49 変化
緊張しながら始まったランチだが、料理が出る度に百合絵が前に食べた同じようなその料理のことや、食材についてウエイターが説明する以外の話をしてくれた。
あとは保坂の子供の頃の様子や好きな食べ物の話で盛り上がり、亜佐美は茜のことも正直に話せて、会話が止まることはなかった。
いつの間にかメインの料理も終わって、ウエイターがデザートメニューを持ってきた。
「一応メニューをお持ちしましたが、今日はシェフが特別に作らせていただいてもよろしいでしょうか?」と言う。
やはり保坂の母は特別なんだと亜佐美は思った。
「その前にお化粧直しをして良いかしら?」と百合絵がウエイターに断って、「こういうお店はお手洗いも素敵なのよ、是非一度見てらっしゃい。私はここに着いた時に行ってきたから大丈夫よ」と亜佐美に勧める。
確かに洗面所までがモダンでスタイリッシュだった。
亜佐美が感心しながら化粧室を出ると、店のスタッフがドア近くに居て、亜佐美を別の小さな部屋に案内してくれた。
「二条さんはあまりここに来る機会が少ないとおもって、デザートは個室にしてもらいました。いろいろ見たほうがお勉強になるでしょ?」と百合絵が言った。
「はい。ありがとうございます」
「一也から、亜佐美さんの職業柄、食べ歩きを増やすと聞きました」
「はい」
「今日のように一也が急に来れなくなった時、私がまたご一緒してよろしいかしら?」
「はい。有難いです。ご迷惑じゃないですか?」
亜佐美がそう言うと、「もちろん時間の取れないときは参加できませんけど、私はそれほど忙しくないので。二条さんさえ良ければ」と百合絵は亜佐美の顔色を伺うように言った。
「はい、もちろんです」
「あぁ、よかった。断られたらどうしようかと思ってた」
「まさか私が断るだなんて・・・。今日はとても楽しかったですし、また一也さんの子供の頃の話をお聞かせください」
「あの子の話でよければ幾らでも」と言って百合絵は嬉しそうに笑った。
シェフが自ら運んできた特製デザートは独創的な飾り付けで、亜佐美はしばらく手をつけずに見とれてしまった。
「見てもお腹は一杯になりませんからどうぞ召し上がって下さい」とシェフが優しく勧めてくれる。
シェフから直接今日の料理についてや食材について興味のある話を聞くことができた。
シェフやスタッフに見送られながらエレベーターに乗ると、百合絵が「二条さん、私にも名刺を一枚くださいな」と言って、受け取った亜佐美の名刺を大切そうにバッグに仕舞った。
百合絵は久しぶりに銀座を歩いてみるといって、ビルの前で別れた。
亜佐美はまた高瀬の運転で本社に戻る。後部座席に深く座って亜佐美はノートを出し、今日のランチを忘れないように記した。
その様子を高瀬がバックミラーで伺っていたことを亜佐美は知らない。
本社に戻ると社員食堂で社報の取材があった。
昼食時間をとっくに過ぎた食堂は閑散としている。
数人が自動販売機で買った飲み物を静かに飲んでいるだけだった。
取材は簡単な質問に答え、写真を撮るだけだった。
レストランでこの取材の話題になったとき、百合絵が少し化粧直しをしてくれたので少しはマシに写ることだろう。
それにしても大人の女性って凄いなぁと改めて百合絵のことを思い出していた。
3時半になると保坂が合流して駅にと急ぐ。
4時の特急に乗って指定の席に座った時には、亜佐美はほっとため息が出てしまった。
隣に座った保坂が「どう?疲れた?」と優しく声をかけてくれたが、
「ん~、緊張しました」と保坂を睨んでしまった。
「いきなり一也さんのお母様と二人っきりの食事ですよ?緊張して冷や汗ものですよ」
保坂は肩を少し竦めて何かを呟いたが、亜佐美には聞き取れない?
