31 夏の日々
亜佐美がお弁当を配達した日の夜、保坂は仕事の帰りに亜佐美の家に立ち寄った。
「もう、遅いからここで」と入り口で立ったまま保坂はお弁当の代金が遅くなったことを詫びた。
「あの時は時間がなくて焦っていたものですから、すっかり失念していました」とぴったりの金額を封筒にいれて渡してくれた。
「いかがでしたか?あれでよかったでしょうか?」と亜佐美が聞くと、「メールにも書きましたが、大好評でした。もう少しリサーチをして企画書を作るつもりです。秋ごろになりますが、少しお待ちいただいてもよろしいですか?」
「はい、それは構いませんが。保坂さん?」と亜佐美は少し首を傾けて保坂を見上げ睨んだ。
「はい?なんでしょう」と保坂が応えると、「また敬語です」と言ってクスクス笑った。
「あ、仕事の話でしたからね。でも今から敬語は止めます。できるかぎり」
「なんか言い分けっぽいです(笑)」
保坂の口の端が持ち上がって「敬語は僕のデフォですからね。頑張りますけど、イマドキの若者のようなタメ口とかは無理ですから、僕は」と宣言した。
「はいはい、頑張ってください」と亜佐美が言って笑っていると、「あ、ほっちゃんだ。こんばんは」と茜が気がついて外に出てきた。
「茜ちゃん、こんばんは。遅くまで起きているんだね」と保坂は茜に話しかける。
「お昼寝したから眠くないのよ。でももう寝る準備はしてるけどね」と得意そうに言った。
「あ、そうだ、かなりドリルやったんだよ。一度見てみる?」と保坂に言うと、保坂は「もう今日は遅い時間なので週末でいいかな?」と茜に聞いた。
「ほんと?やったぁ!土曜日?日曜日?」と言うので「茜、保坂さんはお忙しいから無理言ちゃだめ」と亜佐美が嗜めた。
「う~~ん、今のところどちらになるかわからない。明日にでも亜佐美さんに連絡するよ。それでいいかい?」と茜に言っている。
「はい、楽しみ~~」と茜が喜ぶのを見て、亜佐美は保坂に「すみません。ご無理しないでくださいね」と言った。
「僕も楽しみであるんだから、大丈夫です。それにちょっと勉強をみてあげたいし」
「じゃ、無理のないようでしたらお願いします」と亜佐美が言った。
保坂はそんなやりとりを思い出しながら夜道を部屋まで歩いて行ったが、自然に口元が綻んでいる。
以前は仕事のことばかり考えながら歩いていた同じ道を、今は亜佐美や茜のことを思い出して歩いている自分に気がついた。
と、同時に、自分はいったいどうしたいんだろう。どういう人生を作り上げてゆくのかゆっくり考えてみないといけないなと作戦好きの保坂は思った。
茜はお天気のよい日は学校のプールに通っていた。行き返りを一緒にする友達も出来たようだ。勉強も頑張っている。どんどん知識が増えていくのが楽しいらしい。
亜佐美はJAの仕事を終わらせて、女子大生に頼まれたおデート用弁当を作ったり、女子高生のためのお菓子作り教室第二弾などを楽しくこなしていた。保坂からもお弁当についての感想も届いたが企業の分析とは凄いものだとそのレポートを読んで感心していた。
社食の献立作りはまだ先になることもあって亜佐美はいまのところ情報を集めるだけにしている。
毎日のように保坂とはメールか電話で話している。少しずつ言葉も敬語がなくなってきて、気軽に話せる友人同士のように話せるようになってきた。
あるとき、亜佐美は夏休みの間に茜をちゃんとしたレストランに連れて行く計画があるのを保坂に話した。すると保坂も参加したいと言う。
お盆休みは保坂は実家に帰って過ごし、亜佐美と茜はお墓参りと伯父の家に行っていた。
保坂は休みが終わってこちらに戻るときに実家に置いていた車を運転して帰ってきていた。レストランに行くときはお迎えに行きますという。亜佐美も最近は遠慮がなくなって、「じゃ、お願いします」ということになった。
どのレストランが良いのかも二人で相談した。テーブルクロスを使ってる店で、でも比較的カジュアルなフレンチレストランを選んだ。場に慣れる練習でもあるということで個室ではなく一般席を予約する。お店のほうには9歳の子供を同伴してもいいかと予め伝えると、もちろんでございますということだった。
もう夏休みが終わりに近いある週末、いよいよ茜をレストランに連れて行く日が来た。
亜佐美は茜に東京のデパートで買った服を着せ、自分も少しお洒落して保坂の到着を待っていた。
時間通りに現れた保坂は、スーツではなく品の良いブレザーを着ていて茜が思わず「ほっちゃん、カッコ良いね」と亜佐美に同意を求めるように言って手を引っ張った。
保坂は小さな花を二つ持ってやってきた。一本はミニチュアの向日葵でそれは茜に、亜佐美にはスイトピーを数本束ねたものだ。男性に花など貰ったことがない二人はそれだけで有頂天になってしまう。大急ぎでキッチンに行くとグラスに水を入れて花を挿した。
