瞑想世界232
生死という概念は無いのかと、僕は人間存在として尋ねた。
僕は言った。
「ならば今俺はどこにいるんだ?」
僕の質問に田村が答える。
「俺がお前であり、お前が俺でもあり、成美ちゃんとも繋がっている共同意識の内側で、単数としての複数存在として語り合っている対話の内側にいると言えば、差し支えは無いと想う」
僕は質問した。
「その実在感は不定形で曖昧なのだが実存実在なのか?」
田村が答えた。
「そうだ。その在るが無いという実存の、実在感に慣れないと、お前は不安や孤独感の欠如した共同意識の連続体になれないわけだ」
僕は言った。
「我と他者という垣根を取っ払ってしまったら、自我の崩壊を招き、狂ってしまうではないか?」
成美ちゃんが答える。
「単一としての自我と他者という思弁も、単数としての複数として捉らえられる、自我と他者の連続体という思弁も、単数としての複数存在の私達には、矛盾しているかもしれないけれども、同時に可能なのよ」
僕は訝った。
「でも我思う故に他者があるからこその、存在証明はなされるのだろう、違うのか?」
田村が否定する。
「そんなのは人間存在の幻想的思い込み、錯覚に過ぎないのさ。言うならば、我思う故に、我と他者が同時に思い、そこに自他という概念はなく、孤独という概念も消失しているのさ。それが同時に在るのさ」
僕はひたすら訝る。
「だがそれでは自我の尊厳性がなくなるではないか?」
成美ちゃんが答える。
「そんな概念を感知する事も、感知しない事も矛盾しているけれど同時に出来るのよ。言うならば、内側と外側という区別は無いのよ。本来的な実存が単数としての複数としてあり、錯覚し思い込むのは自由であり容易いのよ。それでも実存は何も変わりはしないのよ。単数としての複数存在は宇宙に在って永劫なるものなのよ」
僕は疑問符を投げかけた。
「それならば俺達は既に瞑想装置なのか?」
田村が答える。
「瞑想装置だが、瞑想装置ではないという不定形な存在として在るだけだ。自由に単一の思弁をして、孤独感を感じ、自分は瞑想装置ではないと思い込むのは自由なのさ。常に複数としての単数思弁も不条理に感じるだろうが、実在実存しているんだ」
僕は頭を抱え混乱するままに言った。
「俺達は瞑想装置に破壊されてしまったのか?」
田村が答える。
「瞑想装置は俺達であるのと同時に俺達ではなく、俺達は自分達を常に破壊しながら創成しているんだ。だから破壊という概念や創成という相対的な概念は意味をなさないのさ。俺達の思弁性は永劫なるものなのさ」
僕は言った。
「単数としての複数存在には生死は無いと言うのか?」
田村が言い切る。
「そんなのは無い。あるとするならば生誕としての滅亡であり、その逆も真という事だ」




