐちゃになっていた。
『人殺し』。何度も浴びせられた罵声。同じような言葉。
「……聞き慣れたことを」
低い声で、ぼそりと呟く。ヴィアンカの口元には、歪んだ笑みが浮かんでいた。
その声が聞こえたのか、子どもはぴたりと動きを止めた。今度は酷く青ざめた顔で、鞄をぶつけた男を見つめる。
「なっ、なんだよ、ころすならぼくもころせばいいだろ、ママといっしょに、ころしてしまえば」
刹那、ひっ、と引きつったような声を上げる。その怯えた目が捉えているのは、先程母親を撃ち抜いた拳銃。その銃口は、子どもの頭に向けられていた。
「死にたいなら今ここで殺してやる。パンドラの血を浴びたんだ、既に感染していてもおかしくないだろう。パンドラでなければ俺達は人を殺せないと思っているのか?関係ないな。目障りなら殺す。患者だと思いました、そう言えばお前を殺す理由なんて必要ないんだ。思い上がるなよ」
血の色をそのまま写したような瞳には、彼の感情は写っていなかった。その目は子どもに死の恐怖よりも、威圧のような、それに似た何かを与えたに違いない。子どもは完全に言葉を失い、体を震えさせていた。
「……お前は、母親のことを何もわかってないのか」
メイには、ヴィアンカの声色が変わったのが判った。
「あれは発症から少なくとも数時間は経過していた。でも今の今までお前を離さずに抱きかかえていたんだ。パンドラに感染していれば、普通そんな理性は残らない。お前を自分の子どもだと認識することもできなくなる。なのにお前を離さなかった」
「……あ」
子どもの声が洩れる。
「パンドラに狂わされながら、なけなしの理性で、お前を殺さないように必死で守ろうとしていたんだ。……血を浴びることは最も危険だが、そこまで気は回らなかったんだろう。お前を殺さず守ろうとしたのは、お前に生きて欲しかったからじゃないのか」
メイが子どもから腕を離すと、子どもは力無くだらりと項垂れた。
「……ママ」
呟き、それ以上子どもは何も言わなかった。子どもに向けた銃を降ろすヴィアンカ。初めて鞄で殴られた左頬に痛みを感じ、手を触れると僅かな血が手に残っていた。切り傷がついてしまったようだ。
血は見慣れていた。酷く不快感を与えるそれは、何度も目に焼き付いては、脳裏にまとわりついて、離れない。
いつまでも、離れない。
「人殺し、か」
PVEQ、それはパンドラという治せないウイルス感染者を容赦なく殺す殺人集団。やっていることは、いつかのニュースで取り上げられたような猟奇殺人鬼と同じだ。何一つ、違わない。
「一般市民に武器を向けるのは処罰対象だと、何度言えばわかる」
突然現れた、その場を裂くような声。殺伐としたこの場に似合わない、透き通った声だった。
「……PAFIA」
その声には動じず、表情を歪めたヴィアンカが呟く。
彼らの前に現れたのは、黒い軍服を着た二人組。一人は鋭い目つきをヴィアンカに向けた、癖のある黒髪の男で、もう1人はその服に似合わない金髪をした男だった。
PAFIA――The Police of the Armed Forces Institution as Agency、「政府機関としての軍備警察隊機構」。社会に中立にして、政府に忠実な警察組織だ。と言っても、PVEQとは協力関係にある。彼らは、PVEQが処刑したパンドラキャリアの死体を処理することも仕事としている。
「随分と遅かったな、PAFIA隊長さん」
ヴィアンカが嫌味に声を掛けたのは、二人組のうち黒髪の男、PAFIA現隊長カツィン・フスティシアだ。彼は何も言わず歩み寄り、ヴィアンカの目の前に立ちはだかる。
「人の話を聞け。一般市民に武器を向けるのは処罰対象、法律違反だ。今すぐその銃取り上げて真っ二つにしてやろうか」
が、身長は明らかにヴィアンカの方が高く、カツィンはヴィアンカを睨みあげてはいたが、ヴィアンカは鼻で笑った。
「PAFIAがPVEQに対し武器を向けるのも法律違反じゃないのか、隊長さん」
「お前は別だ、俺が直々に処罰してやると言っているんだ、二度とその銃握れないようにしてやる」
「銃壊すのか手斬るのかどっちかにすればどうだ」
火花を散らす二人の脇で、もう一人の金髪の男、PAFIA副隊長キトレーニ・クレストは、項垂れた子どもと、その側で何も出来ないでいたメイに歩み寄る。
「キトさん」
「やー久し振りメイ、いつ振り?一週間振り?」
「昨日振りだよ、昨日も同じこと言ってた。それより、この子よろしく」
「はいはーい。それにしてもまた派手にやったね、御宅の唐変木は」
メイは苦笑いをして、相方が撃ち抜いた母親の死体を眺めた。脳天を撃ち抜かれ、血塗れで目を開けたまま死んでいる人間を、こんな無感情で見ることができるなんて、おかしなことだと心の中で嘲笑した。
有り触れすぎているのだ。PVEQの自分達にとっては、死体を見るなんて、まるで日課になっている。初めこそ吐き気を覚えたが、今ではそれさえもない。
「怖いよね」
人間なんてものは。
