37 面接
翌日の土曜日、保坂は久しぶりに時間を気にせずに目が覚めた。
コーヒーを準備し朝風呂に入った。そしていつものストレッチをこなした後、ジョギングに出かけた。
もうすっかり寒いが、10分も走っていると汗が出てくる。40分ほど走って部屋に戻った保坂は今度は軽くシャワーを浴びてニュースとメールのチェックをした。
翌日は亜佐美たちが来ることになっている、乱雑にはなってないが少し埃っぽいので掃除をした。
冷蔵庫もチェックして頭の中のメモに買い物リストを作った。
今日はあの伯父さんとの勝負がある。格闘技でもやっていそうな人だったよなと思い出し、怖気づきそうになる自分を『何事も作戦だ』と奮い立たせて考える。
直下型の人には怒らせてみるか、逆に下手に出るのがいいのか迷うところである。
しかし、亜佐美の伯父ならば怒らせるのは得策じゃない。しかも今日はその連れ合いも祖母も来るんだ。
大人しめに行こうと保坂は決めた。
約束の1時半少し前にファミレスに到着した。
すでに亜佐美は到着していて、店の人となにやら話している。
席に案内されてから、亜佐美が「ここの店長さんよ。今日は便宜を図っていただきました」と保坂に説明すると、その店長は「どうぞごゆっくり。何でも言ってくださいね」と言って保坂に会釈をして行ってしまった。
「亜佐美さんはたくさん知り合いが居るよね」と保坂が感心して言うと、「地元だもの。それにこのファミレスができる前から住んでるんだもの」と言って笑った。
「確かにそうだよな」と保坂の言葉には笑いが滲んでいた。
保坂と茜が隣のテーブルに座って注文が終わったときに、一人目の応募者が入り口に立った。
保坂が気がついて「亜佐美さんは座ってて」と言って迎えに行ってくれた。
飲み物を取ってきたり、茜の相手をしたりと保坂は甲斐甲斐しくサポートする。おかげで順調に3人の面接が終わった。
亜佐美は即断せずに、あとで連絡すると言って応募者を帰した。
「感想は後にしよう。ここでは話さないほうが良い」と保坂が言うのでもっともだと亜佐美も頷いた。
「亜佐美さん、疲れているだろうけど、茜ちゃんの本を先に見に行こう」と言って亜佐美を促して本屋に向かう。
「次は僕の面接だなぁ」と保坂が呟いたのを亜佐美が聞いて、「保坂さんでも緊張するんですね」とクスクス笑った。
「そりゃするよ」と保坂は照れくさそうに言ってから、「そうだ。今夜の食事なんだけど、中華料理はどう?」と聞く。「うちはみんな中華が好きだから大丈夫だと思います」と亜佐美が答えると、「今日は僕にご馳走させてね」と保坂が頼んだ。
保坂がどうしてもと言うので亜佐美は「ではお言葉に甘えます」と言って、ちょうど中華料理店の前を通ったので夜の予約をしておいた。
「この店ね。いつだったか亜佐美さんと茜ちゃんが大勢で出てくるのを見かけたことがあるんだよ」と保坂が言った。
亜佐美はちょっと考えていたが、「夏休みでしょ?従兄妹達とここに食べに来たことがあったわ。あとで会う伯父さんの子供たちよ」と答えた。
本屋で茜の勉強ドリルを選んで家に帰ると茜はさっそくドリルをやりたそうだったが、「あとで伯父さんたちが来るから挨拶したら出かけるまで部屋でやっていいよ」と亜佐美は茜に言った。
「それまでにさっきのお手伝いさんたちのこと考えなくちゃ」と言って、二人の前に履歴書を広げた。
「茜はどう思った?」とまず聞いてみる。
しばらく考えていたが、「最初の小母さん、暗かった」と茜が小さな声で言った。
「そうだよね。暗い人だったわね」と亜佐美も同意した。
「2番目の人は感じ良かったよ。ちょっと怖そうだけど」と茜が言う。
「ふむふむ」亜佐美は聞いている。「3番目の人ね、タバコ吸ってるとおもう」と茜が言ったのでびっくりした。
「どうしてわかったの?」と亜佐美が聞くと、「指先がちょっと黄色かった」と茜が答えた。
やっぱり2番目の人かなと亜佐美も思った。最初の人は問題外で、最後の人は若すぎる。茜より小さな子が居るらしいが、子供は何が起こるかわからない。彼女の子供が病気になった時は自分の子供を優先するだろうと亜佐美は思った。
2番目の人は亜佐美の母の年齢に近かった。A社に勤める息子の転勤に夫と共に来たばかりらしい。震災で妊婦の嫁を失くしたこと、ご主人は元教員で引退したばかりということ、本人は小さな診療所で看護婦だったが今はもう医療の現場には戻りたくないとのこと。たいへんな時期を過ごしたのだろうとは簡単に予測できた。
亜佐美は「もう一度お話をしてみるわ」と保坂に言った。
そろそろかなと思って亜佐美がお茶の準備をしていると、伯父たちが到着した。
茜が玄関まで迎えに行き、伯父達がぞろぞろとリビングに入ってきた。
亜佐美は保坂を紹介だけすると、保坂は卒なく名刺を出して自己紹介を始めた。
