53 決心
百合絵は泣いてはいなかった。コーヒーを飲みながら話を続ける。
「他所のご家庭では、愛人の子を引き取るという話も時々聞いてはいたけれど、
それが自分の身に降りかかるとは・・・青天の霹靂だった」
亜佐美は無言でコクコクと頷くだけだ。
「ところがね、主人と一也の母親は愛人関係じゃなかった。
ふたりは恋人だったの。
それを知った時に私は酷く動揺してしまって・・・。
主人にも暴言を吐いたりしたのよ。でも、主人は引き取るからって一歩も引かないの」
亜佐美は胸が詰まって慰めの言葉も出ない。
「私と離婚したいと思ったことは?と聞くと、二人ともそれは考えたことが無いと言われたわ。
彼女が亡くなったから僕が育てるのは当たり前だと言ったの。
一也は僕の子で保坂の子だと。だから家に連れてくるよって・・・。
その翌日、まだ生後1ヶ月半の一也が連れてこられて、一目見た瞬間に・・・
一也は私をみて笑ったの。主人は今でもそれは私の気のせいだって言うんだけど(笑)
でもね、とっても美しい子だった。主人に似てたし、私の二人の子にも似たところがあった。
一也はまるで天使のようだったわ」
そこまで話して、百合絵はほぉっとため息を吐いた。
「亜佐美さんが泣くことないじゃないの」と百合絵は笑ってティッシュを手渡してくれる。
「私が一也を抱き上げて、天使みたいって呟くと、主人がありがとうって言ってくれた。
一番甘やかせて育てたんだけれど、高校卒業のときに真実を告げてから、しばらく家に寄りつかなくなって、あんな工場に行っちゃうし・・・」と百合絵は笑った。
「でも亜佐美さんと知り合えたんだからよかったのかな」と百合絵は立ち上がると窓辺に行って、しばらく景色を眺めていた。
しばらくすると保坂から電話があって、デパートで合流することになった。
亜佐美は荷物をまとめて宅配を頼み、百合絵に手伝ってもらいながらチェックアウトを済ませ一緒にデパートまで歩いて行った。
昨日、茜が英語を習っていると話すと、「私は外国のお友達からはユーリーって呼ばれているの。茜ちゃんもそう呼んでくれるかな?」と言って、それから茜は「ユーリーおばさま」と懐いていた。
茜の洋服を選びながら、百合絵は「やっぱり女の子のは可愛くて良いわねぇ」としきりに感激している。
茜は百合絵の着せ替え人形になっていた。
亜佐美はそんな様子を保坂と笑いながら見ていたが、この綺麗で優雅な女性にも人に言えないような悲しいことがあったのかと思うと複雑な心境だった。
買い物が終わって百合絵をタクシーに乗せて見送った後、亜佐美たちは駅まで歩いて行った。
茜は本や洋服を買ってもらって嬉しそうだった。
帰りの電車の中で、眠ってもたれ掛ってくる茜を抱えながら、亜佐美は自分が恵まれていることを感じていた。
すぐ近くには親身になってくれる伯父や祖母が居るし、百合絵も親切にしてくれる。
可愛い姪も居るし、何よりも隣に座って手を握っている一也が居る。
これから先、いつかは来る決断の時を間違えないようにしなければいけない。
選ぶものを間違えてはいけないと肝に銘じた。
保坂が握っている亜佐美の手を少し揺すって、「何を考えている?」と聞いた。
「ん?何でもないよ」と答えると、「母に何か言われたのか?」と言うので、
「ん~~、そういえば、一也さんって子供の頃可愛かったんだってね?」と言うと、
「当然じゃないか!」としれっと保坂が返した。
亜佐美はくすくす笑った。
「なんかね、天使みたいな赤ちゃんだったらしいね」
「今も天使だろうが?」
それで百合絵から保坂の事情を聞いたのがわかったのだろう。
保坂はそれ以上は何も言わなかった。
ゴールデンウィークが終わってから亜佐美にはメールでの問い合わせが増えていた。
ブログのアクセスもぐんと伸びている。デパートでのイベントの影響だった。
特に丁寧で熱心なメールは、イベントを主催した食品メーカーだった。
夏休みのイベントへの打診と、保坂の会社の社員食堂での商品の取り扱いについての営業だ。
亜佐美は食品メーカー側に、イベントの件と商品の営業については別の担当者にしてもらうように提案してみた。
メーカーのほうはもちろんですと言って、早速各担当者から連絡が届く。
社食で扱う商品については保坂の会社の担当者に紹介して任せてしまった。
それは亜佐美のような外部者が口を出せる問題じゃないのだ。
イベントのほうは亜佐美が個人で受けるものなので、直接やりとりできる。
そんな中、亜佐美はアメリカに住む茜の父親にメールを送った。
どう考えているのだ?と会うたびに聞いてくる伯父には、メールを出してから簡単に報告しておいた。
亜佐美が物事に向き合って考え始めたと知って伯父は安心したようだ。
翌日届いた茜の父親からの返信メールを読んで、亜佐美はいよいよ保坂に相談することにした。
『今週末、こちらに居ますか?それとも東京ですか?』と珍しく亜佐美からの問い合わせに保坂は嫌な予感がした。
