39 保坂の手料理
日曜日の朝、亜佐美はパジャマのままで茜と一緒に軽く朝食を作り、保坂が11時に迎えにくることと今日は保坂の家にお邪魔することを茜に告げると、
「え?ほっちゃんのお家に?」
「うん、お昼ごはん作ってくださるって言うの」
「誰が?」
「保坂さんがよ」
「えっ?お料理できるのかなぁ、ほっちゃん」
「いつもお仕事で忙しいからお料理しているとは思えないよね」
「だよね~」
「いいこと茜、美味しいって食べるのよ、わかった?」
「あ~、でも~」
「茜が作ったカレー、保坂さん美味しいって食べてくれたよ?」
「うん、そうだね。でもあのカレーほんと美味しかったもん」
「私が美味しいって言ったら、うん、くらいは言ってよね。夜は貴子さんが来るから3人で美味しいもの食べよう」
「うんっ」
保坂の知らないところでとんでもない会話をしてる二人だったが、亜佐美はこれも躾のうちと真面目に捉えていた。
時間通りに保坂が迎えに来て本屋まで一緒に歩く。
アルファベットの書取りドリルを買ってもらって嬉しそうな茜は、ドリルが入った袋をずっと胸に抱えていた。
やがて保坂の住むマンションに到着した。
「引っ越してから初めてのお客様なのでスリッパがないんだ、ごめんね」と保坂が言ったが、部屋は適度に暖かく保たれており、「全然問題ないですよ」と亜佐美は言った。
普通の家族向けのマンションで、独りには充分な広さだ。
「洗面所はこっちね。先に場所を言っておくよ」と案内したあと、リビングに入った。
想像したとおりシンプルな部屋だった。
小さめのダイニングテーブルと椅子4脚。薄型TVとソファーとラグ。隅にダンベルが置いてある。それだけだ。
テーブルの上にはすでにお皿が準備されていた。
美味しそうな匂いが漂っている。
「トマトソース大丈夫?」と言うので、亜佐美は茜と顔を見合わせて「大好物です」と言った。
続きの部屋には頑丈そうなデスクとPC。壁にはぎっしりと本が詰まっていた。
夕べはこのデスクに座ってメッセンジャーでやりとりしてたのかしらと、保坂の姿を想像して亜佐美は顔がほんのり熱くなった。
「そろそろ食べる用意していいかな?お腹空いてる?」と保坂がキッチンから聞いたので
茜が「は~い。空いてます~、ぺっこぺこ」と言った。
冷やした小さなサラダとバスケットに入ったフランスパン。
飲み物も保坂がグラスに入れてくれ、着席したところに保坂が熱々のパスタを置いた。
「えっと、本日はほうれん草とチーズのラビオリ、トマトソースです」と言った。
立ち昇る湯気に美味しそうな匂いが漂って、「ほっちゃん、凄いよ!おいしそう」と茜が叫んだ。
「熱いから気をつけてね。サラダから先に食べたほうがいいかも」と保坂は亜佐美にも勧めた。
亜佐美も茜も「美味しい」「美味しい」と言って全部食べ、デザートは東京の有名パテシエ作のフルーツがたくさん乗っかったタルトだった。
エスプレッソを飲みながら「それにしても保坂さんがこれほどお料理出来るとは意外でした」と亜佐美がつぶやくと、「亜佐美さんだから打ち明けますが、トマトソースは母のレシピです。それは簡単なので自分で作りましたけど、ラビオリは冷凍食品ですよ」と保坂が言った。
「これは冷凍庫にストックがあっていつも食べているので失敗がないかなと(笑)」
「そうだったんですか。お皿も揃っているので驚いていたのですが何か魔法がある?」
保坂は、「亜佐美さんには隠せないなぁ。昨日、お皿が無いのに気がついて実家にSOS出しました。そうしたら今朝一番にお皿のセットが届きました。パンとケーキも一緒に」
亜佐美は一瞬ぽかんと口を開けて、そのまま笑い出してしまった。
亜佐美には言わなかったが、食器やケーキを運んで来たのは長谷川だった。
朝9時にドアチャイムが鳴ったので出ると、ドアの外に箱を持った長谷川工場長が居たのだった。
「週末東京に居たらお呼びがかかってさ、何かと思ったらどうせ田舎に帰るならこれを届けてくれと頼まれたんだよ」
「あ、すみません。宅急便で送ったのかと思いました。ほんとうに申し訳ないです」と保坂が言うと、
「まぁ、うちも同じケーキを頂いたので家内や娘が大喜びするだろうからいいんだけど」と大きな箱の上にケーキの箱を置いた。
早朝に実家に寄って荷物を積み、そのまま車で来てくれたとのこと。
「上ってコーヒーでも」と保坂が言うと、「当たり前だ。眠くてかなわん!それにトイレも行きたいし」と長谷川さんにしてはめずらしくずかずかと保坂の部屋に上りこんだ。
「いつもは親戚だといっても遠縁の僕たちはたまに法事に呼ばれるくらいだろ?こんなことは初めてだよ」
「はぁ、ほんとうにお手数かけました」
「朝、お宅に到着したらちょうどケーキ屋が来ていて、よくTVで見るパテシエとかいうのが自分で届けに来ていたからびっくりしたんだ」と教えてくれた。
やっぱり母に頼むと大事になったようだ。次回からはよく考えてからにしないとと保坂は心の中で苦笑していた。
