番外編
ここに私が売られたのは、八歳になったころだった。
裕福なものは裕福、貧しいものはしばしば子を売らねばならない状況になる時もあって…。
そんな状況に貧しい我が家が陥った時、白羽の矢が立ったのは、末娘であった私だった。
癖のある長い山吹色の髪も、大きな深紅の瞳も、兄弟の中ではもちろん、さまざまな色合いを持つ人がいる我が国でも群を抜いて美しかったから。
初、と名乗る女衒に連れられ、ひどく豪華で、幻想的な建物に入る。
花街からは少し離れた場所にあるそこは、表向きには料亭を営んでいるが、裏と呼ばれる部分では高官御用達の遊女屋となっているとか。
「それじゃ、この娘の額はこれでいいな。」
ひどく美しいこの店の、ひどく美しい主が、誰が相手でも口調が変わらない初に苦笑しつつも、金額を支払う。
私の価値を、現金化したもの。
初が言うには、ここは天姫殿と言って、その主は天姫と呼ばれるらしい。
薄紫の髪と濃紺の瞳、人形よりも整った顔立ちは遺伝として何代も続き、天女のように美しい女を抱ける遊女屋の、手の届かない存在としてもてはやされていた。
もちろん遊女屋の主なのだから、男であるのだが。
「じゃあ今日から君は、うちの子だね。名前は…樋摘にしようか。」
十六代目天姫であった彼がそう呼んだから、私はその日から樋摘になった。
ゆらり、揺れる長い薄紫の髪。
今日は偶然か幸運か、体調が良かった。
だから少しばかり布団を抜け出て、屋敷の中を散策する。
自分の家の中だけでも広いから、充分散歩になる。
表の料亭の部分と、来年彼が継ぐ裏と呼ばれる遊女屋の部分。
その二つの邸をつなぐ中庭には、大きな桜の木が埋まっている。
彼が生まれた年に、彼の父が植えたというその桜の木。
彼の桜歩と言う名前には、その桜の木と共に長き時を歩いて行け、と言う意味が込められているらしい。
その桜の木の前を通った時、かすかに声が聞こえた。
耳を澄ませてみると、声の主はどうやら桜の木の上に登っているようで。
満開の桜の木の上に登り、歌う少女の声が聞こえる。
おそらくこの家にいると言うことは、売られてきた子供なのだろう。
つまりは天姫殿の遊女か禿。確かに今は彼女たちが仕事をする時間よりも早いけど、なんでこんなところで木登りをしているのだろう。
かすかに聞こえる少女の歌声は耳に心地よく、歌う少女の姿を見たいとさえ思う。
それに彼の立場からすれば、裏と表の境界線ともいえる桜の木に登る彼女を、咎めなければならない。
桜歩は、十七代目天姫となる十六代目天姫の一人息子だから。
するすると身軽に、桜歩はその大きな桜の木に登っていく。
桜歩は日常のほとんどを布団の中で過ごさなければならないほどに病弱だが、別に運動神経が悪いわけではない。
どちらかと言えば運動神経はよく、身軽である。
歌う少女の斜め下、彼女の視界には入らない絶妙な位置にある枝に腰掛け、桜歩は彼女の様子をうかがう。
どうやら彼女はまだ桜歩に気付いていないようだ。
山吹色の長い髪は、桜歩のまっすぐの髪とは対照的に柔らかく波打つ。
伏せられた瞳は髪と同じ山吹色の長いまつげに縁取られている。
白く滑らかな肌も、端正な顔立ちも、美しい女が多い天姫殿の中でも群を抜いていて。
それでもやはり、天姫になるべくした容姿を備える桜歩の方が格段に美しい。
「そんなところにいると、危ないと思うよ。」
それが天女となる運命を背負った桜歩と、遊女となる運命を背負った樋摘の、二人がただの少年と少女でしかなかった頃の、出逢い。
ゆらり、視界の端に映る薄紫。
その色に反応してしまうようになった自分に苦笑しながらも、予想通りの人がいてくれたことに、私は顔を綻ばす。
現世の天女とでも呼ぶべき、十七代目天姫の名を継承した、今宵野 桜歩様。
私、樋摘の好きな人であり、私が働く遊女屋の楼主様でもあります。
今年十八歳になられました桜歩様のもとには、あまたの縁談の話が届き、しかし当の本人はそれをすべて断っているようで。
そして近頃、店の者…白妙と何やら言い争う姿をよくお見かけします。
