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ハンカチの木  作者: Gardenia
第四章
34/67

33  秋の夜1

それからの保坂はほんとうに忙しいようだった。

夏休みも終わり茜は二学期が始まっている。

朝は茜の見送りに門まで出ると保坂の姿を見かけることもあった。そんなときはお互いにおはようと挨拶するだけで、茜が保坂と途中まで一緒に歩くのを見送るだけだ。

相変わらず数行のメールを送ってくるか、遅い時間に電話で話すことが二人の日課になっていた。

出張も多く、土曜日か日曜日のどちらかは出勤しているようだ。

保坂はたまに亜佐美のブログを観るようになっていて、亜佐美の日常はだいたい知っていた。

亜佐美は打診されている仕事の依頼や茜の勉強のことを相談したり、保坂は時々仕事で起こった話を面白く亜佐美に話して聞かせたりしていた。


そうやって何日か過ぎ、ある日の夜、いつものように保坂は仕事が終わってから亜佐美に電話をかけてきた。

「保坂です」

そういった声がやけに疲れているように聞こえて眉を顰めた亜佐美は、「まだお仕事しているのですか?」と保坂に聞いた。

「いや、今終わってこれから会社をでるところです」

「今から走ると終電には間に合うでしょうね」と辛辣に言うと

「ん~、今日は早いほうでしょ。まだ10時過ぎだ。終電にはまだまだ余裕です」と保坂が返した。

「お夕飯は?」と亜佐美が聞くので、「途中で何か食べますよ」と答えると

「電車から降りたらうちへ寄ってくださいな」と亜佐美が言った。

「その分じゃお夕食はまだでしょ?簡単に用意しておきますから寄ってください」

「いや、もう遅い時間だし・・・」

「何言ってるんですか。どうせ朝はコーヒーとパンで、お昼はコンビニでしょ?この時間はもう定食屋さんは閉まってるので、よくて居酒屋ヘタするとまたコンビニ弁当じゃないですか?」

「何にするか電車のなかで考えますよ」と曖昧に逃げようとしたが、いつもと違って亜佐美が強く勧める。

「私たちはもうとっくに夕食が終わってるので簡単なものしか作りませんよ。それに私の作るのはそれほど美味しいってわけじゃないですけどね」

「いや、絶対に美味しいです」

「じゃ、寄ってください?」

保坂は観念して「はい。もう会社でましたから。次の電車に乗ります」と言うと、「じゃ、お待ちしてます。私は準備があるのでこれで」と言って亜佐美は一方的に電話を切ってしまった。


