34 秋の夜2
ワインをもう一口飲むと、亜佐美が突然口を開いた。
「保坂さん、食堂の業者のほうだけど」
亜佐美はまだ食堂について考えていたようだ。
「契約更新は年末だよね?」
「うん、そうだよ」
「じゃそろそろ交渉の時期なんだね。あのね、業者の社長さんにこう言うのはどうかな?」
亜佐美のストーリーはなかなか面白かった。
その会社を買収したいと社長に言って、会社を手放すかそれとも自分の会社を手放す意思がないなら契約解除かその社長に決断をさせろということだった。
従業員はA社で引き取るし、希望であれば辞めてもらっても良いと提案すれば良い。
会社を買えばその後はA社でどうにでもできるし、売らないならそのまま引き上げてもらって、1月までにA社でスタッフを構成して運営すればいいじゃないというのが亜佐美の意見だ。
東北工場の人が転勤し難いのは家族の問題が大きいだろうから、家族の仕事まであるとなれば生活ももっと楽になると考えるだろう。実際若い夫婦は共働きでないとやっていかれないだろうから、夫婦共に働く環境があると知れば転勤話も少しはスムーズにいくはずだと言う。
亜佐美はこうも言った。「代々住み慣れた土地を一時的にも離れるのは、移動先に希望がないといけないんじゃない?離れてしまうと情報がなくなるという不安もあるだろうから、役所にも連携とってもらって、以前のところからの報告や連絡事項を遅滞なく届けてもらったり、ご近所さんだった家族との連絡網も作ったほうがいいし・・・」
「それから、また食堂の話に戻るけど本社や他の工場も全部委託なの?」とも聞いて来た。
「A社の新卒採用予定は?」とか「新たに借入れとかするんだろうな」ともブツブツ言っていた。
「あぁ、駄目だ。私の脳みそはもうオーバーヒート寸前だよっ」と最後に亜佐美はそう言って深く息を吐き出して保坂を見た。
「保坂さん、毎日こんなこと考えてるの?」
「うん、そうなんだ」
「他にも新しい商品がどうのって言ってるよね」
「うん、そうなんだよ」
酔った亜佐美の目が濡れたようになって保坂はドキっとした。亜佐美を喜ばせようとして、「うちの工場の食堂だけど、業者を買収ってことはちょっとだけ考えたこともあったけど、買うか引き上げるか社長に選ばせるというのは考えてなかったなぁ。これは採用させてもらうよ?」
いきなり亜佐美の目が輝いた。「ほんとう?」「こんな私でもお役にたてたかな?」とはしゃいでいる。
「社員食堂のことは手伝ってもらえるかな?」と保坂が言うと、「もちろんよ~、できるだけのことはさせて下さい」と亜佐美が答えた。
「時期がきたらちゃんと正式に仕事として依頼するからね」
「はい、楽しみに待ってます」
「ただ・・・」と保坂が続けた。
「巻き込んでしまって悪いね」
「そんなこと」
「仕事の話を聞いてもらうのが悪いなと思うときあるんだよ。でもあなたは物事をよくわかってるし、とても素晴らしい発想をするときがあるんだ」
「そんな・・・」
「あなたに話すと元気をもらったり、解決の道がみつかったりするんだ。魅力的な人だ、あなたは」
「保坂さん・・・」
二人はしばらく黙って見詰め合ってたが、やがて保坂が「お暇するよ」と立ち上がった。
「もっと会う時間が欲しいな。迷惑じゃない?」と聞く保坂に、首を横に振る亜佐美。
「そうだ、今度は僕の部屋に遊びに来てくれる?何かご馳走するよ」と言うのでびっくりしてしまった。
「お料理できるんですか?」と聞く亜佐美に、「サラダとパスタくらいは作れるさ」と保坂は笑って言った。
お手並み拝見とばかりに「うふふ、それは楽しみ!」と笑っている亜佐美の腕に手を伸ばし、保坂はそっと引き寄せた。
急に引っ張られた亜佐美は保坂の厚い胸に閉じ込められた。
ちょうど頭のてっぺんに保坂の顎が乗っかったようだ。上から保坂の声が聞こえてきた。
「今日はありがとう。美味しいグラタンだった。ワインも美味しかったよ」
亜佐美は心臓がドキドキして飛び出しそうだったが、「また時々寄ってください」とだけ何とか言うことができた。
「僕は、あなたのことが好きだと言ったけど・・・」と言うので亜佐美はコクンと保坂の胸の中で頷いた。
「あなたは僕のこと、好き?」
さらに心臓がドキドキしたけどもう一度亜佐美は頷いた。
「キスしてもいい?おやすみのキス」と言うので頷くと保坂との間に少し隙間ができた。
寂しく思って保坂の顔を見上げると、保坂の顔がゆっくり近づいてきた。
「僕のこと好き?」ともう一度聞いたので頷くと、「言ってみて」と言われた。
保坂の唇がもうそこまで来ている。亜佐美はその唇が欲しくて「好き・・です」と言った。
大人のキスだった。本格的なキスにくらくらしながら、なんとか「おやすみ」と言って保坂を見送った亜佐美はしばらくリビングのソファに座り唇に指を当ててぼんやりしていた。
