14 公園
亜佐美は茜の部屋に入ってみた。
毎日掃除しているので部屋に居たところで何が分かるわけではない。
ないが、茜の部屋の真ん中に立ってぐるりと見渡してみる。次にベッドの端に腰掛けてみる。
茜には何か言えない秘密があるようだ。
そういえば、2年生になってから友達の話をあまりしないと思い当たった。
普通はクラスメートの仲の良い子の名前くらい頻繁に言ってもいいんじゃないか?
それから、登下校は誰かと一緒に行っているんだろうかと考える。
誰かが迎えに来ているわけでもない、友達の家で宿題するわけでもなくうちにも連れてこないじゃないか。
じっと座ってられなくて思わず茜の部屋から出てリビングを突っ切って裏木戸を開けた。
開けたところで視界を遮られた。
ぶつかったわけではない。板塀に沿って男性が通りがかっていたのだ。
お互いにあっと声が出て、とっさに身体を止めようとした亜佐美の足元がふらついた。
「大丈夫ですか?」気がつけばその男性は亜佐美が転ばないようにと彼女の肘を掴んでいた。「あ、ごめん。痛かった?」とその男性は亜佐美の肘を2度ばかり擦るようにしてから手を離した。
その声にはっと我に返った亜佐美は男性とすごく近い距離で立って顔を凝視してるのに恥ずかしさを覚えた。
「えっと・・・。大丈夫です」
「じゃ」と言ってそのまま通り過ぎようとするその人の背中に「ありがとうございました」とようやく声が出た。
男性は歩きを止めることなく少し振り返りごく軽く会釈をして歩いていってしまった。
それにしても、と男性の整った顔立ちに亜佐美はびっくりしていた。
美形だ。めずらしいくらいイケメン!とは思ったものの、目は充血しており目の下に隈ができていたのを見逃さなかった。そして彼からは少しだけ汗の匂いがした。
外に出る気を失くした亜佐美は扉を閉め家の中に戻った。
茜はどこに居るんだろう。
一方、若い女性とぶつかりそうになった保坂は眠くてしようがなかった。プロジェクトをいくつか抱え奔走している合間に本社出張や機能が停止している東北工場の見回りもあった。
今日はちょうどその工場からの帰りである。工場に行っていた3日間はほとんど睡眠はとってなかった。業務だけではなく彼らの生活が重くのしかかっているようで、それが保坂を暗くした。工場からは早めに引き上げても、滞在先のホテルでは確認事項や資料を集める作業があった。
夜遅くにベッドに横になってもなかなか寝付けなくて、睡眠も浅かったように思う。
電車のなかで報告書をかなり終わらせたので、今日は出張先から直帰してしっかりと睡眠をとるつもりだ。
住んでいるマンションが見えてきた。その手前の公園を差し掛かったとき、そういえば先日ピンクのランドセルの女の子がここから出てきたことを思い出した保坂は、公園の入り口をじっと見つめた。
あの黒い板塀の家に入っていった女の子。さっきぶつかりそうになった人は母親だろうか。
保坂がよけられないほど急に扉が開いたことを思い出した。あの女性は何故あんなに慌てていたんだろう。
決して閉鎖的な公園じゃないのだが、公園の入り口からは中が見えない。歩道沿いに少し進むと全体が見渡せる場所があった。
保坂は公園には入らずに公園の中が見える場所まで歩いてみた。
もう夕暮れも近くそろそろ夕飯の時間になるせいか公園には子供が数人遊んでいるだけだ。
保坂が見たのは膝にピンクのランドセルを乗せてベンチに座っている女の子だった。
ふと女の子が顔を上げゆっくりと保坂のほうを見た。徐々に焦点を合わせ、保坂と目を合わせた。
かなり距離があるのだが、女の子のほうも保坂を思い出したようだ。
しかし、今日の女の子はどこかぼんやりしているようで保坂を睨んではこなかった。
とその時、どこから現れたのか一人の男が女の子に近づいた。
ベンチに座っている女の子はランドセルをきゅっと引き寄せて初老の男を見上げた。
