35 始動
家に帰って分厚い資料を読み始めた亜佐美は、その内容に驚いていた。
もうすでにかなりの部分が手配されている。保坂はいったい何時これを準備したのだろうか。
亜佐美が保坂の注文でお弁当を届けた時はまだ保坂の頭の中だけの構想だったはずだ。
保坂は他にも企画や開発を担当しているはずだ。そうだとしたらきっと保坂にはたくさんの優秀なスタッフが居るに違いない。
うかうかしていられないと思った。来週月曜日の本社での会議は顔合わせだと言っていたが、具体的な献立を作ったほうがいいと亜佐美は判断した。
その前に金曜日に工場の担当者とミーティングがあるのでその時に持って行こうと決心した。
就職したことのない亜佐美は企業での仕事の仕方がわからない。怖気づきそうになりながらも契約した以上やるしかないんだと言い聞かせて資料を読み進んだ。
いつの間にか茜の帰宅時間になっていた。
昼食を忘れて資料に没頭していた亜佐美は、茜とおやつを食べながら、「今夜、保坂さんがお夕食を食べに来ることになったよ」と茜に言った。
「うわ~、嬉しいな。ほっちゃんが来るのね。でも水曜日だよ、今日」
「そうだよね、いつも週末だものね。ただし、お仕事終わってからだから遅めだと思う。」
「そうなんだ」
「私たちはいつもの時間にお夕食にするからね」
「え~~?待たないの?」
「うん、待つと保坂さんが気にすると思うんだ」
「わかった。でも一緒にご飯食べられるといいなぁ」
「そうだね。あとで何時ごろになるかメールで聞いてみる」
これから亜佐美が保坂の会社の仕事をすることを茜に伝えた。
「保坂さんはお仕事の話もあっていらっしゃるのよ」
「茜とお話する時間あるかなぁ」
「それは大丈夫だと思う。茜が寝る前に来ればだけど」
それから亜佐美は来週から時々仕事で東京へ行くこと、その間は伯父の家族が交代でここに来てくれることを話した。そして、お手伝いさんが来るかもしれないと言った。
「これからずっとじゃないの。東京には数回だと思うし、工場のほうも来年になったら手が空くと思う」
「うん、わかったよ」
「『うん』じゃなでしょ?『はい』って言って」
「はい、わかりました」
「茜、3ヶ月ほどだけど忙しくなることごめんね」
「え~?なんで?謝らなくていいよ」
「今までみたいにのんびりとするのが良いんだけど、この仕事やってみたいの」
「うん、わかってる。あーちゃんがんばって!」
久しぶりに亜佐美は茜を抱きしめて「茜、大好き」と言うと、「私もだよ、あーちゃん」と言って茜は亜佐美の肩に顔を乗せた。
夕食までの間、茜はリビングで宿題をした。
保坂は早めに仕事を終わらせると連絡を寄越したが、それでも8時を過ぎるというので茜と二人で夕食を終わらせた。茜はお風呂も入って明日の準備も終わってリビングで計算ドリルに取り掛かっている。
そんな茜を見ながら、この子がもっとお勉強をしたいというならその環境を整えてあげたいと思う亜佐美だった。
「ねぇ、茜。もっとお勉強のドリルが欲しい?」
「うん。これが終わったらもう無いもの」
「じゃ、土曜日に買いに行こうか?」
「え?良いの?国語のも欲しいんだ」
「わかったわ。でもたくさんは買わないよ?算数と国語を一冊ずつだよ」
「うん。ありがとう。それと・・・」
茜はちょっと言い難そうだった。「何よ」と亜佐美が促すと、「えっとね。私、英語の勉強したい」
「え~~?英語?」
「うん。この前ほっちゃんにDVD借りたでしょ?あれ観てたら英語を知りたくなってきた」
「マジですか?」
「クラスの子も英語の勉強してる子も何人か居るんだよ~」
「そうだね。ちょっと考えても良い?」
「ほんと?ちゃんと考えてくれる?」
「うん、保坂さんにも相談してみていいかな?」と亜佐美が言うと、「うん、いいよ~。ほっちゃん、英語できそうだよね」
「あー、確かに、そんな感じかな」
と二人が話しているところに保坂が到着した。
茜が走って保坂を迎えに行った。相変わらず玄関ではなくリビングのほうのドアから保坂が入ってきた。
保坂は今日も疲れているようだ。目の下にうっすらと隈が出来ているのを亜佐美は見逃さなかった。
先に食事を勧めて、亜佐美と茜はデザートのプリンを同じテーブルで食べることにした。
茜と保坂が英語のDVDの話で盛り上がってるのを聞きながら、亜佐美は保坂にお茶を淹れた。
保坂は食事が終わると茜に、「茜ちゃん、亜佐美さんと一緒にお仕事をするようになったんだ。もう聞いてるかい?」と切り出した。
「うん、聞いた」と茜は答える。「茜、『うん』じゃないでしょ?」と亜佐美が言うと、素直に「はい、聞いてます」と言い直した。
「申し訳ないね。来週は東京で会議があるんだ。亜佐美さんにも出席してもらう」茜は頷いて聞いている。
「茜ちゃんを一人にはしておけないし、亜佐美さんも忙しくなって家のことができなくなるから、お手伝いさんに来てもらったらどうかと僕が勧めたんだ」