一方保坂は亜佐美に好きと言わせて満足していた。ただ、仕事が立て込んでいて自分の時間がままならない。亜佐美と会う時間をどう作るか考えていた。
亜佐美と過ごす時間は楽しいし、何よりも癒される。彼女の笑顔をもっと見たい、あの柔らかい唇をもっと味わいたいと思うのだが、プライベートな時間を取るには工夫が必要だった。根本的に仕事のやり方を変えなくてはいけないのではないかと保坂は思い始めた。
それからも二人はほとんどメールと電話の日々が続いた。
保坂は本社と工場を行き来している。やがて社員食堂の新プロジェクトを始めると亜佐美に連絡があったのは秋も半ばのことだった。
結局委託業者は買収に応じずに年末で撤退することになったらしい。
東京本社に本部を置き、新年からさっそく稼動できるように準備をする。まずこの工場でスタートして徐々に全国の支店や工場の食堂を直営に変えていくと保坂は言っていた。
亜佐美の仕事はその食堂での献立を考えることだ。社員が食堂を利用したいと思うようなメニュー構成にしなければならない。
東京本社で行われる会議のいくつかに出席してもらわなければならないと保坂は亜佐美に言った。
しばらくは一緒に仕事ができると二人は喜んでいたが、実際に食堂が稼動する頃には保坂の手からプロジェクトは離れてしまう。それに推薦者の保坂に恥をかかせるわけにはいかないので亜佐美はかなり頑張らなければいけないと思った。
同時に亜佐美が東京での会議に出席する場合、茜のことが心配だった。
早朝に出発する場合もある。帰宅が遅くなる場合もある。とりあえずは伯父の家族に交代で頼むしかない。伯父や伯母も協力してくれるとは言っているが度重なると甘えてばかりもいられないと亜佐美は思った。
そのことを電話で話したときに保坂に漏らすと、保坂は少し考えて「そのうち提案しようとは思っていたのだけど、お手伝いの人を頼んだらどうだろうか」と言った。
「お手伝いさんを?」と考えても見なかった話なので亜佐美は驚いた。
「うん。亜佐美さんの家、結構広いよ?それにこれからしばらく忙しくなるし、そうそう亜佐美さんが家の隅から隅まで掃除できないと思うけど?」
「う~ん。確かに真剣にお掃除するとかなりたいへんだけどさ」
「ちょうど東北から赴任してくる人たちの家族で、通いで来て貰える人を探すのはどうだろうか。家族と言っても若夫婦だけじゃなくてその親たちも一緒に引っ越すケースもあるんだしね。年配の人に来てもらったほうがいいんじゃないか?」
「う~~ん」亜佐美は唸りながら考えている。
「時間のある今のうちにちょっと試してみて、亜佐美さんと合う人だったら継続して来てもらえば忙しくなった時にも安心じゃないかな」
「そうだね、そうしようかな」もともと掃除や洗濯が好きだとは思わない亜佐美なのでもし良い人がいたらと思ってしまった。
「じゃ、現地に問い合わせておくからね」と言うことで、募集のほうは保坂に任せてしまった。
「それと、亜佐美さんと会社間で契約をしないといけないので時間とってもらえるかな?」と保坂が言った。
「はい、わかりました」
「来週、水曜日の午前中はどうかな?」と言うので時間を決めて電話を切った。
いよいよ仕事が始まるんだと亜佐美は少しばかり気分が高まるのを感じた。
約束の水曜日に保坂の工場を訪れると会議室に通された。
すぐに保坂が弁護士を伴ってやってきて説明を受けた。理解できないことは素直に訊ね、納得したところで亜佐美は契約書に署名と押印をした。
熊澤弁護士と紹介された初老の男性は、亜佐美の質問にも丁寧に答えてくれ亜佐美はほっとしていた。
「あなたが二条さんのお嬢さんですか。先日は伯父さまにお目にかかりお世話になりました」と熊澤弁護士が言ったので、「土地の件でしょうか?こちらこそ有難うございます」と亜佐美もお礼を言った。
その後は保坂と工場での担当者を交えて打ち合わせをした。亜佐美は東京での分厚い会議資料を渡されて説明を受けた。
担当者が「二条さん、明後日金曜日にもう一度来社していただいてよろしいでしょうか?同じ時間に来ていただいて、資料の不足分を話し合いましょう。その後昼食はここの社員食堂でご一緒してください。月曜日は東京で会議になります。それも大丈夫でしょうか?」と言ったので、亜佐美は「わかりました」と答えた。
保坂は途中で何度か中座していたが、担当者との打ち合わせが終わると駐車場まで送ってくれた。
「これ、お手伝いさんの候補者です。目を通して置いてください」と言うので、「もうですか?早いですね」と亜佐美が驚いていると、「今夜仕事が終わってから家に寄ってもいいですか?」と保坂が聞いた。
「じゃ、軽くお夕食を・・・」と亜佐美が言うと、「楽しみにしています。後で話しましょう」と丁寧に見送ってくれた。