27 保坂のお願い
いつの間にか明日、保坂さんが来ることになってしまった。
どうしようかと思う。思うが何も思いつかないので、とりあえず朝はお菓子のレッスンに向き合おう。
それから考えるしかないなと思い至ると、亜佐美は眠ることにした。
一夜明けて翌朝は茜をアシスタントにレッスンの準備をする。
以前に焼いたパウンドケーキを冷凍室から一個出して置いた。これはレッスンが終わったら皆で食べるつもりである。
クッキーは一種類しか焼かないので、お土産用に種類の違うクッキーを小袋に入れラッピングする。
いかにも女の子の喜びそうなラッピングに茜も楽しそうだ。
女子高生が来たときは茜に迎えに行ってもらった。リビングの入り口から入ってもらい、ダイニングやキッチンを見て回った後、早速クッキー生地からとりかかった。
3時間があっという間だった。それぞれ焼いたケーキやクッキーを大事そうに抱えて少女たちは帰っていった。
材料や焼き型の選び方や、オーブン取り扱いの注意など初心者に教えるにはエネルギーが必要だった。
茜も少々疲れたらしい。二人で無言で簡単な昼食を済ませて、キッチンを片付けると少し横になることにした。
リビングのソファーでだらしなく転がって天井を見ていたら、ふいに保坂が来ることを思い出し亜佐美は横で同じように転がってる茜に、「どうしよう、茜、5時だよ、5時!!」と話しかけた。
「何?あーちゃん、5時がどうしたの?」
「今日ね、5時に保坂さんが来てお仕事の話をするって言うの」
「え~~~?何でまた」
「いや、よくわからない。よくわからないから説明しに来るって」
「あーちゃん、携帯は?」
「ん?ここだよ」
「4時にアラームセットして」
「は~い。4時ね。おっけ」
「じゃ、4時までは転がってよう」
「あっ」
「今度は何?」
「保坂さん、一緒にお夕飯食べに行こうって言ってた」
「え~~?でも、楽じゃん。今日は疲れたから外食がいいってあーちゃんが言うはずだからちょうどいい」
「ん、そうだね」
と話しているうちに二人はだんだん口数が少なくなって眠ってしまった。
アラームがなる前に亜佐美は目が覚めた。昼寝にしては眠り過ぎてしまったが身体は軽くなっておりそのままシャワーを浴びるて身支度を整えた。
リビングとキッチンを片付けるともうすぐ5時だった。どのような話になるのだろうか。
茜には仕事の話のときは自室に居るように言い聞かせた。
応接間に案内しようか迷ったものの、お弁当の注文でもあるし他の注文者と同じようにリビングに通すことにした。
到着した保坂を茜が迎えに行き、リビングに案内した後は「宿題してるから終わったら呼んでね」と言い残して自室に行ってしまった。
保坂は改めてリビングやダイニングを見渡して、「こういうお部屋だったのですね。前回は熱のためにあまり覚えていないんですよ」と亜佐美に話しかけた。
「あの時の風邪があまり長引かずに良かったですね」と答えながら、すでに印刷しておいた保坂とのメールの紙を手に取ってダイニングへと保坂を促した。
亜佐美のダイニングテーブルは時としてミーティングテーブルになる。
リビングのローテーブルより話しやすいからだ。
保坂は名刺を取り出して「ご挨拶が遅れました。私、こういう者です」と亜佐美に手渡した。
亜佐美も最近綾瀬のアドバイスで作っておいた名刺を取り出す。
「この度は、私のお弁当をご検討いただき有難うございます」
お互いにお辞儀をしてから顔を見合わせてどちらからともなく笑ってしまった。
保坂の笑う声を久しぶりに聞いたと亜佐美は嬉しくなっていた。人の笑う声がこの家に響くのは良い感じだと思う。
「二条さんが仕事の話をきちんとできそうな人で助かりました」と保坂が言った。
「出来そうな人って・・・」と亜佐美が笑いながらつぶやくと、「それはまだ一緒に仕事したことがないのでわかりません。これからです」と保坂が答えた。
「では」と印刷用紙を前に亜佐美はお弁当の打ち合わせに入った。
メールで保坂の回答をリストにしておいたので、ひとつづつ手短に確認していく。
11個のお弁当を保坂の出勤にあわせて作り上げることも可能だが、運搬の問題もあり、保坂の目的によってはその時間でいいのか他に適当な時間があるのかが亜佐美の一番の気がかりだった。
亜佐美はリストの余白に気がかりなことをすべて小さな字で書き込んであった。
結局、その日は亜佐美がJAに打ち合わせに出る日なので、そのついでにお昼前に保坂の工場に届けることになった。工場の門には守衛が居るのでその者に僕の名前を言ってくださいと保坂が言った。