そして…今日も。
「わかってる、わかってるよ。君の言い分はちゃんとわかってる。」
「いいえ、わかっていると言ってもちっとも理解してはおられない。
あれは貴方様のお相手とするにふさわしくありません。」
「わかってる…っ。もう、いいからさがってよ。」
「貴方様がなんと言おうと、あれを選ぶことは許しません。貴方様は…天姫なのですから。」
と、こんな風に。
そのような日常をお過ごしの桜歩様は、本日このようなところで何をなさっているのでしょうか。
天姫殿の表と裏のちょうど間にある大きな桜の木。
なぜ桜歩様はその桜の木にもたれて眠っていらっしゃるのでしょう。
桜の木に背を預け眠る桜歩様、そんな彼の前に立っている私…そんな二人の頭上から、桜の花びらが降り注ぐ。
淡い色合いの、薄紫の長い髪がさらさらと揺れて、同じ色合いの長いまつげが陶器のように滑らかな彼の頬に影を落とす。
顔立ちは人形のように整っていて、纏う空気は洗練とされつくしたもの。
天の…手の届かない御姫様。
天姫の名にあまりにもふさわしい、私の最愛の人。
「ここで初めて、貴方様にお逢いしたあの日から、樋摘はずっと、桜歩様をお慕いしております。」
小さな声で紡ぐ、私の貴方への恋心。私はもうすぐ遊女となる身、そして貴方は天姫殿の主。
それは、許されない想い。
「僕も同じ気持ちだ、と言ったら君はどうする?」
形のいい唇が開かれ、淡い雰囲気を醸し出すテノールの声が紡がれる。
長い薄紫のまつげがかすかに動き、ゆっくりと濃紺の瞳が現れる。
濃紺の瞳に、心が捕らわれる。
「あ…あの…っ、今、なんと…?」
慌てた様子の私に、桜歩様は小さく微笑む。
そして蝶の羽がかすめたような軽やかな口付けを、私の唇に落とす。
驚いて目を見張ると、至近距離に彼の美しすぎるほどに美しい顔。
「残念だけど、まだ途中だから二度目は言ってあげないよ。
完成したら…君を攫いに来る。
だから待っていて、樋摘。」
そう言って桜歩様は、座り込んでしまった私を置いて、長い薄紫の髪を揺らし、去って行った。
それから数日後、白妙を丸めこんだ桜歩様が、私に求婚してくださったのは、ここだけの幸せな話。
涙を零しながら言った私の返事は、きっと誰もがわかること。
ゆらり、風に乗って揺れる薄紫。
結婚して一年、僕と樋摘のあいだには子供が生まれた。
生まれたばかりの娘の頬をつついて遊んでいた僕に、いきなり樋摘が謝ってきた。
「桜歩様…ごめんなさい。」
何について謝られたのか全く分からず、僕は首をかしげる。
「男の子じゃないと、いけなかったのに…。」
そう言われ、やっと僕は何について樋摘が謝っていたのかを理解する。
天姫殿の核となっている遊女屋は、男でないと継げないから。
「樋摘、白妙に何言われたかは知らないけど、謝らなくていいよ。まだまだ先は長いんだしね。」
そう言って僕は、小さな娘を膝に抱き上げる。
僕の薄紫の髪とも樋摘の山吹色の髪とも違う、灰色の髪を持つ僕たちの娘。
聞いた話によると樋摘の母がこの色を持っていたらしい。
きょとんとを見上げるその瞳は、僕と同じ濃紺の色をしていて。
「でも…。」
「樋摘、大丈夫だよ。それとも樋摘は、僕の言葉が信じられない?」
「いえ…そう言うわけでは…。」
僕はずるい。
樋摘の言いたいこと、ちゃんとわかってるのに、わざとこういう言い方して樋摘を丸めこむ。
僕は今年、十九歳になった。
五つ下の樋摘は、十四歳になった。
幼いころから体の弱い僕は、生きられても二十歳までだろうと言われている。
「それより僕は、樋摘がなんでメリアムって名前を付けたかのほうが聞きたいんだけど。」
僕がそう聞くと、樋摘は驚いたように飛び上る。
え…?樋摘はメリアムって名前に疑問を持たないの…?
まぁ疑問を持たないからそうやって名付けたのかもしれないけど。
「えぇっ、ダメでしたか?メリアムって可愛くないですか?」
「可愛いか可愛くないか聞かれたら、可愛いのかもしれないけど、なんでカタカナなの?