男が何か女の子に話しかけているようだ。女の子が首を横に振っている。
少し様子を見ていたが男は女の子に話しかけるのを止めない。
女の子はじっと前を向いて口を一文字に結んだり、時々男の顔を見上げたりしている。
やがて男が女の子の肩に手をかけた。
「おい、何してるんだ!」
公園をほんの数秒で横切った保坂が男の背後から声をかけた。
保坂としては初老の男より上背もあるし、年齢的にも腕力があるだろうと思ったことは確かだ。交番は駅前まで行かなくてはならないし、公園の付近はもうあまり人通りもなかった。
なんとかするしかないと考える暇もなく思わず初老の男をとがめるように声をかけたのだ。
「その女の子に何を話しているんだ?」と今度はゆっくりと言った。
初老の男はゆっくりと振り向き、顔を上下に動かして保坂を上から下までまるで挑発するように見た。
「お前こそ誰だ」初老の男の腹から出た大きな声に、この人は喧嘩慣れしてるかもしれないと警戒しながら「俺のほうが先に聞いたんだ」と返した。
その時、ベンチに座っている女の子が身動ぎした。
保坂も男も目の端で女の子を捕らえてはいるが、お互いに油断することなく目をはずすことはない。
やがて男が口を開こうとしたとき、「あっ、あーちゃんだ」と女の子が小さくつぶやいた。
女性が二人走ってくる。
一人は先ほど黒い板塀の勝手口でぶつかりそうになった女性だ。
「伯父さん」その女性が初老の男性に言った。
そしてその後ろに隠れるように座っている女の子を見た。
「茜」と言ってベンチの後ろにまわり、女の子を背中から抱きしめた。
年嵩の女性が初老の男の隣に来ていた。
保坂を見てから「あの、こちらの方は?」と初老の男に問う。
男は困ったように「えっと・・・」と言って保坂を睨んだ。
説明しようもなく保坂に自分で説明しろと言う事だろう。保坂はほっと肩を下ろしながら、「あのマンションに住んでいる者です。帰宅途中に少女に話しかけてるこちらの男性を見かけたものですから声をかけさせていただきました」と言うと、女性は不思議そうな顔をして「で、ご用は?」と保坂に聞いた。
「いえ、用といいますか、ちょうど声をかけたときにお二人が来られたものですから」どう言っていいものか言い澱んだところに、初老の男性がクツクツと笑い出した。
「わかったぞ、あんたあれだろ。俺が小さな女の子に声をかけてる不審者だと思ったんだろう?」と保坂に投げた言葉に、とっさに眉間に皺が寄った保坂だが何か言わなければならないと口を開こうとした。
だが、初老の男性を見ると人の良さそうな弓形の目をして笑っている。
「ご親戚の方だったのですね」と保坂が聞くと、「あの子は俺の弟の孫だ。帰りが遅いので探していたんだ」と答えてくれた。
男は隣の女性を「家内だ」と紹介してくれた。「ご主人を、その・・・勘違いしてすみませんでした」と女性に謝った保坂ではあるが、なぜ僕が謝らなくてはいけないのだと思ったことも確かだ。
保坂が彼に謝りたくないのが分かったのだろう。隣で初老の男が更に笑った。
その時、女の子の手を繫いで立ち上がらせた若い女性が保坂の前にやってきた。
「先ほどはどうも。そして、いろいろとありがとうございました」と綺麗なお辞儀をして謝った。
「いえ。じゃ、僕はこれで失礼します」若い女性にだけというわけではなく、その場の全員に軽く会釈して立ち去ろうとした保坂の背中に、「お名前だけでも」と声がかけられた。
名前なんかとは思ったものの、ここで言わないと日本では押し問答になるかもしれないととっさに判断した保坂はもう一度家族のほうに向き直った。
「保坂と言います」と名前だけを告げた。
「私どもは二条と言います。今日はほんとうにありがとうございました」と若い方の女性が言った。
「では」ともう一度軽く会釈して今度こそ保坂は公園を後にした。
ようやく保坂と亜佐美が出会いました。
これからはもう少し早い展開で話を進めていきますね。