大日本帝国陸軍 歩兵銃
★国友 四二式突撃自動小銃
・帝国陸軍の制式自動小銃。
・九九式小銃の後継にあたる。
・外見はロシア帝国軍が同時期に開発を進めていたAK-47そっくり。
・この銃から菊の御紋の刻印が廃止された。
・帝国陸軍標準弾薬の6.5x40mm弾(四二式実包)が初めて採用された銃。
・四二式実包は、三八式実包を切り詰めたもので、本来は三八式実包の省略化計画の産物に過ぎず、開発陣の誰も採用は考えてもいなかったという曰く付き。
・開発当時の米軍主力銃であるM-1ガーランドなどと比較しても、口径差からくる破壊力はともかく、部品点数の違いやメンテナンス性について圧倒的に42式に軍配が上がった記録がある。
・本銃が量産体制に入った時点で陸軍は三八式と九九式の配備を順次停止し、最前線配備部隊を最優先に歩兵主力装備を42式と命名された本銃へと統一する。
・これが完了したのは、赤色戦争中期、北米大陸上陸の実に1ヶ月前のことである。
・南方戦線のジャングルで投入された本銃は、高湿度という銃にとっても過酷な環境で確実に動作してM1ガーランドやM1カービンで武装したアメリカ軍と互角以上に渡り合った。
・大口径故にフルオート時の命中率は落ちるが、元来、機関銃で命中精度を求める方がおかしい話で、そんな問題点もありながらも艱難酷暑をものともしない信頼性は世界的に見ても、AK-47とこの銃を頂点とする。
・その性能故に、採用から半世紀を過ぎた現在でも「帝国軍標準の小銃」の地位から逃れる事が出来ずにいる。
★和豊 六四式小銃
・帝国陸軍の制式自動小銃。
・42式の後継として和豊工業が開発した銃。
・「重すぎる」とか「故障が多すぎる」など試験段階で不評が続出。兵士達は、42式で十分と主張して、何故この銃が採用されたか本気で不思議がった挙げ句、「採用はメーカーからの賄賂の結果だ」という類の伝説まで産み出す。
・構造から来る移動中の部品欠落など、あり得ないような故障、その他トラブルが頻発したのは事実。
・南米戦線とアフリカ戦線では使用不能に陥った兵士が続出。銃故障が原因で戦死した兵士も多数。
・兵士達から「欠陥銃」どころか「味方殺し」とまでさげずまれ、挙げ句に兵士達はこの銃の使用を拒否。
・ある連隊では全兵士が42式突撃自動小銃を担いで前線に向かったとか、途中で64式を捨てたなどの笑えない話がある。
・実際、7つの師団がこの小銃を「師団として」拒否した歴史があり、現在は全て廃棄処分扱い。
・この銃の採用以降、和豊工業は軍部への接待や贈収賄疑惑で数度の査察を受けたり、銃器メーカーとしての地位は地に堕ちたと言える。
★国友 七八式小銃
・1978年(皇紀2638年)制式採用の近衛兵団の制式自動小銃。
・ケースレス弾薬を用いた銃としてはドイツ軍のG11と双璧。
・装弾方式はなんとP90と同じ。
・狩野重工製。
・反動が少ない分、42式をしのぐ集弾性能は前線で兵士達から信頼を勝ち得たが、妖魔相手には口径が小さすぎると指摘されたものの、四二式の実質的後継銃はこれ。
★和豊 八九式小銃
・六四式小銃の後継。
・和豊工業が開発。
・六四式の改良といううたい文句で売り込まれた小銃。
・七八式と比較した場合、調達価格で2倍。
・前線での実戦試験でまたもや兵士達から愛想をつかされたことは周知の通り。
・実戦試験の際、和豊工業の銃を全く信じようとしない兵士達は、八九式を肩から提げ、背嚢に四二式をくくりつけて出撃。前線の悪環境により故障を繰り返すこの銃をさっさと捨ててしまい、ほとんど最初から四二式で戦っていたという(「行軍しただけで壊れた」とさえ言われる)
・和豊工業の銃メーカーとしての地位にトドメを差し、破産にまで追い込んだきっかけ。




