4 出張
金曜の夜、合コンが終わった後の保坂は酔い覚ましも兼ねて歩いてマンションに帰った。
来週からのことを飲みなおしながら考えようとウイスキーボトルを取り出した。強い酒が飲みたくなってシングルモルトにする。
これからは今までのようなわけにはいかないだろうことは想像できた。
火曜日は会議、おそらく木曜日は本社に呼ばれることだろう。
論文の説明をしなければならない。それとその内容についても自分と同等かそれ以上の見識をもつ技術者に説明しなければならない。
木曜日だけでは終わらずに金曜日も本社に足止めのはずである。
そのまま週末は久しぶりに東京で過ごそうかと考えた。
いろいろ思い巡らせているところに着信があった。
相変わらず行動が早い。実家からの電話だ。
「こんばんは。母ですよ。覚えてる?(笑)」
「もちろんです。こんばんは、おかあさん」
「まったくぅ、母親が居ることを忘れちゃったのかもといつも心配になるわ。今いいかしら?お話できる?」
「はい。大丈夫です」
「週末はこっちに泊まってちょうだいね」
「相変わらず情報が早いですね、さすが母さんだ。明日にでもこちらから連絡しようと思ってたところです」
「息子が久しぶりに東京に帰って来るのに、こんなチャンスは逃さないわよ(笑)」
「僕だって今朝聞いたところですよ、木曜日から出張だって」
「木曜日からなのね。家で食事して欲しいわ」
「たぶん大丈夫です。久しぶりに母さんのあれ、食べたいな」
「まぁ、それは張り切らなくては!!」
「でもまだ詳しいスケジュールが決まってないので、水曜日に電話します。それでいいですか?」
「実家までの道順覚えてる?(笑)」
「あははは、迷子になっても母さんのあれの匂いでたどり着けると思いますよ(笑)」
「他にも作っていいかしら?新作もあるんだけど?」
「日曜日にこっちに帰ろうかと思ってます。それまでに食べきれるくらいでお願いします」
「うわ~、嬉しいわ~。夕食待ってるから本社では適当に切り上げてよ~?」
「善処します(笑)」
「いやだ、善処しますだなんて(笑)」
それからしばらく雑談して電話を終えた。
それにしても相変わらず仲の良い夫婦だ。
社長である父が一也が木曜日に上京することをさっそく母にリークしたのだ(笑)
この調子じゃ週末は兄たち家族も全員集合だなと、久しぶりに華やいだ母の声を聞いたら胸がほんわりと温かくなった。
言う必要もないので会社で保坂が社長の息子だとは誰にも言ってない。
本社ではなく工場ということもあるが、大きな会社なので社長と同じ名前でも勘ぐられたり尋ねられたことは一度もない。
直属の部長は遠縁に当たるので知っているが、課長はおそらく知らないだろう。
そういう環境を保坂は好ましく思っていた。
しかしあの論文が採用されると、これからは今までのようなわけにはいかない。
プロジェクトの責任者にはならなくとも技術担当にはなるはずだし、このプロジェクトが終了したら最終的には本社役員になってゆくのだ。
今夜はこれ以上は考えにことにしようと保坂は思った。
もう一杯だけウイスキーを飲み終えたら、眠ってすべては明日から考えようと思うのだった。
休日の朝は目覚ましアラームは鳴らさない。
自然に目が覚めるまで寝ているのだが、いつもと同じような時間に起きてしまう。
トレーニングを少し多めにこなしてシャワーを浴びた後に保坂は出張用の資料をまとめはじめた。
多くはパソコンでの作業になる。発表した論文にもっと詳しいコメントをつけていく。
発表しなかったこともあるのだ。知的財産として守る準備をしなければならない。完成予想図も作らなくてはいけないだろう。
個人としての主張もしなくてはならない。
自分の意向を明確に持っておかなければならないことに保坂は気を引き締めた。
気がつけばすっかり午後も半ばになっていた。
冷凍のパスタがあるので温めて簡単な食事を摂ってから近所のスーパーまで買い物に行くことにした。散歩を兼ねて本屋も寄ってみるつもりである。
スーパーが見え始めた頃、その手前の黒い板塀から人が出てきた。
ランドセルの女の子ではなく、20代前半の女性である。
じっと見るわけにもいかず、保坂は黒い板塀から距離をとって女性を見ないように通り過ぎた。
あの子の母親にしては幼さの残る顔立ちのような気がしたけど、最近の女性は若く見せ方もあるのだろう。そんな風に考えてるとスーパーを通り過ぎて本屋の前に差し掛かっていた。
本屋では雑誌をざっと見るだけにして、スーパーで日用品を買っての帰り道、あの黒い板塀にちらっと目を向けた。
さっきは無かった白い紙が貼られている。
今度は保坂も板塀に近づいてその貼り紙をじっと見てみた。
『通勤弁当 愛妻弁当 彼女/彼氏弁当
その他ご要望相談のうえ お弁当をお作りします』
文章は同じような感じだけど手書きではなくパソコンで作られたアイコンや写真入りの可愛い貼り紙だった。
この家は弁当屋なのか?ここで作ってるんだろうか。そんなことを思いつつ部屋に戻った保坂はコーヒーをセットしてまた仕事に頭を切りかえていった。
結局翌日の日曜日も同じように筋力トレーニングをし、掃除や出張準備をし、そして今週から始まる会議の脳内シュミレーションをしておいた。
月曜日は課長に呼ばれ、部長にも呼ばれ、薫と翌日の会議へ向けての打ち合わせをし、空いた時間はデスクでひたすらコンピューターに向き合っていた。
部長には一緒に本社へ行くことになったと告げられた。案の定、木曜と金曜の2日間本社に呼ばれている。泊まりはどうする?と聞かれて、実家にしますよと答えると、部長は少し笑った。
「まぁ、ほおってはおかれないな。私も一緒に夕飯をどうかと誘われたよ」
「ほんとご一緒にいかがですか?」
「いや、木曜日は遠慮しよう。久しぶりだから水入らずがいいよ」
「少々敷居が高いので一緒してもらえると助かるんですが・・・」
男の子なんだからそれくらい自分でなんとかしろと言われて苦笑するしかない。
木曜日の出発時間を確認して自分のデスクに戻ると、香川が声をかけてきた。
「今日はやけに忙しそうだな?」
「木曜日から出張が決まった」
「何だ?それは。聞いてないぞ」
「今言った」
「週末はこっちに戻るのか?」
「いいや、久しぶりに実家に顔出さないと・・・。戻りは月曜だな」
「あちゃ~~、合コンの女子大生に保坂を連れて行くって言っちゃったよ」
「何だそれは?」
「土曜日にどこかへお出かけしようって話さ」
「呆れたヤツだな。俺に断りもなく・・・」
「保坂チャン人気あるから、撒き餌にしたんだよ~」
もう言い返さずに軽く睨むと、香川は諦めたようにため息をついた。
ここから保坂の家族が登場します。ときどき『一也』と書くことになります。
家族がでてくると保坂がたくさんになるので難しいですね。