23 着信
亜佐美たちがTDLで夕食を楽しんでいた頃、保坂はその日の会議をすべて終えて各担当者と細かな打ち合わせに入っていた。
次から次へと報告があり、それについて指示を出す。普通は言わなくてもわかってるだろうと思われることでも一つずつ確認していく。担当者が驚くくらい保坂は細かなことまで指示していた。
担当者たちは入社してから今までにないスピードで仕事をこなしていた。大きな会社に入って1つのプロジェクトを大勢のスタッフでやっていくので、割とのんびりしていたのだ。
このまま失敗をしなければ、あるいは変な上司が担当にならなければ一生このまま生活には困らずに暮らしていくのだろうと思えた。
ところがこの社長の三男に呼ばれてからいつも全力で走っているような気がする。以前の部所を離れて新しい職場に来たが、1週間かけてやっていたことを2日でこなしているようなスピードだ。最近では合コンにも参加していない。職場の飲み会もない。当然だ、みんな山のような仕事をトップスピードでこなしているのだから一緒に飲む時間なんてない。それでも誰一人文句は言わなかったし、合コンよりも今の仕事のほうがずっと楽しかった。
打ち合わせが続く中、10分間の休憩を取った。外の空気を吸うか、コーヒーでも飲まなければオーバーヒートしてしまう。
緊張の糸が緩んで部屋を出て行くスタッフが多い中、保坂は窓に近づいた。もう外は薄暗い。
ポケットに入れた携帯が振動した。携帯を確認すると亜佐美からのメールである。
思わず口の端が持ち上がった保坂は、窓際に来ていてよかったと思った。
『今日は駅までお送りいただきありがとうございました。今、夕食中です。茜から保坂さんにとっても楽しんでると伝言です。このメールがお仕事の邪魔でなければよいのですが。』
メールには写真がついていた。どこか建物の天井みたいだ。白のなかにピンクとブルーが基調になってていかにもTDLらしい。
それにしてもそっけないメールである。保坂はまた亜佐美がメールを送らざるを得ないように次のメールを返した。亜佐美はきっとまごつくだろう。
保坂は思わずニヤつきそうになる口元を手で囲って、外の景色を見るふりをしていた。
休憩が終わるとまた打ち合わせである。何人かのスタッフが入れ替わり、その都度進行具合を確認しながら次の指示を出していく。
保坂が立ち上げようとしているブランドの商品化が形になってきたのでこれからはもっと忙しくなるだろう。技術担当の仕事はもうほとんど終わりに近づいて、これからは営業と広報のセクションに忙しさが移っていく。
技術のほうには新しい開発プランを持っていくことにしている。それにしてもうちの会社は良い人材が揃っていたと保坂は有難く思っていた。
全体にのんびりした社風なのでぼーっとした社員ばかりかと思ったら、各分野で能力の高い社員がたくさん居たのだ。新規採用しなくてもよかったのでスタートも早くできたのだ。
ようやく今日の打ち合わせが終わろうとしていたとき、社長秘書の高瀬から電話が入った。
「一也様、まだ会社ですか?」
「はい、そうです」
「もうそろそろ今日は終わりませんか?」
「はい。もう少しで終わりますよ」
「では、そちらに社長が寄りますので」
「はい?社長はとっくに帰られたんじゃないですか?」
「会食があったので出られてましたが、一也様が終わられるようでしたら会社に寄って一緒にお帰りになりたいそうです」
「なるほど。母の命令ですね?」
「私からはなんとも。しかし奥様が心配されているのはわかります」
「わかりました。では、あと20分で終わりますから、30分後に下で」
と保坂が言うと、「承知しました。では10時15分でよろしいですか?」と念押しして高瀬は電話を切った。
東京本社に来たときでも保坂が実家に帰るのは少ない。今日こそは帰ってらっしゃいという母の意思表示だろう。きっと父に命令したのだ。そう思うと少し嬉しくなった。
ようやく打ち合わせが終わってスタッフが帰っていく。
保坂も書類を片付けながら、お疲れ様でしたというスタッフに頷いているときだった。
保坂の携帯が震えた。携帯を確認したい気持ちはあるけど、一人のときに見たいのでポケットに入れたまま出さずにエレベーターホールに急いだ。
本社に来たときの保坂には秘書役のスタッフが一人付く。彼に明日のスケジュールを確認しながら、できれば夕方には工場には戻りたいと伝える。本心は、”できれば”のレベルではなかった。絶対に4時の電車に乗るつもりだ。
「夕方ですか。何時ごろの電車をお考えですか?」
「4時だ」
「4時。4時はちょっと難しいかもしれません」
「何とか頑張ってみるから、午後の会議を1つだけにしてくれる?朝一番で調整してください」
そのスタッフと正面玄関で別れてすぐに、ポケットから携帯電話を取り出した。