まずその名前はどこから出てきたの?」
「えっと、私の好きなカタカナを並べて作りました!」
「………そうなんだ。」
なんだか僕の可愛いお嫁さんは、少し変な子みたいです。
並ぶ薄紫、ゆらりと揺れる。
あれから二年過ぎた桜の咲き誇る日、私は男の子を産んだ。
薄紫の髪、濃紺の瞳…桜歩様と、瓜二つの容姿。
桜歩様は幼い息子を抱き上げ、その顔をじっと見つめる。
愛しくて…微笑ましい光景。
「うちの家って、なんでこうも産まれる男の顔がみんな一緒なんだろう。」
そんなことを言って、桜歩様は真剣な顔で息子を見つめる。
そんな桜歩様の膝には、二つになった娘が座っている。
大切な、私の家族。
「でも、遺伝されているのが綺麗な顔なんだからいいじゃないですか。」
「男の顔ばかり綺麗でもしょうがないでしょう…。
それに、同じ年の頃を選んで並べたら、自分と父様の見分けつかないと思うよ。」
確かに桜歩様の言う通り、先代である義父様と桜歩様も、桜歩様と息子も顔がそっくりだ。
「しかもみんな、顔がよく伸びる。」
そう言って桜歩様は、むにっと我が子の頬を伸ばす。
あんまり伸ばすと戻らなくなるんじゃないかと心配していると、私はどうやら桜歩様を凝視していたらしく、桜歩様は私の方を振り返る。
「あぁ、ごめんね。子供たちばっかりにかまって。樋摘もおいで。」
にっこりと綺麗な笑みを浮かべて桜歩様が手を差し出すので、私は彼の膝を占拠していた娘を抱き上げ、彼の隣りに腰をおろした。
息子と娘と、私と桜歩様。
それは家族の、何よりも幸せな時間。
ゆらり、雪が舞う。
淡い紫の…薄紫の髪が、雪が舞う風に踊る。
時が止まってしまったかのように美しいその光景は、彼に声をかけるのに戸惑ってしまうほどに幻想的で……。
そんな時はいつも、私が声をかけるよりも先に、貴方は私に気付く。
そして、優しくて柔らかで、どこか陰のある笑みを浮かべるのだ。
それは今にも消え去ってしまいそうなほどに美しく、儚くて鮮やかな、桜吹雪のように美しい微笑み。
「どうしたの、樋摘。」
「どうしたの、じゃありません。
近頃体調がよろしくないのに、なんで貴方はそうやって布団から抜け出すんですか。」
私が怒っても淡い微笑みを崩さない、私が知るなかで一番美しい、私の最愛の人。
私を、一番愛してくれた人。
「でもね、樋摘。布団の中でじっとしてるのって結構暇なんだよ。」
「そう言う問題じゃありません。体調が悪い時は寝ているべきです。」
私がそう言うと、貴方はまた笑う。
その微笑みがあまりに儚くて、私は不安になる。
消えないで、いなくならないで……置いて、いかないで。
「樋摘、おいで。」
優しい声で私を呼び、優雅な動作で私に手を差し出す、私の一番愛しい人。
彼へと一歩、私が足を進めると、彼は私の手を引っ張って、私は彼の胸の中に抱き締められる。
優しく、でもしっかりと。
「ごめんね、樋摘。誰よりも、愛してるよ。」
そう呟いた日の夜更けに、桜歩様は私の手の届かない所に行ってしまった。
ゆらり、風に舞う桜色。
裏と表の間にある、彼が生まれた年に植えられた桜の木。
「母さん?」
桜の木を見上げる私に声をかけたのは、初めて逢った頃の彼…ではなく、愛しい彼と同じ容姿を持つ、彼と私の息子。
「用意できたよ。」
声変りもまだの少女のような声色の少年は、長い薄紫の髪を白い簪で結いあげて、重たげに裾を引きずった遊女のような衣装にその幼い体を隠す。
あれから、十年。
今年十二歳になった私と彼の息子…竜里は今宵、天姫殿の十八代目の当主…天姫となる。
「またその桜を、見てたんだね。」
「えぇ…だって貴方のお父様に、求婚の予告をされた、思い出の場所だもの。」
「求婚の予告って、すごく意味がわからないのだけど。」
彼によく似た顔で、竜里は彼がしたように首をかしげる。
それが何だかおかしくて、私は小さく笑う。
「いいのよ、竜里にはわからなくて。
私と桜歩様だけ、わかっていればそれでいいの。」
見上げる、桜の木。
降り注ぐ、桜の花びら。
柔らかく微笑んだ、私だけの天女様。
あの人が私だけの天女様だったのと同じように、この幼い子も誰か一人だけの女の子のために、その一人のためだけの天女になる日が来るのだろう。
手の届かないところのお姫様であるはずの天姫は、そうやって何代も何代も、誰か一人だけの手の届く場所に降りてくる。
桜歩様が、私一人だけのために降りてきてくれたように。
「先に行ってなさい。私もすぐに行くから。」
そう言うと、彼によく似た新しい天女は、彼と同じ薄紫の髪を翻して歩いて行った。
私もいつか、貴方のいる場所へ向かうでしょう。それまで待っていてくれますか、桜歩様…?
『誰よりも、愛してるよ。』
「私も貴方を愛してますわ。我が愛しの天女様。」