皆に亜佐美がお茶を出すと入れ違いに茜がドリルを持って自室へ行ってしまった。
「この度は姪がお世話になるそうでよろしくお願いします」と伯父が言うと、保坂はこれまでの経過をかいつまんで説明し、「月曜日は東京本社に顔合わせに行っていただくことになりました。これが大体のスケジュールです」と印刷したものを伯父たちに渡す。
「亜佐美さんには今回の仕事を快く引き受けていただきました。何かとご迷惑をかけますがよろしくお願いします」と保坂はきっちりと頭を下げた。
「それとは別に、仕事以外にも亜佐美さんとは個人的にお付き合いさせていただいています」と保坂が言うと、伯父が立ち上がって「とりあえず一発殴らせてくれるか?」と保坂に詰め寄った。
伯母が伯父のズボンを握っている。祖母は成り行きを見守っていた。
「いえ、まだ殴られるようなことはしておりませんので。いずれその時が来たらやぶさかではないですが、今日はまだ理由が無い」と保坂は下から伯父を見上げきっぱりと言った。
伯父はしばらく黙って保坂を睨んでいたが、伯母に何度がズボンを引っ張られて仕方なく座った。
「保坂さん」と祖母が口を開いた。「亜佐美のことが心配なので単刀直入に聞きますが、小学2年生の子供が居て一人で育てているこの子をどう思われますか?屈託なくご家族に紹介できますか?特に保坂家は今で言うセレブのご家庭でしょう?そんな中でこの子が苦労するのを考えて頂いた上でのことでしょうか?」
「貴子さん、そういうことはまだ早いです。私たちは何もそんな・・・」と亜佐美が言いかけると、「亜佐美。じゃ、どういうつもりで保坂さんは私たちにお付き合いの承諾を貰おうとしてるの?単にボーイフレンドってことなら名乗る必要もないことよ?」亜佐美は言葉が続かなくなった。
「私は姪の茜ちゃんを育てている亜佐美さんを尊敬しています。将来のことも考え始めています。ですが、まだ知り合って2ヶ月少々しか経ってないので二人の間はそこまで育っておりません」保坂は言葉を続けた。
「それからお気を悪くされるかもしれませんが、会社と二条さんとの間には取引がありますので一般的な調査はさせていただいております。亜佐美さんと茜ちゃんの関係についても今はある程度のことは知っております」と保坂は言った。
「次兄は別会社に居りますので知るところではないのですが、父と長兄が本社に居ります。二人とは同じ情報を共有しております。逆に保坂の内情が二条さんに受け入れて貰えるのか心配していると思います」という言葉を不思議に思って保坂の顔を見た。
「兄二人とは異母兄弟になります。隠しているわけではないので身上調査をしていただくと普通にわかることです。まだ亜佐美さんには話したことがありませんが今日は私から直接お話しできるちょうど良い機会だと思います。兄二人は今の保坂の母の子供です。僕は父の愛人から産まれた子供です」亜佐美は驚いて保坂を見ている。
「生後間もないときに実母が亡くなり、父が引き取ってくれました。保坂の母が兄同様に育ててくれました。私は高校を卒業するまでそのことを知らずに育ったくらいです」誰もが言葉もなく保坂を見ている。
「茜ちゃんと女性が二人で暮らすところに男性の私が出入りすることがそのうちご近所の噂になるかもしれません。亜佐美さんの評判が悪くなるのは避けねばなりません。ですから今日は時期は早いのですが親代わりの二条さんご家族にご挨拶させていただきました」
口に出せるような状況ではなかったが、亜佐美は今日の保坂さんはとても凛々しくて格好良いなと思っていた。
しばらくして祖母が保坂に「健三さんはご壮健でいらっしゃいますか?」と聞いた。「祖父をご存知ですか?」と保坂が驚いて祖母に問うと、「ここの工場の土地の手配に一度お目にかかったことがあります。まだ私の夫も健在でした」と祖母の貴子が言った。
「はい。元気に過ごしております。もちろん足腰は弱くなりましたが、威厳だけは振りまいております。私たち兄弟は祖父に聞こえぬところで『クソジジイ』と呼んでおります」とニヤリと答えた。
それに祖母が笑い出し、やがて伯父も伯母も釣られて肩を震わせていた。「あの時代の人はしようがない。今とは時代が違うからな」と伯父が言うと、「そうなんです。保坂グループもたいへんな時代を迎えています。家族で力を合わせないと乗り切れそうにありません。そういうところに亜佐美さんを迎えるには、まず亜佐美さんに覚悟をしていただかなくてはなりません。私はそれを待つつもりです」保坂が静かにそういうと、伯父も祖母も黙って考えているようだった。
「とりあえず今日は近くの中華料理店に予約をしています。そろそろ予約時間になりますので、ご一緒していただけませんか?」と保坂が言うと、「茜を呼んでらっしゃい」と祖母が亜佐美に言って「中華は久しぶりなので楽しみだわ」と保坂に笑顔を向けた。