保坂の車は大きなRVだった。ドアを開け、茜を手伝って後部座席に乗せた保坂は、「そのパネルでTVやDVDが観られるようになってるから」と操作をしてディズニーの映画をスタートさせた。
茜は「凄いね!ありがとう」と言って喜んでDVDを観始めた。
「さて、亜佐美さん。こちらへ」と言い、助手席のドアを開け亜佐美を座らせる。
その後も和やかに亜佐美と話をしながら実になめらかな運転だった。
レストランに到着した後もさりげないエスコートで気を配り、さすがの亜佐美もこの人はこういう場面にすごく慣れているんだと気がついた。
茜にプレッシャーを与えないほうが良いということで、ちょっとお洒落なレストランに行くからねと言っただけで情報を与えることなく連れてきた。
ナイフやフォークが並んでいて緊張するかなと思っていたが、茜はそれほど気にならないようだ。料理が運ばれてくると目を見開いて嬉しそうな顔をしてから食べ始めた。
食事中、3人はお盆休みの出来事を話した。先ほど車内で茜が観ていたDVDは兄の子供たちから借りたことや、保坂の以前の車は小さい車種だったので、今回家族に交渉してRVと交換してもらったことなどを聞くと、あの豪華なRVとトレード出来るほどの小さい車っていったいどんなのだ?と亜佐美は思ったが、知れば心臓に悪いような気がして小さな疑問は胸の中に仕舞っておくことにした。
茜は水泳で30m泳げるようになったことや、プール通いで出来た新しい友達の話をした。
亜佐美はスーパーのチラシ用の料理撮影の話を保坂に聞かせた。
デザートも食べてしまうと動くのが億劫になるくらいお腹が一杯になった。
「じゃ、少し散歩してから帰りましょう」と保坂は途中のショッピングセンターで車を停めた。ガラス越しに店を覗きながら先に歩く茜を見ながら、保坂と亜佐美はその後をゆっくりと歩く。
「先ほどはご馳走さまでした。私が出そうと思っていたのに・・」と亜佐美は保坂にお礼を言った。レストランで会計をしようと思ったら、いつのまにか保坂が支払いを済ませていたのだ。
「今日は僕に良い想いをさせてください。素敵なレディー達にご馳走できるのは喜びですから」保坂はニコリと微笑んでキザなことを言う。
「でも、いつも気にかけてもらってばかりで・・・」と亜佐美が恐縮しているので、「では、こうしませんか?」と保坂が提案した。
「今度、亜佐美さんの作った料理を食べてみたい。だめですか?」と言う。
「え?そんなのでいいんですか?」と亜佐美が答えると、「亜佐美さんのお弁当美味しかったですよ。毎日仕事してると他に楽しみないですからね。時々あのお弁当を思い出して食べてみたくなるんですよ」と保坂が言った。
「わかりました。保坂さんのお好きなものを作りましょ!」と亜佐美は笑いながら請け負った。
保坂の運転での帰り道、茜がやけに静かだと思ったら後部座席で寝てしまっていた。
家に到着して起そうと思っていると、保坂が茜を部屋まで運ぶと言ってくれた。
保坂が茜を抱き上げたので、亜佐美が玄関を開け茜の部屋まで案内する。
「ほんとうに有難うございました。私一人だったら無理でしたので助かります」そうお礼を言って、「お茶でもいかがですか?」と保坂に聞いた。
保坂が「いや、今夜はもうこれで失礼します」というので再び玄関に向かった。
玄関には脱いだ靴がそのままになっていたので、亜佐美は保坂の靴をそろえて立ち上がると、すぐ近くまで保坂が来ていたので驚いてよろけそうになった。
保坂はとっさに亜佐美の腕を掴み、もう一方の手で亜佐美の腰を支えた。
亜佐美が一人で立てるようになっているにも関わらず、保坂はしばらくそうしていた。
「亜佐美さん」と保坂が小さな声で囁く声が亜佐美の頭の上から聞こえる。亜佐美は返事はできなかったが身じろぎをして声のほうに顔を向けようとすると、「いや、そのままで」と保坂が言った。
「今夜の貴方はお洒落をして、とても素敵です。これで帰らなければ僕は・・・」最後まで言わなかったが亜佐美はその意味がわかって緊張してきた。
「亜佐美さん」保坂がつぶやくように言った。今度は亜佐美は顔を上げて保坂を見た。
ゆっくりと保坂の顔が近づいて、保坂の唇が亜佐美の柔らかい唇に重なってすぐに離れた。
保坂の顔が近づいている間に亜佐美は拒むこともできたはずだ。でも亜佐美はそうしなかった。
保坂が「おやすみなさい」と言ったので亜佐美も「おやすみなさい」と言ったが、声が掠れて聞こえたかどうかはわからない。
靴を履いてドアを閉めるとき、保坂は鍵を指差して「鍵閉めてくださいね」と言って亜佐美が頷くのを待っていた。
やがて扉が閉まり亜佐美は言われたとおり鍵を閉めた。保坂はその音を確かめてから車に戻った。
とうとう保坂はガマンできなくて亜佐美にキスしちゃいました。ようやくです。