迎えが来るまでに素早く見てしまおうと携帯をあけると、やはり思ってた通り亜佐美からのメールが届いていた。メールに本文はなく写真だけついていた。
写真を見て保坂はぷぷっ・・・と噴出してしまった。
ヤンキー座りをしている茜の顔が、下から照らされた僅かな明かりでぼんやりと暗闇に浮かんでいた。背景には遠くにライトアップされたファンタージックなお城が浮かんでいた。
「やられたなぁ」思わず声が出ていた。
やがて保坂の肩が揺れ、その笑いは迎えの車が到着するまで続いた。
「お待たせしました」と高瀬が降りて車のドアを開けてくれる。
笑っている保坂を怪訝そうに見ながらドアを閉めた。
「おぉ、楽しそうだなお前」と父も怪訝そうに見ていた。
「お酒臭いよ、お父さん」
「ま、しかたないだろ。しかしお前が笑っているの、久しぶりに見た」
「僕だって笑うよ(笑)あ、そうだ。母さんに電話しておくよ」
と父に断って母に電話を入れる。
「母さん?一也だけど。うん、今父さんに拉致された(笑)」
「そう。あの人もたまには役に立つわね」
「帰ったら軽く食事できる?」
「もちろんよ。適当でいいでしょ?」
「うん、何でもいいよ。でもこんな時間だから軽いのが嬉しいけど」
「は~い。じゃ、待ってるから」いつも優しい母である。
「そうだ、父さん。明日夕方には工場に帰るよ」
「そうか」
「帰る前に社長室に寄って良いかな?2時過ぎ、もしかしたら3時ごろ」
「3時でしたら大丈夫かと思います」と高瀬が答えた。
「明日、出勤前にもちょっと時間ほしいんだけど」
「わかった」と、今度は父が答えた。
実家に到着すると、「着替えてくるよ」と言って保坂は一度自室に入った。
着替えてから手を洗う。手を洗わなければ食事にはありつけない。きっと二条家もそうだろうと保坂は想像していた。
亜佐美にメールを送ろうとして携帯を手に取ったが、考えを変えて電話を掛けることにした。亜佐美は驚くだろうなとわかっている。
何度が呼び出した後、電話が繋がった。
「保坂です」と言うと、案の定詰まったような亜佐美の声が聞こえた。
「今、お電話して大丈夫な時間ですか?」と言うと、「びっくりしました」と亜佐美が応えた。
「素敵な夜景の写真をありがとうございます」
「気に入りました?(笑)」と亜佐美が保坂の反応を面白がるように言った。
「大いに。ところで今はもうホテルに帰られました?」
「はい。先ほど帰ってきました」
「それなら安心しました」
ところで、と保坂は続けた。「今から食事をしないといけないので、少しあとでもう一度電話してもいいですか?」と亜佐美に聞いてみる。
「後にですか?」
「ええ、少し遅くなりますけど」
少し考えてから亜佐美は「わかりました」と答えた。「今ちょうど茜をお風呂に入れるところだったので、私も後のほうが都合がいいです」と言ってくれたので、安心して電話を終えた保坂は急いでダイニングに下りていった。
適当でと言ってはいたけど、やはり母の手料理は心がこもっていた。
魚の天婦羅に大根おろしがたっぷり入った餡がかかっていた。こういう組み合わせは初めてだ。とろりとした餡には濃い出汁で味がついており、天婦羅のはずの魚を非常にあっさりと食べさせてくれる。興味深くそれを食べた保坂はほぉっとため息が出てしまった。
省エネでエアコンは弱めにはなっているが、オフィスに一日篭っていると体の芯は冷えているのだ。
明日も早いからとあまり無駄話もせずに自室に引き上げた保坂は、まだもう少し仕事が残っていた。
PCを立ち上げながら携帯電話を取り出した。あまり遅くなってもいけないと思って亜佐美に電話をかけた。
今度はすぐに亜佐美は電話をとった。
「保坂です」
「こんばんは」と亜佐美が言った。
「お風呂終わりましたか?」
「はい。さっきまで茜も起きてたのですけど、疲れたのか寝ちゃいました」
「楽しんだようですね」
「駅に到着したときからもうテンション上っててたいへんでしたよ」と亜佐美が笑う。
「あ、そうだ。先ほどの写真ですが、僕はパレードの写真が見たいってリクエストしたのですが?」と保坂が言うと、
「あ、そうでしたか?そうでしたね。でも夜景もいいかなと思って(笑)」
どうやら亜佐美はいたずらのつもりであの写真を送りつけたようだ。
「ちょうど会社の玄関であの写真を見たんです。警備員が突然笑い出した僕を怪しげに見てましたよ」
「くすっ」と、亜佐美の笑いが聞こえた。
「今、してやったり!と得意になってるでしょ?」
「そんなわけでは・・・」とは言っているものの、きっと得意げになってるに違いない。
「写真はたくさん撮りました?」
「はい、デジカメでも携帯でもたくさん撮りました」
「それはよかった」
「茜がこんなに喜ぶとは思っていませんでした」
「帰ったらいつか今日の写真を見せていただけますか?」
「あ、はい。私の撮った写真でよければ」と亜佐美は答えた。それから少しだけ話して、「おやすみなさい」と電話を終わった。