56 未来へ
1年と言えば、長いようで短い。
保坂は1年後のことをどう考えているのだろうか。
亜佐美は保坂の次の言葉を待った。
「僕は本社に移動して、今度は経営に参加する。
本社役員になって、住まいも用意してから亜佐美に結婚を申し込めると思ってた」
と保坂は打ち明けた。
「何故役員になってからなんですか?」と思わず亜佐美は聞いてみた。
「亜佐美は、君が僕より年収が多いということを気がついているのか?」
「え?」
「大きな会社とはいえ、僕は一介のサラリーマンにすぎない。
君の収入を計算したことはないが、不動産収入だけでも遥かに上回ってると思う。
しかもうちの会社は大きすぎてこの不景気を乗り越えるのは骨の折れることだ。
特に君と出会った頃は会社がたいへんなことがわかって、
三男の僕ですらこれからは会社のことに頑張ると宣言したところだった」
亜佐美は黙って聞いていた。
「僕は、母のように専業主婦になって欲しいわけでもない。
もちろん子供が出来て亜佐美が育児に専念したいと思うならそれでも構わない。
でも君にはタレント性がある。仕事をする能力があるんだ。
今は僕の傍に置いて、僕の手で君の能力をもっと引き出したいと思っている。
その時なってから決めても良い問題もあるだろう。
できれば僕とともに仕事でも家庭でも分け合って欲しいんだ。
僕はそういう家庭というか、いや家庭というより、僕と君の関係を築いていきたんだ」
「私は・・・」と亜佐美は口を開いた。
「一也さんの収入とか考えたこともなかった。ただ、忙しいあなたの夕飯を用意して、
一緒に眠って、朝ご飯を一緒に食べて、何しろ一緒に居たいだけなの。
そんなにたくさんのこと考えてなかったのよ」
「なるべく亜佐美の希望に沿うようするよ。
だから、とりあえず、僕と将来結婚してください」
亜佐美は感激して何度も頷きながら、最後に「はい。よろしくお願いします」と返事をした。
二人はしばらく抱き合っていたが、やがて「お腹が空いたな。出掛けよう」と保坂が言い、
「私もお腹ぺこぺこです」と亜佐美も笑って返した。
二人は手をつないで京都の街を散策し、気の向くままお店に入ったり写真を撮ったりして楽しんだ。
夜は予め保坂の母から予約してもらっていた和食の店に食べに行った。
いわゆるイチゲンさんお断りの店で、紹介者が居ないと席を取れない。
次から次へとでてくる彩のある料理の数々に、亜佐美はとても満足したのだった。
日曜日は予定を変更して早朝に京都を発った。
新幹線に乗り、二人は東京に向った。
保坂が見せたいものがあるという。
タクシーを降りたところは工事現場だった。
マンションの建築現場あらしい。広告塔があった。
それを見ながら迂回して大きな公園に入った。
「この公園覚えてる?」
「あ、もしかしてここは・・・」
「そう、茜ちゃんと3人で来たことのある公園だよ。
ハンカチの木があっただろう?」
「はい、覚えてます」
「あの時はちょうど反対側からこの公園に入ったけれど、
ゴミゴミした街の反対側は静かな場所なんだ。
あのマンションが来年竣工するからどうかなと思っている」
「え~~~?あの建築中の?」
「うん。来年、亜佐美を驚かせようかと思ってたけど、そういうのは止めるよ。
なんでも相談しながらいこう」
「あー、それでももう決定事項のような気もしますけど?」と亜佐美が上目遣いに保坂を見上げると、
保坂はニヤリと口の端を持ち上げて笑った。
「来月は亜佐美のところに転がり込んでいいかな?」と保坂が聞いたので、
「保坂さんの部屋にするところを、ちょこっとだけ改装してもいいかしら?」と亜佐美が言った。
「あまり無理はしないでほしい。でも、もう決定事項のようだけどね」と言って二人でくすくす笑った。
「本当はこれから実家に寄って欲しいけれど、二条の伯父さんにまだ挨拶してないから、
とりあえず帰って伯父さんのところに行こう」
「いいのに、そんなこと」
「いやいや、良くないよ。大事なところだよ。伯父さんに承諾してもらったら、東京にもう一度来てくれるね?」
「はい、仰せの通りに」と言って二人はまた笑った。
それから二人はそれぞれ電話を掛けた。
亜佐美は伯父に、夕方保坂と一緒に訪問することを告げ、保坂も実家に報告をした。
保坂のほうは、亜佐美の伯父に承諾を貰うまで家の敷居は跨がせないと言われたらしい。
電車に乗る前にもう一軒だけ付き合ってと言われて、宝飾店に連れて行かれた。
「保坂の奥様から伺っております」と言う店員の案内で、店の奥の個室に通されて婚約指輪を選んだ。
「月給の3か月分だったかな」と保坂が言うので、亜佐美は「税引き後の3か月分で良いわよ」と皆を笑わせた。
亜佐美の雰囲気にあうぴったりのデザインが見つかって、サイズ直しも不要だったので、そのまま嵌めて帰ることにした。
伯父は食事にでも来るのだろうと気軽に考えていたようで、保坂が結婚の許しを請うとあんぐりと口を開けて驚いていた。
祖母と伯母は、やっぱりねというように頷いただけだ。
やがて正気にかえった伯父が「よろしくお願いします」と頭を下げてくれ、亜佐美は思わず涙ぐんでしまった。
