17 サンドウィッチ
翌朝、亜佐美はお弁当や茜の朝食を作りながらインターコムが鳴らないか気をつけていたが、結局保坂は立ち寄らなかった。
やっぱりあれから熱が上ったのだろう。
今日一日ゆっくり休めるほうがあの人には良いことかもしれないと思い直して、掃除でもすることにした。
この数日は慌しく、いつもより時間がなくなってお掃除も手抜きがちのこのごろである。
少し埃が気になってきた亜佐美はその日は水回りだけでも念入りに掃除をするつもりになった。
両親が建てた古い家を姉や亜佐美の成長に従って増築や改装を繰り返してきた。
最新式ではないものの充分に小奇麗な風呂場と洗面所そしてトイレを磨きあげながら、先日どれかの雑誌で素敵なバスルームの写真を見たことを思い出した。
いいなぁと思う。思うがこの古い家には似合わないだろうなとも思う。それよりも思い出のたくさん詰まったこの家が良いと亜佐美は思い直した。
掃除の後、洗濯物を干してようやく一段落した。
お昼にはもう少しだけ時間がある。アイスティをグラスに注いでようやくダイニングに座った亜佐美は、そういえばハーブの苗をまだ探しきれてないのを思い出しインターネットで検索を始めた。
いくつか興味のあるハーブを見つけてメモしておく、後で再度考えることにしてそろそろ昼食にしようと立ち上がったときだった。インターコムが鳴った。
モニターを見てびっくりした。保坂が映っている。
「ちょっと待っててくださいね」と言って亜佐美は慌てて扉まで走っていった。
一方、扉の前で保坂は戸惑っていた。
インターコムを押して挨拶するだけだとばかり思っていたからだ。
何か言い出す前にちょっと待っててと言われたのだが、どうにも手持ち無沙汰だ。
有難いことに時間を空けずに亜佐美が扉を開けたのでほっとした。
「保坂さん」と亜佐美は言ったきり次の言葉が出てこない。
何も話さない間に決まりが悪くなって保坂から口を開いた。
「こんにちは。夕べはお世話になりました、すっかり熱も下がりましたのでこれから出勤します」と一気に言った。
亜佐美は保坂の顔を見ていた。確かに熱はなさそうだ。でもまだ顔色が優れない。
「あれから、お帰りになった後に熱は上らなかったのですか?」と亜佐美が聞くと、「夜中に確かに熱はあがったのですがすごく汗がでまして、頂いた薬を飲んだらまた汗が出たんです。その都度着替えたら朝方にぐっすりと眠ることができました。」亜佐美は肯いて聞いている。「目が覚めたらすっかり今の時間になってました。でも熱が下がって気分も良いので午後からだけでも仕事しようかと思いまして」と保坂が説明すると、「あぁ、よかった」と亜佐美がつぶやいた。
「わざわざ寄ってくださってありがとうございます」と亜佐美は言いながらふと思いついたことがあった。
「保坂さん、ちょっと、ちょっと待っててくださいね」と言うと慌てて扉の中にひっこんだ。
保坂があっという間もなく亜佐美は家のなかに入ってしまった。
いつも慌てているなこの女性は、と保坂は思っていた。
ほどなく亜佐美が戻ってきたときには手に紙袋を持っていた。
「保坂さん、これ」と言いながら紙袋を保坂の手に押し付けた。
「サンドウィチです。お昼に食べてください」
「えっ?」と驚いた保坂は「頂くわけには・・・」と言って返そうとしたが、亜佐美はさっと数歩下がってしまって受け取らない。
「もしすぐに食べなければ冷蔵庫に入れておかれると、食べるときにひんやりして美味しいですから」
「いや、こういうことをしていただくわけには」と返そうとするのだが、そんな保坂に亜佐美が言った。「じゃ、こういうことではいかがでしょうか?サンプルです」
「はい?」保坂にはわけがわからない。
「私はお弁当を作る仕事もしています。一人でも多くの方に知っていただこうと商品サンプルを提供するというのは当然のことです」
「はぁ、当然と言われましても」紙袋を持ったまま保坂は困っていた。
亜佐美は勝ち誇ったような顔をして保坂を見て「今日限りのキャンペーンです」とすかさず言った。
亜佐美の得意そうな目をみて保坂はくすっと笑いがこみ上げてきた。
「面白い人だ、あなたは」
亜佐美は保坂にサンドウィッチを持たすのを成功したのがわかった。
「では、遠慮なく頂いていきます」
「貰っていただいてありがとうざいます。出勤前にお引止めして申し訳ないです。電車1本行っちゃいましたね」
