51 仲直り
数日振りに保坂が亜佐美の家に寄ることになった。
『今夜、仕事の帰りに茜ちゃんの家庭教師候補の履歴書を届けます』というメールを受け取った亜佐美は、ほっとして嬉しくなると同時に、先日の保坂の怖い顔を思い出していた。
どんな顔をして会えばいいのか・・・。
別に私が謝る問題でもないだろう、と亜佐美は思っていた。
『何時ごろになりますか?』と亜佐美はメールを返した。
しばらくして、『今日は早めに終われるので、7時頃に会社を出ます』と保坂からの返事があった。
終わったわけじゃないんだなぁと一息つく。
仲直りできるような献立が良いなとは思う。
しばらく考えた亜佐美は、怒りっぽい人にはカウシウムたっぷりメニューにしようかと思いついてニヤリと笑った。
茜が「あーちゃん、ご飯まだ?」とキッチンに入ってきた。
「うん、ほとんど出来てるんだけど、もう少ししたら保坂さんが来るから」と、亜佐美が言うと、
「ほっちゃんが来るの?」と茜が嬉しそうに言った。
「待たないで食べようか?」
「ううん、待つよ~」
「じゃ、とりあえずお茶碗を並べよう」
今では保坂用のお茶碗もお箸もあり、席も決まっている。
茜がそろそろと大事そうに3人のお椀を並べるのを見ながら、いずれこのテーブルには2人しか座らなくなるかもしれないと思うと、落ち着かない気分になった。
「あーちゃん、他に出すものは?」
「今のところこれでいいかな」と茜に返事しながら、今日はまだ3人だ、今日のことだけ考えようと気分を切り替えた。
インターコムが鳴ったので茜が走って保坂を迎えに行く。
亜佐美は冷やしていたサラダを冷蔵庫から出した。
保坂が手を洗っている間に、作ったものを皿に盛ると茜がそれを運んだ。
さくら海老入りのサラダ、ほうれん草のお浸しにはちりめんを乗せた。
お味噌汁は若布と豆腐だ。カルシウムは足りるだろうか?
亜佐美がニヤニヤ笑っていると、「今日は機嫌がよさそうだな」と保坂が戻ってきて言った。
たいていは茜の寝る時間にやってくるので、3人で夕食をとるのは久しぶりだった。
茜は特に嬉しそうだ。
保坂は前回のことは何も言わずに、茜と機嫌よく話しているので、今夜はこのまま何事もありませんようにと亜佐美は心の中で祈っていた。
やがて茜が自室へ行ってしまうと、保坂は鞄から書類を取り出して亜佐美に渡した。
家庭教師の候補者だと言う。読めば解るようになっているからと言って、保坂は帰り支度をしていた。
「いつもご馳走様。次の本社での会議のことをいつものようにストレージにアップしておいたので、明日にでも見ておいてね」と言って靴を履こうとする。
え?それだけ?もう帰っちゃうの?何もなさ過ぎる・・・と亜佐美は胃の中に冷たいものが落ちていくような気がした。
保坂が「おやすみ」と言って背を向けたので、亜佐美は「あの・・」と思わず声がでてしまった。
「ん?何?」と保坂が亜佐美を見る。
「えっと・・・」と言ったまま亜佐美はその後を続けられないでいた。
亜佐美の顔色を伺っていた保坂は、鞄を下に降ろして、「ここにおいで?」と亜佐美に言った。
亜佐美は何も考えられずにふらふらと保坂に近づく。
保坂は片手を伸ばして亜佐美の手を掴むとくいっと引っ張って、自分の胸のなかに亜佐美を閉じ込めた。
亜佐美はおずおずと保坂の背中に手をまわす。
「どうしたんだ?」と言っても亜佐美は何も言えずにただ保坂に寄り添ったままだ。
保坂の手が亜佐美の背中をゆっくり撫で始めた。
「次の東京ではまた美味しいものを食べに行こう。いいね?」と保坂が言うと、亜佐美はゆっくり頷いた。
「じゃ、おやすみ」そう言って、亜佐美を離してドアに手をかける。
「おやすみなさい」亜佐美は保坂を見送った。
私達は終わったわけではなさそうだ。でも今夜保坂は亜佐美にキスをしなかった。
いつもなら必ず帰り際に濃厚なキスをして帰るのだ。
そのことに亜佐美は不安を感じた。
数日後には茜の家庭教師が決まった。
週に一度、近くの短大に英語教師として来日しているイギリス人女性に来てもらうことになった。
子供が好きだということ、片言の日本語が話せるので亜佐美にとっても都合が良い。
亜佐美は英語だけではなく、国語と算数の勉強も補強しようと週2回近くの女子短大生も採用した。
早速翌週から来てくれるというので茜は大喜びである。
亜佐美は自分の子供の頃と大違いの茜にびっくりしていた。
茜の家庭教師が決まったので、亜佐美は保坂の母親にお礼のメールを送った。
百合絵のアドバイスが面接に随分役立ったのだ。
すると同じ日に百合絵からメールの返事が返ってきた。
それには、『次の上京時にまた美味しいものを食べに行きましょう。時間とってくださいね』という内容で、お店のリストが何軒かあった。
亜佐美がインターネットでそのお店を検索すると人気の店ばかりだ。