コーヒーを飲み干すと、「これで家まで帰れそうだよ。ありがとう」とお礼を言って、「急ぎだというのは解るけど、週末は仕事もほどほどにしておきなさいよ」と言い残して帰っていった。
保坂はほっとした。大きな箱の中身は知らないらしい。
「保坂さん、トマトソースはまだたくさん残ってます?」と亜佐美が聞くので、
「うん、まだあるよ。食べる?」と言うと、
「いえ、もうお腹一杯です。残ったソースは一食分ずつ小分けにして冷凍庫に入れると良いですよ」と教えてくれた。
「ほっちゃん、もう少しケーキ食べて良い?」と茜が言うので、牛乳を注ぎ足してケーキを一切れ茜の皿に移動させる。
「このケーキ、ほんと美味しい~」と言って茜はパクパク食べていた。
「一度食べてみたかったんです、ここのケーキ」と亜佐美が言った。
「そうなの?」
「えぇ、有名パテシエでよくTVに出てるんです。やっぱり粉とかクリームとか違いますね」と言って丁寧に食べている。
「そうだ、残りもので悪いけどあとは持って帰らない?」と保坂が言うと、茜が「やった~。夜も食べられるね」と嬉しそうに言った。
「いえいえ、せっかく保坂さんのお母様が保坂さんにって届けたものだもの、いただけません」亜佐美は辞退したが、「僕は食べる時間がないんですよ」と持って帰るように強く勧める。
「じゃ、あと一切れだけは保坂さんが召し上がってください」と言ったので、保坂は自分の分をケーキ皿に一切れ移して、あとは箱に仕舞って茜に持たせた。
「では、月曜日、朝お迎えに行きます。早い時間なのでインターコムは鳴らしません。ここを出るとき携帯にメールしますから出てきてください」
「それから、東京本社では社長と専務、数人の役員は保坂なんですよ。その人たちと会うことは無いと思うけど、もしも話すことになったら僕のことは一也と呼んでください」
「え・・・はい」
「じゃ、亜佐美さん、一也と練習してみてください」
「え?今?」亜佐美が戸惑っていると、「さあ、言ってみてください?」と保坂が言う。
と、横から「いちやっ!!」と茜が叫んだ。
一瞬の間があって、保坂が「はいっ」と茜に返事した。
亜佐美はうろたえて「これ、茜。保坂さんに失礼でしょ!」と言うのが精一杯だ。
「意外に簡単かも~」と首をすくめて舌を出した茜を見て、保坂が笑い出してしまった。
穴があったら入りたいとはこのことだ。亜佐美は顔が火照るのがわかった。
「では、亜佐美さんも言ってみてください」まだ笑いが収まっていない保坂がもう一度亜佐美を促す。
茜を見ると口元がピクピクしている。亜佐美は茜を睨みつけながら、「一也さん」と言ってみた。
「はい。良く出来ました。明日までにもっと練習しておいてくださいね」と保坂がニッコリと微笑んだ。
保坂が微笑むのを見て亜佐美は、その笑顔は反則でしょ~と思いながらも恥ずかしさに勝てずに、「茜、そろそろお暇するわよ」と茜を促して立ち上がった。
茜はなにかブツブツ言っていたが、「私、やっぱりほっちゃんのが言い易いよ。ほっちゃんでいい?」と聞いている。
「うん、茜ちゃんだけにほっちゃんと呼ぶのを許そう」と言って二人でケラケラ笑ってる。
頂いたケーキの箱を大事そうに抱えた茜と亜佐美は、「近いし、今日は二人で帰ります」と言うので「また明日」と言って玄関で別れた。
家に帰ってから、大人の話の邪魔をするとは言語道断と茜がお説教されたのは言うまでもない。
夕方祖母が到着した後で昼間の出来事をを説明すると、茜は祖母にも嗜められてどんどん元気が萎んでいく。美味しいケーキが残っていることだけが茜の希望の光だった。
祖母と話すことはたくさんあった。ようやく茜が休んで、亜佐美と祖母は風呂上りにビールを取り出した。
「明日は早いから一口だけね。貴子さんあとは飲んじゃってくれる?」と祖母のグラスを一杯に満たす。
「亜佐美はほんとよくやってるね」
「ほんと?褒めてくれるの?」
「うん、冷蔵庫みただけでわかるわ。お掃除もそれなりにしているようだし」
「頑張ってるのよ、とりあえず」
「そうかい」
「何をしていいのかわかんないんだけど、とりあえずあまり手抜きはせずにやってる」
「彼氏も出来たしね、それもイケメンじゃん」と祖母が保坂のことを話題にした。
「イケメンなんて言葉、よく知ってるわね」
「ふふん。まだまだ年寄り扱いしないでもらいたいね」
「貴子さんは年寄りじゃないよ~」と亜佐美が茶化すと、
「亜佐美、何事もよく考えて行動するんだよ。亜佐美が決めたことなら誰も反対しないから」
「うん。そうするつもり」
「頼むよ」と言った祖母が亜佐美を見て微笑んだ。
「じゃ、明日は早いからもう休もう。明日はお願いしますね」
「あぁ、おやすみなさい」とグラスを軽く洗ってそれぞれ寝室に引き上げた。
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