「はい、それも聞きました」と茜が言うと、「亜佐美さん、朝渡した履歴書持ってきて?」と言われて亜佐美は履歴書をまだ見てなかったことに気がついた。
「茜ちゃんも一緒に見よう」と保坂が言って、3人で履歴書を検討することになった。
「いいかい、茜ちゃん」と保坂が真面目な顔で茜に説明した。
「これはお手伝いさんの情報なんだよ。その人の個人的なことが書いてある。もしこの中で良さそうな人が居たら、実際会って話をして決める。でね、この情報は外で話しちゃいけないんだ。この3人だけの秘密だ」
「ひみつなの?」
「うん、そうだ。誰だって自分のことを自分の知らない人に話されたくないだろう?誰かに決まれば、たぶん茜ちゃんが一番長く一緒に居る人だから、今夜は茜ちゃんにも一緒に見てもらうんだ」
「はい、わかりました」
「よし!じゃ、この人から考えてみよう」と言って、一枚目の履歴書から3人で検討し始めた。
そうは言っても茜に全部を教えるわけではない。写真を見せるだけに止めた。
「亜佐美さん、面接はいつにする?」と言うので「土曜日か日曜日かな」と答えると、「土曜日の午後はどう?僕も同席できるし」と保坂がかって出た。
「え?良いんですか?」と亜佐美が言うと、「被災者だった人たちなので僕も慎重になっているんだ」と保坂は言った。
「それと、もう東北からの転勤は始まっているのでこれだけじゃないから。気に入らなかったらもっと候補者を持ってくる。気軽に面接してくれていいから」
「そうなんですか。会ってみないとわからないと思うので、、、、」と亜佐美が言うと、「僕と茜ちゃんは部屋の隅っこで見学してるから、面接は亜佐美さんにお願いしますよ」と笑いながら言った。
「僕が当人たちに連絡しようか?」と聞くので「私のお手伝いさんだから私から連絡しますよ」と亜佐美は答えた。
「あ、伯父のところに月曜日のお願いしなくちゃ」と亜佐美が言い出した。
「僕もお電話代わって貰って良いかな?」と保坂が言う。
亜佐美が伯父の家に電話をかけると、日曜日の夜から祖母の貴子が泊まりに来てくれることになった。保坂が合図するので携帯を渡すと、今までの経過を簡単に説明し月曜日の予定も伯父に話してくれた。
途中で欠伸をしている茜を寝室に連れていって寝かしつけ、ダイニングに戻ってみると保坂はちょうど伯父との電話を終えるところだった。
「はい、では土曜日の夕方に」と言ってから亜佐美に電話を代わった。
土曜日の夕方、伯父夫婦が祖母と一緒にここに来るということ。それから一緒に夕食を食べに行こうという話しになっていた。保坂も同席するというので、亜佐美は落ち着かなくなった。
「駄目だった?」と保坂が聞くので、「いえ、ちょっと恥ずかしいなと思って」
「伯父さんたちに?」
「はい、伯父たちにはまだ何も言って無いから」
「土曜日、伯父さんたちに言ってもいいよね?僕たちのこと」
亜佐美は何も言わないで、冷蔵庫からビールを取り出した。
「僕たち個人的なお付き合いだけじゃなくて、仕事も一緒にすることになった。ちゃんと話しておいたほうが良い」
保坂はビールを受け取りながら亜佐美にそう言った。
「亜佐美さんに僕たちが付き合っているという自覚がないなら、今ちゃんと言うよ。僕と付き合ってください」
ちょうど一口目のビールを飲み込む時で、亜佐美は思わず咽てしまった。
「酷いなぁ。人が真剣に申し込んでいるときに。ビールを喉に詰まらせるだなんて信じられないよ」と保坂が笑って言ったので、亜佐美は救われるような気がした。
シリアスに言われたら照れてしまってまともに顔を見ることができなかっただろう。
「だって、ちょうど飲み込もうとした時に言うんだもの(笑)」亜佐美も照れ隠しに笑いながら、「伯父たちにはっきりと言っておいたほうがいいですよね」と言うことができた。
「うん。僕はそうしたい」
「ありがとうございます」
「急に改まってなんだい」
「ううん。やっぱりはっきりと言ってもらってなかったから、ちょっと不安でした」
「そうなの?」
「そうですよ。女のほうからは確かめ難いですし」
「そっか。ま、そうだよな。これからは気をつけるよ。亜佐美さんも言いたいことがあったら何でも言ってください」
というので、「わかりました、では早速!」と言って亜佐美は会議の資料をダイニングテーブルにドンと置いた。
保坂は「え?」と言葉に詰まって亜佐美を見ると、亜佐美は「工場のスタートは新年早々です。私が東京の会議に行く回数も少ないので、一度で効率よく準備していかないと間に合いません」と言った。
「とりあえず、金曜日にこちらの工場でミーティングがあります。その時までに私もこれを把握しておかねばなりません。ですからちょっとお付き合いください」と張り切って言い切った亜佐美に保坂はニヤリと笑って打ち合わせを始めた。