6 家族
本社での役員会議のあと、翌日のプロジェクト会議のため1時間ほど準備をして一也が会社を出たのは午後6時を少し過ぎたころだった。
社長である父と共に車で家に帰るのだが、窓から見る景色にかつて住んでいた街はこんなだったかと思う。
たった5年離れていただけなのに、少しずつの変化が重なって街も自分も変わってしまったように感じた。
母の歓迎ぶりは想像したとおりだった。母ならこうやって迎えるだろう、こんな言葉は言うだろうと思ったとおりにやってくれる。
父も想定済みなのだろう、家に着くとすぐに着替えに行ってしまった。
玄関先に残された一也は10分ほど靴を脱ぐこともできないまま母の歓迎を受けていた。
「一也さんは少し痩せたみたいよ~。今夜はたくさん食べてね。
先に着替えてらっしゃいよ」とようやく靴を脱ぐことができたときはほっとした。
「手、洗ってらっしゃいよ~」とまで言うか普通、と思いながらも大人しく自分の部屋だったドアを開けた。
そこは何一つ変わった様子はなく、5年も家を離れていたことが不思議なくらいだ。
ただ、パジャマと家で着るのに適した服は洗濯したらしくふんわりと洗剤の匂いがした。
ダイニングに入っていくと、「あなた、手洗った?」と父が母にチェックを受けてた。これには笑える。子ども扱いなのは何も自分だけではないようだ。
良い匂いが漂っていた。献立は一也の好きなシーフードグラタンのはずだ。
「もうすぐ出来るからワイン開けてちょうだいね♪」と母が父に頼んでる。一也はワイングラスを出すことにした。
「どれにするんだ?」と父が聞くので、「軽めの赤がいいな」と一也が答える。
「お前はいつもちゃんと欲しいものを知ってるな。助かる」
「シーフードだけどグラタンだから赤のほうが合うよ」と言いながら、父が差し出したボトルを受け取って器用にコルクを抜く。
テーブルの上にはすでにつまみになりそうなものやサラダ、冷たいスープが並べられている。グラスを飲み干す頃にシーフードグラタンがオーブンから出てきた。
「母さんのグラタンが一番だよ」
「まだ食べてないのに・・・(笑)」
「食べなくてもわかるよ、この匂いは美味しい匂いだ」
そんな一也と母をみて父が静かにワインを飲んでいる。
明日はまた会議続きだ。今夜は仕事を考えないで過ごそう。
そんな風に思っていたのに、食後は父に書斎に呼ばれた。
「どうだ、こっちにはいつごろ戻ってくる?」
「兄さんにも言ったけど、そう簡単にはいかないよ。最低でも5年はかかる」
「3年だ」
「3年は短すぎるよ。やること多いし。実際に試作できる段階までには2年ほどかかるんじゃない?」
「それはなんとかする。3年経ったら工場と本社と両方だな」
「頑張ってみますよ。でも保障はできませんよ」
兄さんは口がうまいが、父さんは押しが強いなと苦笑する一也だった。
リビングに戻ったら母がまだワインを飲んでいた。
「結構飲めるねぇ、母さんも」
「息子たちは寄り付かない、父さんも夜遅いし、すっかりキッチンドランカーになっちゃたわ」
「今宵は僕が付き合いますよ」
「うわっ、嬉しいなぁ」
「ウイスキー貰っていいですか?」
父も呼んで3人で酒盛りすることにした。
「ところで一也さん、そろそろお付き合いしている人を連れてきてよ」
「え~~?誰ですか?それ」
「だって、もうすぐ29歳よ。いい男に誰も居ないってことはないでしょ?」
「よしてくださいよ。付き合ってる女性は居ません」
「え?いやよ、よしてそれだけは」
「は?」
「同性愛は母は認めませんよっ」
「母さん、いくらなんでもそれは・・・」
絶句する僕を父は笑いながら見ていた。
「それくらいにしてやれ」と母に次をうながした。
「知り合いのお嬢さんでね、とってもいい子が居るのよ。一度会ってみない?」
「え?」
さらに僕は絶句した。
「あら、聞こえなかった?写真見る?」
驚いてる僕の目の前に大きな写真が広げられた。
スナップ写真ではなくちゃんと表紙のついたお見合い用の立派なものだ。
「父さん・・・」と助けを求めたが、こういう時はちっとも役に立たない親父だ。
自分の身は自分で守るしかないということだ。母のお見合い攻撃が一段落したところで僕はおもむろに反撃した。
「僕は恋愛結婚をしたいと思っています。まだ出会ってませんがね。あと5年くらいはそっとしておいてもらえませんか?」
母がまだ未練たらたらで何か言い出しそうになった。
「それから僕は、母さんみたいな人が好いんです」
「え?」今度は母が絶句する番だ。
「母さんみたいな温かいグラタンを作れる人を見つけるつもりです」
「この子ったら・・・」ちょっと涙ぐみながら母が父を見た。