「え?何て言ったの?」
「いや、なんでもない。それよりも料理はどうだった?」
保坂は上手く話題を変えて亜佐美の気を逸らしたかった。
案の定亜佐美は料理のことに気をとられて、保坂にいろいろと説明を始めた。
母親には好ましい感触を持ったようで何よりだ。
保坂には料理よりそれのほうが大事だった。
一通り亜佐美の話が終わったので、次に保坂は亜佐美に新しい提案があった。
女性誌の取材を受けないかという話だった。
週刊誌にしても月刊誌にしても、女性誌には料理コーナーが存在する。
スイーツ特集だったりお弁当特集だったり毎回趣向を凝らした記事が掲載される。
ある雑誌で、人気ブロガーのお勧めレシピという特集を考えているそうで、
保坂の同級生その雑誌社に居て、誰か知らないかと言わので、亜佐美のブログを推薦してくれたらしい。
連絡が届いたら考えてみてくれと保坂は言った。
亜佐美がどうしようかとあれこれ考えているうちに、亜佐美の降りる駅が近づいてきた。
保坂は会社に行かなければならないので、亜佐美だけが降りる。
保坂の降りる駅はほんの数分先なので、保坂も荷物を持って亜佐美の後を降車口まで一緒に歩いた。
閉まる電車のドア越しに保坂の顔を見ると、亜佐美はもの凄く離れがたい想いに囚われた。
突然湧き出てきた感情は亜佐美を戸惑わせる。
こういう気分になったのは過去には無かったし、それが亜佐美をどこかに運んで行くような奇妙な気分になった。
保坂のことは好きだし、今はその気持ちに逆らうことなく恋人として付き合ってはいるが、
家の管理や茜のことがあるのでこれ以上は望めない制限付きのお付き合いと思ってきた。
保坂とのゴールを考てみるとそれが見えないことに改めて気がついた亜佐美は、駅のホームからしばらく動けなかった。
一方保坂は、電車のドアが閉まってから見上げた亜佐美の表情が気になっていた。
いつもの素直そうな眼差しは無く、何かに戸惑っているような揺れる目をしていた。
母との食事中に何かあったのだろうか、それとも雑誌の取材で不安になったのだろうか。
何があったにしても亜佐美が逃げ出さないように捕まえておかなくてはならない。
とりあえず今日の仕事を終わらせてからと亜佐美の確認は保坂の最重要フォルダに入れた。
その後はいつもの日常が続いた。
保坂の会社とはほとんどインターネットでのやり取りで終わり、たまに大前の仕入れに付き合うくらいだ。
ブログのほうは社内報に載ったせいかアクセス数が飛躍的に増えており、コメントもかなり増えて手がかかる。
他には家に居てできることとして、食品メーカーのモニターにも応募したり、一昨年と比べるとかなり忙しい毎日だった。
保坂は相変わらず忙しく、工場に居る時は仕事が終わってからはほとんど亜佐美の家に寄り、軽い食事をしてから帰って行く。
茜が寝かしつけて、保坂の遅い夕食に付き合いながら、保坂といろんな話をするのが楽しみになっていた。
女性雑誌の取材を受けることになったが、それも含めて今後どの程度活動を広げていくか保坂と話し合った亜佐美は、自分なりに方針を決めた。
銀座でランチをしてから、やはり本社の午後の会議に出席した後、保坂と素敵なレストランで夕食を摂って東京で一泊したこともある。
保坂の母は、亜佐美の名刺に載せていたブログを見たとメールを送ってきてから時々メールでやり取りしている。
「今ではすっかりメル友ね」と嬉しそうに言ってくれるので、亜佐美も悪い気はしない。
あれから一度、東京に製菓用品を買いに行った時に、待ち合わせてランチをご一緒した。
ファッションについても時々アドバイスを貰ったりして、保坂の小母様と呼んで懐いている。
ひとつ気になるとすれば、茜のことだった。
春休み前に、茜の父親から連絡があった。
茜の父親は春休みを利用して、茜をアメリカに呼びたいと言ってきたが、
「春休みはあまり充分な日数がないので」とやんわりと断ったのだ。
このことを茜には知らせていなかった。
茜はというと、アルファベットの書き方も覚えて、次はちゃんと英語が習いたいと言い始めた。
父親が住んでいるところの言葉だから興味があるのかしらとも思う。
ある日、夕食を食べに来た保坂にそのことを話したところ、保坂は食べている手を止めて箸を置いた。
亜佐美を正面から見つめて、「亜佐美さん、それちゃんと考えたかい?」
「はい、考えましたよ。今更あの子の父親が何を言ってきても、私はなるべく茜に近づけないつもりよ」
「なるほど」と保坂は言って、茜の英語の勉強についてある提案をした。
「まず、茜ちゃんの学力だけど、かなり賢いと思う」
「うん、成績も良いんだよ」
「だろう?この先大学に行くにしても、茜ちゃんが将来何をするにしても、向学心のあるときにいろいろ習わせたほうがいいと思うんだ」
「それはそうでしょうね」
「語学もその1つだ」
「はい」
「兄の子供達は幼児の頃から英語教育を始めたんだよ」
「え?そんなに早くから?」
「うん。そして、僕達兄弟もだ」
「え~?そうなんですか?」
「その頃は英語のビデオだけどね。小学校に入る頃には英語の家庭教師をつけられた」
「うわっ。本当ですか?」
「小学4年生になるとフランス語も始まった」
「嘘っ」
「嘘ついてどうするんだ」と保坂は軽く笑って、「僕はフランス語よりドイツ語のほうが好きだったけど」と言った。
亜佐美が頭を抱えていると、「この街に英語塾はあるんだろう?」と保坂が聞いた。
「クラスメイトも何人か通ってるようなのであるとは思いますが・・」と亜佐美は頼りなげに答える。
「でもね、学習塾は通う時間の無駄と、非行に走る可能性もある」
「まさか?」
「よく考えてご覧よ。亜佐美さんは忙しい時は家に居ない。お手伝いさんか曾孫に弱い貴子さんだ。塾でどんな悪い仲間と知り合うかわからないし。第一、行き帰りが心配じゃないか」
亜佐美にはぐうの音も出なかった。
「ラッキーなことに、亜佐美さんには収入があるじゃないか。
茜ちゃんの身につくことにお金を使わなくてどうするんだ」と説得され、
結局家庭教師という線で保坂が候補者を探してくれることになった。