「お弁当の内容なのですが、みんな同じでいいのでしょうか?それとも何種類が作りますか?」と亜佐美が聞くと、「どうして違うお弁当が必要だと思いますか?」と保坂が逆に聞いた。
亜佐美はちょっと考えてから思い切って言ってみた。「保坂さんが皆さんの慰労のためにお弁当を用意するからということでしたが、どうもそれだけじゃない気がします。何か意味があるんじゃないかって」保坂は黙って聞いている。
「私のほうは同じ素材で2~3種類違うものを作れますので、もし同じお弁当じゃないほうが良いというのでしたら、作ることが可能です。」これから先は保坂の発言を待ちたいと亜佐美は思った。
保坂が口を開いた。「では、うちのスタッフ用の構成から、女子用が3個、若者男子用が6個、そして少し年齢の高い人用が2個。内容を変えてもらって作っていただけますか?」と聞いたので、亜佐美は「わかりました。大丈夫です」と答えた。
「さて、ここからが本題です。と言ってもそれはあくまでもこちら側の本題なのですが、このお弁当とも関係してきますからとりあえず聞いていただけますか?」
亜佐美は頷いて先を促した。
保坂の話は亜佐美にとってはかなり大きな話だった。
工場を拡張しようとしていて将来従業員が増えること。
今でも工場内に社員食堂があること。人が増えると社員食堂も利用が多くなり今のままでは手狭になること。そういうことが予定されていて、この機会に社食のメニューも一度考え直したいことや、食堂の拡張工事は最後になるだろうからそれまでは小さな食堂で大人数の食事を提供するために新しいアイデアが必要なことを語った。
「まだ企画の前の段階なのです」と保坂は言った。「二条さんのお弁当を見て食べることによってスタッフに新しいアイデアが湧けばいいのですが、所詮私たちは技術バカばかりで無理ですから誰か専門の外部スタッフを考えているんです」
「それが私ですか?」と亜佐美は驚いた。
「二条さんも候補の一人です。二条さんのように今風にセンスよく作れる人が居て、長期でなく短期の期限付きでお仕事をお願いできる人は私どもにとって都合がいいですから」そうはっきりと保坂は言った。
「実際に作る人はたくさん社内に居ますので、社員のやる気になるような献立を一緒に考えてレシピを作って下さる人を探しているんです。もちろんこれはまだ確定したわけじゃない。ですが、僕の担当はそういうまだ無いことを作っていくことなので、今いろいろ考えているところなんです」
亜佐美はもう一度頭のなかで保坂の説明を反芻し、「よくわかりました」と答えた。
「いずれにしても先のお話になるでしょうから、とりあえず私は水曜日のお弁当だけを作らせていただきますね」と亜佐美は保坂に言ってニッコリ笑った。
「それでお願いします」と保坂は行ったもののまだ少し何か話したそうにしている。
亜佐美はお茶を淹れることにした。
キッチンでお茶の準備をしている亜佐美に保坂がようやく口を開いた。
「ただ工場の拡張と言うわけではないんです。うちの会社が全国に工場や支店を持っているのはご存知ですよね?」
「はい。大きな会社ですからね」
「3月の地震で東北工場が全滅なんですよ」
「まぁ、お気の毒に、、、」
「一箇所じゃないですから。ほんと多くの犠牲と今でも不安な生活を強いられている従業員が居るんです。その人たちの一部をこちらに引き取らなくてはなりません」
亜佐美は言葉が出なかった。黙って熱いお茶を保坂の前に置く。
「そのために工場を拡張するようなものです。改装工事をしなくてはなりません。それから従業員の住まいも考えなくてはなりません」保坂は言葉を続ける。
「会社のほうから隣町で不動産屋をなさっている二条さんにもお願いに行くはずです。ご親戚ですよね?」亜佐美は黙って頷いた。
保坂はどこまで話すか迷っていたが、亜佐美には簡潔に言ったほうがよさそうだと思い、「お弁当の件も工場の件もありますが、それを別にしてまだお願いがあるんです」
「なんでしょう?」とようやく亜佐美は声を出した。
「僕は東京生まれで学校も東京でした。こちらには入社してから来ました。社内には仲の良い同期も居りますが、社外では気軽に話せるような人が居りません」
亜佐美は保坂の顔を正面から見ていた。
「二条さんみたいに気楽に話せる人が居ないので、よかったら今後もメールやお電話を続けさせていただいてもよろしいでしょうか?」亜佐美は保坂の喉仏がゆっくり動くのを見ていた。
やがてそれに返事をしないといけないんだと思い至り、「ええ、私でよければ、もちろんです」と答えると保坂がほっとしたようにニッコリ微笑んだ。