50 喧嘩
茜に家庭教師を付けるということで一段落し、保坂は箸をとって食事を再開した。
亜佐美は気分を落ち着けるために、お茶を淹れなおして保坂と前にも熱いお茶を置いた。
保坂が食べ終わってお茶に手を伸ばした。
亜佐美がまだ考えている様子を見ながら、どのように中断している話を再開するか考えている。
亜佐美が湯飲みをテーブルに置いたので、保坂も同じように置き、
「亜佐美さん、さっきの話だけど・・・」と切り出した。
保坂の声が改まったような気がして、亜佐美は顔を上げた。
「茜ちゃんの父親から連絡があったということだけど」と保坂は言い難そうに話し始めた。
「春休みにアメリカへの招待を断ったって?」
「うん」
「茜ちゃんには連絡が来たというのを言って無いんだね?」
「ええ、言ってないわよ。何しろあの人と茜は接触させたくないの」
「二条の伯父さんは知ってる話なの?」
「うん、まぁね。伯父のところにまず連絡が来るから。
一度は伯父を通じて断ったんだけど、そうしたら私に直接メールが来て・・・」
「で、二条さんは何と?」
「父親だということを忘れるなっとはいつも言われてるけど?」
保坂は難しい顔をしていた。
「これからも連絡をよこすだろうか?」
「ん~~、わからないけど、たぶんね」
「で、亜佐美さんはいつまで茜ちゃんに言わないつもり?」
「え?」
「今年、茜ちゃんは10歳だろう?何歳まで父親に接触させないつもり?
小学校卒業するまで?中学卒業?それとも成人するまで?」
「えっと・・・」
「それって、ちゃんと考えてないってことだよね」
亜佐美はとっさに、「考えてないなんて言わないで!茜のことを一番考えているのは私なんだから」と言い返した。
「じゃぁ、聞かせてもらおうか。その考えとやらを」
今夜の保坂は、本来の彼らしく一歩も引き下がらないつもりらしい。
いつになく保坂のことを怖いなと思う亜佐美だった。
亜佐美が頭のなかであれこれ考えている間、保坂は使った食器をシンクに運んでいる。
ついでに食器を洗って、手を拭きながらダイニングテーブルに戻ってきた。
「で、考えを聞かせてもらえるかな?」
「そんなこと言ったって、姉は離婚する時に親権を持ってきたんだよ。
姉が亡くなった後は、私がそれを引き継ぐに決まってるじゃない。
私は茜の親代わりで、元義兄が手出しできないでしょ?」
「ほんとうにそうなのか?ちゃんと法律を確かめたのか?」
「役所に言って手続きしたもの」
「ほう、君に親権があるのか」
「いや、監督権だけど・・・」
保坂はなにか考えていたが、「それなら解る」と答えた。
「茜ちゃんの父親が海外に居るからと、あっさり君に親の代理権が降りたのは解るよ。
しかし、親権などは保留なんじゃないか?」
「それは・・・」と亜佐美は言葉に詰まった。
茜の父親が親権を申し立てれば、亜佐美は弱い立場だ。
少なくとも養育権に関しては勝ち目が無さそうだというのは亜佐美にもわかっていた。
「実の父親が居るのに、会うことも君は邪魔をするのかい?」
「そういうつもりでは・・・」
「じゃ、どういうつもりなんだ?さっきの答えもまだ聞いてないけど、君の考えそうなことは解るよ」
「とにかく、嫌なのよ。義兄と茜が接触するのが」
「ほお、生理的に嫌というのが理由か」
今夜の保坂は悪魔のようだと亜佐美は思った。
「君ははっきり言わないと気がつかないのかもしれないから、
僕はあえてキツイ言葉で言っているけど、もう一度よおく考えてご覧よ。
親が子供に会いたいのは当たり前であり、子供のほうはもう無条件に親に会いたいんだ。
その気持ちをもう一度考えてあげてよ」
亜佐美は言葉もなく、目にいっぱい涙を溜めていた。
「言い過ぎたかな。でも、ほんとうに今夜はゆっくりと考えてみて。
今日はもう遅いからお暇するよ」と保坂は上着を手にとって立ちあがった。
見送らない亜佐美を振り返り、「僕は、父に引き取ってもらって嬉しかった」と保坂は言った。
亜佐美ははっとしたように保坂を見た。
一瞬、保坂の顔に浮かんだ複雑な表情を見逃さなかったが、それでも亜佐美は「嫌なものは嫌なの」と呟いた。
「亜佐美さんは意外に頑固だな」と保坂はため息をついて、「戸締り忘れないでね」と言って、出て行った。
しばらくの間、亜佐美はそのままそこを動かなかった。