順番に全部行きたいお店である。
そこまで考えて、亜佐美は今手がけてる社員食堂はどうだろう、社員がこぞって行きたい食堂になっているのだろうかと思ってみた。
亜佐美はもう一度PCに向い、食堂スタッフからのフィードバックと社員アンケートを見直し始めた。
もう桜の季節も終わり、ゴールデンウィークの直前だった。
ゴールデンウィークに、亜佐美は一度東京に行くことになっていた。
社員食堂のことではなく、亜佐美自身の仕事だ。
ブログを通じて食品メーカーのモニターに参加していたところ、子供の日にちなんで親子クッキングのデモンストレーションを企画していて、そこで是非一日講師にという依頼があったのだ。
はやり亜佐美のブログ仲間も選ばれたらしく、午前中はその友達が簡単なランチメニューを担当し、亜佐美は午後にデザートを担当することになった。
会場はデパートの公開キッチンで、応募者の中から5組の親子を選び、その人たちに亜佐美のレシピで料理してもらっているところを一般に公開するという。
50席の椅子のほか、様子が店内に設置しているモニターに映し出されるとのことだ。
その食品メーカーのものを使用する決まりだというので、食品リストを見て、野菜のパウンドケーキとゼリーに決めた。
冷たいゼリーは夏に向けて好まれるし、主催の食品メーカーから簡単に使える新しいタイプのゼリーが商品化されていることもあった。パウンドケーキのほうにも新商品を使うことになっている。
主催者側に打診して、ブログへの記載の許可をもらった。
映像のほうは後でコピーして貰えるらしい。報酬は少ないが楽しそうな仕事である。
打ち合わせも全部終わって、亜佐美は保坂の母親にこのことをメールで知らせた。
すると、『ブログでも拝見しましたよ。当日、観に行ってもよろしいですか?』と返事が届いた。
『ありがとうございます。嬉しいです。会場に到着されたら携帯にご連絡いただけますか?』と早速メールを返す。
その日の夜遅く、百合絵から『楽しみにしています』とメールが届いた。
亜佐美はいつ上京するか悩んでいた。
パウンドケーキのほうはあらかじめ完成品を作っておかなくてはならない。
前日に家のオーブンを使ったほうが断然作り易いのだが、当日会場のオーブンの使い勝手も試しておいたほうが良い気がする。
それと家で作ったものを運ぶ手段も考えなくてはならない。手荷物を持ったまま駅まで移動できるかもわからなかった。
会場はデパートが閉店後にしか使えないと担当者から返事が届いた。
夜は茜をホテルで一人にするわけにいかない。連れて行って夜更かしさせるわけにもいかない。
亜佐美があれこれ考えているのを夕食を食べに来ていた保坂は黙って見ていたが、諦めたようにため息をついて、
「亜佐美さん、ここに皺が寄ってるよ」と人差し指で亜佐美の額に触れた。
「当日皺がTVに映ったらどうするの?」
「え~~、それはイヤだ!」と言って亜佐美は一生懸命に額を擦り始めた。
「君って・・・僕の存在忘れてない?」
「え?そんなことはないですよ?」
「僕って頼りないかな?」
亜佐美は、保坂から黒いオーラが出ているのを見て、ぶんぶんと首を横に振る。
「今まで僕がしてきた手配で何か手落ちがあったかい?」
「いいえ」
「ほんとうに?」
「完璧でした」と亜佐美は保坂の目をみて答えた。
「じゃ、話してご覧?君の可愛い頭で何を悩んでいるのか」
「あ、一也さん、今バカにしましたね?」
「いやいや、違うよ、今日の髪型が素敵だからそう言ったまでだ」
こうやって私はいつも上手く保坂に言いくるめられるのだと思いながらも、亜佐美は保坂に考えていることを打ち明けた。
亜佐美の説明を聞いた保坂は少し考えてから、亜佐美に行った。
「問題ないよ。前日に一緒に東京へ行って、会場の近くのホテルに泊まろう。
夜、君が仕込みをしている間、僕が茜ちゃんの面倒をみてるよ」
「え~~~!一緒に行ってくれるんですか?」
「ゴールデンウイーク中は仕事も休みだ。君達が東京に居る時は僕も東京だと思っていたから」
「ほんと?ありがとう!早速連絡とらなくちゃ」
そう言って、亜佐美は凄い勢いでキーボードを打ち始めた。
保坂は苦笑しながら、食べ終わった食器をシンクに持っていく。
洗い終える頃、亜佐美もメールを終わってダイニングに戻ってきた。
コーヒーを飲みながら泊まるホテルについて亜佐美に聞いてみると、デパートの隣にあるホテルが良いと言う。
前日の仕込みは遅い時間になりそうなので、すぐ隣だと都合が良い。
ホテルはどうしても亜佐美が負担したいと言うので、保坂は逆らわずに任せることにした。
今夜の保坂は機嫌が良いように思えた。
もうすっかり仲直りしたと思える。
亜佐美は昨日茜の父親から届いたメールのことを保坂にしばらくの間黙っていることにした。