「一也は何が欲しいか知ってるんだ。ちゃんと知ってる。そういう子なんだよ」と母を慰めている。
「私みたいな女の子、なかなか居るもんですかっ!いき遅れるわよそんなマザコン」
「確かにそうかもしれませんね。そうなったら一生マザコンのままでいいですよ?」
これには父も母も笑い出してしまった。
そうやって帰省第一日目は過ぎていった。
翌日は朝から会議、会議、その合間に打ち合わせや質問など受付けて多忙を極めた。
弁護士も呼ばれて法律的な見解を調整し、長期にわたってのスケジュールやプロジェクトの人選もほぼ決まった。
だいたいのメドがついたのが午後7時。父はそのまま接待があるからと高瀬秘書と出かけて行き、長兄が飲みに行こうと誘いにきたけど断って、一緒に実家に帰らないかと逆に誘った。
ちょっと考えて一緒に行こうということになった。
兄弟が一緒に帰ってきたのを母が喜ばないわけがない。
食事のあと、3人で次男の秀兄の話や長兄の子供たちの話をしてその夜はぐっすり眠った。
土曜日も朝から何かと忙しかった。
コーヒーだけを所望してリビングでぼんやりしていると弁護士が来て父の書斎に呼ばれた。
打ち合わせが終わってリビングに入っていくとすでに長兄と家族が来ていた。
久しぶりに見る長兄の子供たちははにかむ年頃になっており、お嬢さんぽかった兄嫁はすっかり奥様風になっていた。
そこに次男の秀一がやってきて保坂家は家族全員顔をそろえた。
やがて母の手料理で賑やかな昼食が始まった。
兄弟の好きな料理ばかりの食卓は母の思いが伝わってくる。
そこで秀一が「俺、結婚したい人が居るんだ」と言い出した。
次男秀一は長男優一より2歳年下だから今年37歳になる。
とっくに適齢期を過ぎているので誰も反対しない。逆に女遊びの多いであろう秀一を落ち着かせれてくれることになるので大賛成だ。
「今年はもう一度、俺の結婚式に集まってくれ」とまで言ったので、どこのお嬢さんだ、もうそこまで話が進んでいるのか、デキちゃったの?とか皆で言い放題だ。
「デキちゃった?」と姪がつぶやいた声に一同はっとして会話が止まった。
「何でもないよ。ところで秀一、どんな人なんだ?」と長兄の優一がとっさに話を振った。
「皆も知ってる子だよ」と珍しく秀一が照れている。
「恵ちゃんなんだ」
今度も全員驚いた。数軒隣に住む島崎家の末っ子、恵香は幼馴染だ。
「最近はずっと海外に行ってるって聞いてるけど」と母が言った。
「イタリアでばったり会って、通訳やってるんだよ恵香は」
「そっか。じゃ島崎家に挨拶に行かないとな」と父が言い、話題は秀一と恵香の結婚話で大いに盛り上がった。
やがて秀一が「島崎の親父さんに結婚の承諾をもらいに行ってくる」と出かけていき、「まだだったのか」と父が呆れてつぶやいた。
「恵ちゃんがお嫁に来るのね」と母が嬉しそうな顔をしているので、一也もちょっと安心した。母は当分次兄につきっきりだろう。見合い話もしばらくは忘れてくれるはずだ。
その夜は母を慰労する意味で父と3人で鮨屋に行き遅くに家に戻った。
お手伝いの人が居るにもかかわらず、家族の食事は主に母が作っていた。
今は子供たちも家を出て父は帰りが遅いらしい。腕が落ちたわよ~と恨みがましく言う母に「明日の朝ごはんは僕が作ってみようかな」と提案してみる。
「え~~~?作れるの?」
「父さんが洋食でもよければ挑戦してみますよ」
「まぁ、たまにはパンでもいいな」と父が言ったので
「じゃ、母さん明日は朝寝坊してもいいですよ」ということになった。
翌朝キッチンに行ってみると誰も居ない。
コーヒーをたっぷり作っておこうとセットした。
テーブルにお皿とコーヒーカップ、そしてバターを出しておく。
レタスを見つけて洗って千切り、胡瓜やプチトマトも洗って適当に盛り付ける。
サラダは盛り付けてから冷蔵庫に入れておいた。食べる直前に出せばいいだろう。
そこに次兄が起きてきた。
「お?一也が作ってんの?」
「うん」
「とりあえずコーヒーくれっ」
「セルフだよ。カップはそこ、コーヒーはここ」
「ところで秀兄」
「なんだよ」
「オムレツ作れる?」
「なんと言うことだ。お前オムレツ作れないのか?」
「うん、スクランブルエッグは作ったことあるけど、オムレツはない」
「しようがないなぁ。兄ちゃんの特製オムレツ教えてやるよ」
「オネガイシマス」
そんなところに母が起きてきた。
結局、次兄と母に挟まれてオムレツ特訓となった。兄が見事に焼き上げたオムレツは一也が食べ、一也が教えられながら作ったオムレツは兄と両親が食べた。
5年前には考えられなかった光景だ。オムレツに奮闘している3人を見て父はどう思っただろうか。次兄も一也も大人になったと内心喜んでいるだろうか。