「今日はあまり仕事しないつもりですから」
「では、ほんと無理しないように。行ってらっしゃいませ」と亜佐美は扉の前で保坂を見送った。
サンドウィッチは茜の要望で作ったものだ。
自分用にもと余分に作ってブログ用に写真を撮るためにキレイに詰めたもので、それほど恥ずかしくないはずだ。
写真を撮った後、冷蔵庫に入れておいたのでこの暑い時期でも大丈夫だろうと考えた。とっさに保冷在も入れた。
どうせ保坂さんのあの顔色じゃ今朝は食べてなさそうだし、好き嫌いがないといいんだけどとしばらく亜佐美は保坂のことを考えていた。
使い捨てのサンドウィッチ用紙箱を使ったので、普通のお弁当箱のように返しにくることないと気がついたのはその時だった。
亜佐美に見送られた保坂は、炎天下を駅から会社まで歩いていった。
いつもと同じ道のりなのに酷く疲れた気がする。
まだ本調子じゃないんだろうと思う。涼しい会社の中に入ってほっとするが、玄関から自分のデスクに行くまでも軽く疲労感を覚えた。
IDをドアにスライドさせて中に入ると誰も居なかった。鞄を開けて亜佐美にもらったサンドウィッチの袋に気づき冷蔵庫に入れる。改造するとき、小さな冷蔵庫を部屋に設置したのだ。お昼休み半ばで皆食べに出掛けているのだろう。誰も居なくてよかったと思った。それにしても面白い子だなぁと椅子に座りながら再び亜佐美のことを思い出していた。
保坂は汗がひくまでそうしていたが、やがて仕事に気持ちを切り替えていった。
デスクの上には伝言が重なって置いてあった。
ひとつひとつ目を通しながら、その横にある報告書にも目を通す。
今週中に処理するもの、来週になってから手をつけていいものなどを仕分けていく。
目を通し終わるころ、スタッフが次々に戻ってきた。
3人からスタートしたスタッフは今は10人になっている。最初は広いと思っていた部屋も手狭になってきた。
「おぁ、保坂!もう良いのか?」と部屋に最初に入ってきた香川が声をあげた。
「皆居ないとはめずらしいな」と保坂が言うと、「鬼の居ぬ間に皆で命の洗濯だよ~」と香川が返す。
他のスタッフも次々を保坂のデスクに近寄ってきて、「チーフもう良いんですか?」「顔色まだイマイチですね」と次々に声をかける。
薫が「午前中、チープが居ないから仕事きつくてさ。休憩とる暇もなく働いたのよ。」と言うと「それで一斉にランチ突入ですよ」と誰かが引き継いだ。
香川の下に3人、薫の下にも3人ほどスタッフを補充し、それぞれに新規開発の商品を一つずつ任せている。保坂はどちらのリーダーでもありその他にもプランを抱えていた。
その他に多様な雑用を一手に引き受けてくれる事務アシスタントが一人居た。
技術部の倉庫だった部屋を改装する際に、壁は完璧とは言えないが可能なかぎり防音にした。扉はIDとパスコードがないと入れない。この部屋の向いは給湯室にしたが、そこからカメラで出入りを記録している。
人数分のデスクと書類棚、ミーティングテーブル、大きめのソファー、TVも設置している。TVはPCとも繫いであっていろいろ活用している。ソファーは終電を逃してしまったスタッフの仮眠用にもなっているようだ。
大きな工場のなかにぽつりと出来た離れ小島みたいな存在だった。
その日の保坂はやはり集中が続かないようだ。
書類からふと顔を上げるとまだ午後2時。頭の中がすっきりしないなと立ち上がった保坂は喉の渇きを覚えた。そういえば朝家を出る前にスポーツドリンクを飲んだきりだ。
冷蔵庫からコーラを取り出そうとして紙袋に気がついた保坂は、食べないと叱られそうだなと亜佐美を思い出しクスっと笑ってしまった。
普段はデスクで何かを食べることは少ない。保坂は誰も使ってないのを確認してミーティングテーブルに移動した。
スタッフのデスクを背にして座り、窓の外を見ながら紙袋を開ける。
四角い紙の箱が入っていた。開けてみると、箱には4種類のサンドウィッチが隙間なく詰まっていた。保坂が無造作に鞄に入れるなどして扱っていたわりにはキレイな状態ででてきたサンドウィッチに一瞬見入ってしまった。
茹で卵のサンドウッチから手に取ってみるとひんやりと冷たい。口に入れると冷たいパンが心地よく感じられた。次々に食べて最後にコーラを飲んで、あまり空腹を感じてはいなかったはずなのに一気に食べてしまったことを保坂は驚いていた。