呟いた声が届いていなかったようで、キトレーニは何も言わず子どもの前にしゃがんで、血に汚れた顔を拭ってやっていた。
「ボク、お母さんのことは残念だったね。でもこのお兄さん達は君を助けるために殺したんだから、暴力はいけないよ」
メイの中で、何かが引っかかった。しかし、それが何かは、メイにはわからなかった。
子どもは相変わらず俯いたまま何も言わない。キトレーニは苦笑いをして立ち上がり、今度は言い合いを続けるヴィアンカとカツィンに向き直る。
「二人とも、そんなことしてる場合じゃないでしょ。お互い仕事があるんだから言い合いしなーい!」
しばらく二人は睨み合っていたが、先に折れたのはカツィンの方であった。舌打ちをし、ヴィアンカの元を離れ、母親の死体の傍まで歩み寄る。そして、死体を前に、白い手袋を外してから両手を合わせ目を閉じた。
「……今日だけで何人目だろうな。毎日毎日、パンドラは減少するどころか死体がどんどん増えるだけだ」
手袋をつけ直しながら、静かな声でカツィンは呟く。
死体処理はPVEQから報告を受けてPAFIAに委託される。実際の処刑数を数値として確実に把握しているのはおそらくPVEQだ。
パンドラによって失われた命の数。改めて知りたくもない、とメイは小さく首を横に振った。
「……メイ。戻るぞ」
ヴィアンカは、死体を尻目に踵を返し、メイを見ることなく歩き始める。
「あっ、待ってよヴィアンカ!ちょ、後はよろしく!」
そんなヴィアンカの背を追い、メイもPAFIAの二人の元を離れた。駆け出す際、呆れた隊長の溜息が聞こえたような気がしたが、メイはいつもの如く、何も気にしなかった。
「ヴィアンカ、この後はどうすんの」
ヴィアンカの横に並び、覗き込むようにして尋ねるメイ。同時に、頬の傷に漸く気づいたのか、ポケットの中からハンカチを取り出して傷を押さえようと手を伸ばしたが、「自分でやる」と、ヴィアンカはハンカチだけ受け取った。
「本部に戻る」
「部屋に戻る前に医務室行くからね。それ、放っといたら駄目だから。いっつもヴィアンカはそういうの放置するんだもん」
パンドラは主に血液を通じて感染する。PVEQといえど人間であり、傷口を放置しておくことはパンドラ感染の危険性を高めるだけである。そのため、傷はすぐに治療することが義務とされている。
「……ヴィアンカ」
珍しく少し暗い声でメイが呟いた為に、ヴィアンカは耳を傾けざるを得なかった。
「ああいうときは、何を優先するのか一旦考えた方がいいよ。あの子はお母さんを目の前で殺されることになったんだ、あの子のこれからのことを考えたら、処刑を見せない方がよかったと思う」
ヴィアンカは僅かに俯いたまま、何も言わなかった。ただ、その足取りは、何かに焦っているように早歩きだった。ヴィアンカが決して何も考えずに銃を構えていたわけではないということは、メイが一番わかっていた。
PVEQ総本部、正式名称を「パンドラウイルスキャリアに対する処刑のための世界機構」The world Institution of Execution against Pandora virus Patients――通称WIEPP。PVEQ達の職場であり、かつ宿泊施設にもなっている。PVEQは二人一組のバディー制が取られており、組ごとに部屋が割り当てられている。メイとヴィアンカも、その相方同士であった。
WIEPPには食堂や理髪店など、生活を営む上で必要な施設が一括して設備されており、医務室もその一環であった。このような仕事である、怪我も日常茶飯事なのだ。
「アルマシアー、いるー?」
医務室の扉をノックし、メイが声を上げる。途中ヴィアンカが逃げ出しそうであった為に、メイはしっかりとヴィアンカの腕を掴んでいた。ヴィアンカは不快そうな顔をしている。
返事は返って来なかったが、「失礼しまーす」メイは遠慮なく無邪気に扉を開けた。
「わっびっくりした……」
扉を開けようとしていたのか、中途半端な体勢になり立っていたのは、医務室の看護士、フィーリア・アミナであった。小柄でよく男に間違えられる容姿ではあるが、彼女は紛れもなく女の子である。
「カメリアさん、ヴィアンカさん、今日はどうされました……?」
メイがヴィアンカの腕を引き、アミナの前に立たせると、アミナは「あっ」と声を上げた。そして、不貞腐れたヴィアンカの顔を見てふふっと笑う。
「先生、まだ寝てらっしゃるので私がやりますね。そこのソファにどうぞ、ちょっと待っててくださいね」
「ありがとーアミナちゃん!」
メイに引かれ、渋々ソファに腰を下ろすヴィアンカ。「これくらい明日になれば治る」と呟く。
「怪我は怪我なんだからね。いいじゃん、別にお金取られるわけじゃないし。それそのままヴィヴィアンのとこ行くつもりだったの?怒られちゃうよ」
メイの言葉に、ヴィアンカはより顔を歪めた。ヴィアンカが感情を顔に出すのはとても珍しいことであった。メイ以外の前では、ほぼ無表情のままなのだ。一部の人を除いては。
少し経って、小さな瓶とガーゼなどを持ったアミナが戻ってくる。