『こっちに居るよ』と返信すると、すぐに『お話したいことがあるので時間作ってください』と返事が来た。
お話があると言うのはあまり良い話しでないことが多い。
『土曜日のランチを一緒にしようか?』と折り返し送ったが嫌な予感を拭えない保坂だった。
一方、亜佐美は、保坂から返事を貰うとすぐに伯父のところに電話をした。
伯父のところはメールではなく電話のほうが早い。
茜のことで保坂に知恵を借りたくて時間をとってらった。その間、茜を預かってもらえないかと頼むと、伯父は二つ返事で土曜日は茜を連れ出すと約束してくれた。
伯父への電話を済ますと、つぎは祖母に電話を掛けた。
祖母にも茜について考えていることをかいつまんで話す。保坂に相談することも告げると、「しっかりおやり」と言って、他は何も言わないでくれた。
亜佐美は保坂のことを「A社の手配師」とこっそり名づけていたが、伯父や祖母に電話を終えてみると、自分も手配師になったようでニヤリと笑ってしまった。
さて、あとは土曜日の献立である。
保坂に頼みごとをするなら、保坂の好物を作ろなければならないと思った。
土曜日の朝は茜の英語のレッスンがあった。
それが終わるのが11時半なので、保坂には正午に来てくれるように頼んでいる。
家庭教師の先生が帰るのと入れ違いに伯母が来て、茜を食事に連れて行ってくれた。
食事のあとは貴子さんのところで遊ぶことになっている。
保坂からこれから家を出てこっちに向かうと連絡があったので、慌ててグラタンをオーブンに入れた。
保坂はいつも通りにダイニングに座ったが、亜佐美が何を言いだすのか油断はしていなかった。
「外に食べに行ってもよかったのに」と保坂が言うと、
「うん、でも外で話せる話じゃないから」と亜佐美は言いながら食事の準備をしている。
「で、何?」と何気なく装って聞くと、「食べながらでもいいなぁ」と言って、PCの横においてあったプリントを保坂に手渡した。
「それ、茜の父親とのメールのやりとりなんです」
「え?」
「ゴールデンウィークの前後からょっとね・・・」と言って、「飲み物は?」と保坂に聞いた。
亜佐美が黙ってお皿を並べているので、保坂は椅子に座ってそれを読んだ。
「今日はグラタンにしたの」と言って、保坂の前に焼きあがったグラタンを置く。
亜佐美もようやく席に座った。
「熱いうちに食べて、それからお話しましょ?」と亜佐美が言うので、保坂も頷いてフォークを取り上げた。
茜の父親は、茜を引き取ることを希望していた。
その前に、今度の夏休みにとりあえず旅行で茜を呼びたいこと。
その後茜の気持ちを確認して、できればアメリカに呼び寄せたいと書いていた。
それに対して亜佐美は、茜の今の生活環境を説明し、茜の父親が仕事をしながら育児と両立できるのかと質問していた。
それについてアメリカでの環境をどこまで整えることができるのか、茜の父親から具体的な内容のメールが届いていた。
お互いに口数が少ないまま食事を終え、コーヒーをカップに注いで保坂に渡した。
「さて、一也さん、今日来てもらったのはこのことについて知恵と力を貸していただきたいの」
亜佐美は単刀直入に保坂に言った。
「うん、僕にできることなら」と保坂は頷いた。
「伯父からも散々言われていたし、保坂さんにも意見されていて、私なりにずっと考えていたのよ、茜のことは」と亜佐美は前置きをした。
「皆が助言してくれるのは、私が前向きに考えないといけないからなんだなって解ったの」
保坂は頷いている。
「それで、今日、茜が帰ってきたら夏休みにアメリカ旅行をするかどうか聞いてみようと思うの」
「うん」
「茜はたぶん行きたいと言うと思う」
「うん、そうかも」
「でしょ?一度行かせるといいかもしれない」
「そうだな」保坂は決して亜佐美の話の邪魔をしなかった。
「最終決定は、その旅行から帰ってきてから茜の意思によるけど、もし茜が父親と一緒に暮らしたいと言いだしたときのことを考えているの」
「うん。どう思ってるの?」
「アメリカには行かないと言えばこのままだしね。でも、行くことの可能性が高いので、そうなった時のために、誰か弁護士さんを紹介していただきたいの」
「ほう。弁護士ね」
1つは、引き取る引き取らないに関わらず、茜の父親と交わす約束。
もう1つは茜が相続した財産に関する契約書を作成することだった。
両親からの相続を姉と等分したが、姉の死後は姉の分を茜がそのまま引き継いでいる。
茜が成人するまでは代理・監督権のある亜佐美と茜の父親との間ではっきりさせておくべきだろう。
それを法律家の下で整えておきたいというのが亜佐美の考えだった。
「うん、よくわかったよ。それにしても亜佐美さん、ちゃんと考えたね。偉いよ」
亜佐美はちょっと照れ笑いしたものの、「一也さん、もう怒ってない?」とおずおずと聞いた。
「怒ってないよ」と答えるとほっとした表情をした。
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