やがて戸締りを確認してベッドに入ったものの、眠れない夜となった。
何度考えても、いくら考えても答えは出ない。
ようやく目を閉じたのは明け方になってからだった。
それから数日、保坂は亜佐美の家に来なかった。
『今日は遅くなるので寄れません』というメッセージが届いただけだ。
来るべき時が来たのかと亜佐美は考えた。
いずれにしても出口のない恋愛だったのかと思うと憤りのない寂しさが染み渡る。
茜の居る時は元気に振舞っているけれど、茜が寝たあと一人になると涙が出てきて眠れない夜が続いていた。
保坂のほうは仕事に手をとられていたが、顧問弁護士に連絡をして親権のことを聞いてみた。
弁護士はあっさりと、養育のほうは父親が手続きをすれば簡単に父親のものになること、茜が母親から相続した財産についての管理は亜佐美が優先されることを告げた。
何事にも特例はありますが、と弁護士は言っていたが、茜のことを考えると父親を無視するわけにはいかない。
父親が茜を引き取りたいと言ってくるのは時間の問題だなと保坂は考えていた。
それよりも亜佐美の気持ちをなんとかしなければならないほうがやっかいだ。
そんなある日、亜佐美の元に百合絵から電話があった。
「亜佐美さん、保坂の母です。お元気?」
「あ、小母様。はい・・・」と戸惑い気味に答えた亜佐美だった。いつもはメールなので電話は珍しい。
「一也がよく夕飯をご馳走になってるんですってね」
「はぁ。一也さんの帰り道ですから、寄れる時には寄っていただいてますけど」
「最近忙しくて、ここ数日亜佐美さんの手料理を食べてないから元気が出ないって言ってたわよ」
「そんな。一也さん、東京へ行かれたのですか?」
「あら、昨日来てたけど?」
「そうなんですか」
「あらあら、元気がないわね。今日そちらに帰ると思うから、連絡があったら夕食よろしくね」
「はい」
「あ、そうだ。今日は一也の話じゃないのよ。茜ちゃんの家庭教師のことなの」
「はい?」
「一也が茜ちゃんに家庭教師をと亜佐美さんに勧めたらしいわね。うちの子供たちは塾に行かせずに家庭教師を付けたので、そのことを亜佐美さんにお話しようと思ってお電話したのよ。この歳になるとコンピューターでメール書くより、電話のほうが楽だからお電話したけど、今お時間よろしいかしら?」
「はい」と亜佐美が言うと、百合絵はなぜ家庭教師にしたのか百合絵夫婦の考えを話し出した。
「とにかく、親は子供の可能性を引き出してあげないといけないと思うのよ。
お勉強も大事だけどそれ以上に自分の人生を決められるような子供に育てなくちゃいけないと思わない?」
「はい、そうですね」と相槌を打つのが精一杯だった。
百合絵は。「一也がもう少ししたら家庭教師の候補者を何人か見繕うと思うけど・・」と前置きして、面接のポイントを亜佐美に語り出した。
途中から亜佐美はメモを片手に百合絵の話に聞き入っていた。
「よろしいこと?亜佐美さん。子供のためにを第一に考えなくてはならないのだけど、親の希望だけではいけないのよ。まだ小さいとはいえ子供にも嗜好があって、それをちゃんと見てあげないと単に押し付けになるのよ、それを覚えておいてね」と言って百合絵は電話を切った。
電話を終わって亜佐美は手に汗が出ているのに気がついた。
百合絵は相変わらず彼女のリズムを保ったまま会話を進めていく。
今日はそれに助けられたような気がした。
保坂のほうはというと、亜佐美からは連絡が無いのが気にいらなかった。
亜佐美から会いたいと言われたことは数えるほどしかない。
たいていは保坂が連絡して亜佐美がそれを承諾するという形が多い。
いつか亜佐美から保坂を求めるようになって欲しいとは思っているが、それはまだ先の話らしい。
亜佐美の頭が冷えて冷静に考えられるようになるまでと思っていたが、どうやら惚れたほうの負けだと悟った。
保坂は気が重いまま亜佐美にメッセージを送るために携帯電話に手を伸ばした。
そんな姿を保坂のスタッフは恐る恐る窺っていた。
ここ数日、ボスの機嫌は最悪だ。
チームゼロの部屋が凍るのではないかと言うほど冷たいオーラを保坂は出しているのだ。
考えに沈んでいた保坂がいきなり携帯でメッセージを打ち始め、やがてニヤリと口の端を持ち上げたのを見て、良い兆候であってほしいと祈るばかりだった。