保坂は手に持っていた携帯をまじまじと見つめてしまった。

亜佐美は時々急な思いつきで行動してしまう。

保坂の話を聞いている時でもそうだが、時々とんでもない発言や発想をして保坂を驚かせることがあった。

今も急にご飯に誘った自分の案に気をよくして、嬉々として料理を作っていることだろう。

そんな亜佐美の姿を想像し、盛大に口の端が持ち上がってしまった保坂だ。

駅に到着するとちょうどタイミングよく待たずに電車に乗ることができた。

そして亜佐美が「お疲れさま」と迎えてくれたときは、久しぶりにほっと気が緩むのを感じた。


リビングには良い匂いが漂っていた。

「今日はグラタンだったの」と言ってキッチンに行こうとする亜佐美の背中に手を伸ばして引き寄せてしまいそうになったが、保坂は思いとどまった。

まだ仕事モードから完全に離れてはいなかった。今日はあまり良い一日ではなかったのだ。

嫌な空気を亜佐美に移したくなかった。

保坂は上着を脱いでダイニングの椅子に掛け、シャツの袖を折り返して手を洗いに行くことにした。


洗面所から戻るとダイニングには夕食の準備が整っていた。

保坂が席に着くと、亜佐美がオーブンから皿を取り出して「マカロニグラタンよ」と自慢げに置いた。

「熱いから気をつけて食べてね」と言われたが、かまわず一口食べてみる。

「熱っ」と保坂が言うと、「だから気をつけてって言ったのに」と亜佐美が笑っている。

「うちはマカロニグラタンというと具はマカロニだけなの」と亜佐美が説明する。

「う~ん、これはこれでシンプルで美味しいな」と保坂が言うと、「でしょ?その代わりサラダとか他のも作ったから」と言って、他のおかずも勧めた。

「で、今夜はこれどうかな?」とワインを取り出して見せた。

「明日も仕事と言うのはわかるけど、一杯くらいならいいんじゃない?」と言ってワイングラスを2個テーブルに置いた。

「どれ、かしてごらん」と保坂がワインを受け取って栓を抜いた。

「あ、やっぱり慣れてるわね。私はどうもまだオープナーの使い方がイマイチだわ」と言って亜佐美は自分のグラスを差し出してくる。

ワインを注ぎながら「グラタンに赤ワインは合うよ」と保坂が言うと、「よかった、私もそう思ったの。覚えておくね」と亜佐美が笑った。


保坂がグラタンを食べ始めると亜佐美はリビングに行き、音楽CDを換えた。先ほどまでは軽いPOPだったのに今度はボリュームを絞ってカンツォーネだ。

戻ってきた亜佐美は小さなガラスに入ったキャンドルをテーブルの中央に置いた。

「野菜も食べてね」と笑いながら言う。

小さなお皿にオリーブオイルとバルサミコ酢を注ぎ塩と胡椒を振り掛けて、切ったバゲットの横に置いて保坂に勧める。

亜佐美はゆっくりとワインを飲んでいる。保坂もワインを飲みながら勧められたものを黙って食べていた。


亜佐美がこういう食べ方はどうやって知ったのだろうか。イタリアのワインにカンツォーネ、冷えたサラダには珍しい野菜、バゲットの洒落た食べ方。美味しい前菜の数々にキャンドルだ。

急に保坂の胸にどす黒いものが湧いてきた。誰か他の男とこういうデートをしたのだろうか?亜佐美はまだ若い。きっと年上の男のほうが洒落たレストランにでも誘って口説いたことがあるのだろう。


「亜佐美さんはほんとお洒落な料理を作るなぁ」無意識に言葉が出てしまって保坂はぎょっとした。強い調子で言ったわけではなかったが、亜佐美が気分を害さないか心配だ。

「あら、ほとんどはブログで見たんですよ~」亜佐美はニッコリ笑いながら言った。

「友達のブログとかお料理サイトで、こういうお洒落な写真がたくさんあるものだから」

「そうなんだ」

「実際に食べに行きたいけど、夜は出かけないし、お昼だっていろいろすることがあるのでお洒落な店に行くことないですもの」

保坂はほっとしていた。

「それに今日はJAに行ったので珍しい野菜ももらったからラッキーかな」

「あぁ、JAの献立の仕事だったね。まだ続いてるの?」

「はい。月に一度ですけど楽しくて」

ワインをそれぞれのグラスに注ぎ足していると、亜佐美は保坂の食べ終わったグラタンとサラダの皿をキッチンに持っていった。

バゲットと前菜を彩りよく並べ替えてそれをつまみながらワインを一口飲んだ。


「今日はちょっと仕事の話、聞いてもらって良いかな?」保坂が言うと亜佐美は小さく頷いた。最近は電話でも時々仕事の話を聞いてもらうのだ。回答がなくても誰かに聞いてもらうだけでよかった。

「お弁当を届けてくれた時にうちの社員食堂を見てもらっただろう?」

「はい」

「今ね、地元の業者に委託してる。これはもう話したよね」亜佐美は頷いて聞いている。

「毎年、年末に来年の分の契約更新をするのだけど、今度の更新を迷ってるんだ」

「他の会社にするってこと?」

「いいや、自社でやろうかと思って」

「ああいう食堂って業者にやらせたほうが安いんじゃない?」

「うん、まぁ、確かに。人材の確保や管理こともあるし地元の業者を使うってのも大事なので、今までそうしてきたんだけどね」

「迷ってるんだ?」

「うん。業者の社長にそれとなく打診してみたんだけど継続してやりたいって言うんだよ」

「やっぱり仕事切られたくないよ、社長は」

「そうなんだけど、うちの事情もあるし」

「東北工場の人たち?」

「それも大きな原因だな。被災者をなるべく安全な場所に移して仕事も与えて、暮らしを安定させたいんだけど、家族で引越しとなるといろんな問題があるらしくて。なかなか転勤をOKしないんだ」

「それはそうでしょうね。もちろんすぐにOKする人もいるだろうけど、したくないって人も多いだろうな」

「そうなんだ。交渉事が多くて。今日は食堂の業者の社長に粘られて参ってたところだった」

「それで元気がなかったのね」亜佐美は笑いながら保坂にワインを勧めた。


しばらく二人とも黙ってワインを啜っていたが、亜佐美が突然言い出した。

「保坂さん。いくら優良な大会社とはいえあの地震の影響は大きいでしょ?」

「それは・・・ね。もちろんたいへんな被害なんだ」

「だろうと思ったわ。こっちの工場の拡張工事だけでもたいへんなのに、全国規模だろうし」

そう言ったまま亜佐美はまたしばらく黙った。

沈黙は苦痛ではない。ワインのせいで少し赤くなった頬をした亜佐美の表情を見るのが楽しかった。

保坂もまた黙ってワインを一口飲んだ。

思いがけず長い夜になりそうだったが、電話だけでなくこうやって逢うことが嬉しい夜でもあった。






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