夕飯を食べて行けと強く勧められたが、疲れているからと言って早々に引き上げた。
ようやく亜佐美の家に到着したときは、二人ともしばらくは言葉もなく黙って座りこんでしまった。
やがて、亜佐美がくすくす笑い出し、保坂も釣られて笑い始めた。
「頭のなかでいろいろ考えているより、簡単だったね」と亜佐美が言うと、
「ほんとうだな。皆に喜んでもらえてよかったよ」と保坂も頷いた。
「ご飯より乾杯の気分だな」と保坂が言うので、亜佐美はワインを取りに行った。
ワイングラスを目の高さでコツンと合わせて一口飲む。
保坂の顔が近づいてきて、亜佐美の唇に触れた。
「ワインより亜佐美に酔いそうだ」と言うと、「酔う前に、ちょっとこっちに来て」と亜佐美は保坂を引っ張っていく。
亜佐美の部屋のすぐ手前の部屋に入り、「ここを保坂さんの仕事部屋にどうかしら?」と客間を見せた。
「でも、僕は来週も出張で、その次も週も出張があるよ。引越しどうしよう」
「合鍵預けてくれたら、業者に頼んで全部やっておこうか?」
「亜佐美に手間取らせるの悪いな」
「ふふふ、見られて都合の悪いものだけ処分してくれたらあとは適当にやっちゃうけど?」
「見られて悪いものなんかないよ」と保坂が言うと、「じゃ、任せて!」と亜佐美は言ってくれた。
「でも、改造間に合うかな。いつも頼む大工さんはお年寄りで時間がかかるのよ」と亜佐美が言うと、
「どうしてもその人でないとだめってことでなければ、知り合いに聞いてみようか?
内装だけなら大人数を投入すると後期が短縮される」
「なるほど。じゃ、そちらはお願いしていい?。プランは私が考えるから」
「うん、よろしく」
「家賃はどうしようか?」と保坂が言った。
「ん~~、難しいところね」と亜佐美が言うと、
「居候は肩身が狭くなるので払わせてください」と保坂が言う。
「お安くないのよね。なにしろまかない付き、メイド付き、さらに添い寝付きだもの」と亜佐美が笑う。
「裸エプロン付きだったら、全財産注ぎ込みます。あ、全精力も」と言って保坂も笑った。
「お手柔らかに!」と亜佐美も返して、「光熱費も考えて適当に良心的なところを出してみるね」と会話を終わらせた。
まだ一緒に居たいと思う二人は別れ難くて、結局は亜佐美が化粧ポーチと着替えを持ち、保坂の部屋に行くことになった。
ワインを抱えて二人で夜道を歩く。
保坂の冷凍庫には大量の食品があるので、そのなかからピザを焼いてワインを飲みながら夕食にした。
保坂がPCで仕事をしている間、亜佐美はTVを見たりお風呂に入ったりした。
やがて保坂がPCを閉じて風呂から上がると、亜佐美はすでにベッドに座ってワインを飲んでいた。
保坂が亜佐美の横に身体を滑り込ませると、亜佐美が保坂の唇にキスをしそのままワインを口移す。
保坂が亜佐美の胸に手を這わせると、いつもとは異なる感触があった。
「見せて」と保坂が言ってシーツをめくると、亜佐美はやけに大胆な下着を身に着けていた。
いっそのこと何も着ていない方が健全、そんな下着だった。
「どう?気に入った?大阪で買ったのよ」と言う。
「明日は仕事だから、今夜は簡単にね。いいでしょ?」と誘うように言う亜佐美の頬は真っ赤だ。
たまには亜佐美のしたいようにさせるのも良いなと思って、保坂は「女王様の仰せの通りに」と言って亜佐美の手に口付けた。
それからも保坂は相変わらず忙しそうだった。
保坂の実家にも行って、皆に歓迎してもらったあとは、
亜佐美は家の和風の客間を洋室に改造し、保坂の出張中に引越しを手配した。
やがて保坂が引っ越して来てからは、できるかぎり保坂の夕食を作り、同じベッドで眠った。
朝は一緒にコーヒーを飲んでから、それぞれの仕事をこなす。
亜佐美は相変わらずの仕事に加えて、食品メーカーのイベントの料理教室にも時々参加していた。
ラジオ出演やTVの出演の話もあって、ブログはますますアクセスが伸びている。
今は料理本出版の誘いが来ていた。
少しでも多く保坂の役に立てるように考えて仕事をしていた。
保坂に追いつくためには、もう少し経験を積まなくてはならない。
茜にも保坂を婚約したことを知らせた。すると茜からは結婚式には絶対に日本に帰るからと返事があった。
いつ結婚するのか具体的には見えてなかったが、あまりそれを焦る気持ちにもなれない。
入籍を意識する日が来るだろう。保坂と話し合って決めればいいと思っている。
亜佐美は、保坂が東京に帰るとき、その時にまた亜佐美から保坂にプロポーズしてもいいと思っていた。
-----完-----
長い間お付き合いくださってありがとうございます。
ようやく完結しました。
生まれて初めて書いた小説で、毎日更新を目指しました。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございます。
途中、何人かの方から誤字脱字のアドバイスをいただいてたいへん助かりました。重ねて御礼を申し上げます。
ハンカチの木は、ゴールデンウィークの頃、白い花をつけます。
ある程度大きく育ってから出ないと花が咲きません。
東京の新宿御苑に少し植えられているそうです。
花言葉は「清潔」です。
もし感想がありましたらお聞かせください。