9 花火大会
あれから三日経ったが、娘の笑顔という、僕の中の違和感が消えない。
考えを放棄しようとして必死で他のことを考えても、仕事をしても、天井の模様の数を数えていても、それは隙間から忍び込んできて僕の頭を満たしてしまう。
今日も彼女は僕とすれ違いざまに笑顔で「こんにちは」と言って、僕は小さな会釈を返した。いつも通りだったが、どこか違う。
昨日また母親の声が聞こえてきたがすぐ止んだ。あの時のように、母親は泣いているんだろうか。あの時のように、娘は微笑んでいるのだろうか。
もしかしたら笑っていたのはあの時だけで、いつもは、家の中では僕が以前考えていたような哀しい表情を浮かべているかもしれない。
しかし僕は娘の笑顔が焼き付いて、もう彼女の哀しい表情など考えられなくなっていた。
娘はもしかしたら意地悪でわらっていたのかもしれない。母親の失敗を笑っていたのだ。彼女が少しおかしいという可能性だってある。でもそれでもいいかもしれない、彼女が僕の考えていたようなつらい思いをしていないのなら、なんだって。
考えるだけ考えて、僕はぐったりと疲れてしまう。
僕は今までずっと自分のことだけ考えてきた。
それなのに今、僕は考えてもわからない、隣の親子のことばかり考えている。娘の笑顔がチラついて消えない。
そうして違和感から抜け出せず、僕は一日を終える。
僕はなるべくもう娘と会いたくなかった。
娘と会って動揺してしまうのが、嫌でしょうがなかった。
今まで味わったことのないような緊張感に、僕は耐えられなかった。
しかし避けようとしても、同じ建物の中に住んでいると、嫌でも会ってしまうのだ。
例えば僕が仕事から帰ってきて、アパートの入り口の掲示板に張ってあった花火大会のポスターを、ぼんやりと見ていた時。
ポスターをぼんやり見ながらまた隣の親子のことを思い出していた時。
「こんばんは」
そう、彼女はそんな僕にいつものように挨拶をする。
この時僕は疲れて放心状態で掲示板をみていた。心のどこかで、彼女が現れることを思い浮かべながら。
実際に彼女が現れて、僕はまたひどく動揺してしまった。ぼんやりしていた分、いつもより大きく。
「ああ」
だからだろうか、いつもと違い、会釈ではなく言葉を返してしまった。しかも挨拶ですらないような、うめき声のような言葉を。それがまた僕を一段と動揺させた。
落ち着こうとしたが、妙に恥ずかしくなり赤くなってしまう。赤くなる自分を恰好悪く思いまた更に僕は動揺する。僕は彼女から視線を逸らし、誤魔化すように掲示板を見た。
彼女は僕のおかしな様子に気づかず、僕が見ていたポスターを見て、ゆっくりと噛みしめるようにつぶやいた。
「花火大会」
彼女も、僕に初めて挨拶以外の言葉を投げかけた。
いや、僕に言葉を投げたわけではなく、独り言だったのかもしれない。この時彼女の表情は、いつものように微笑みを浮かべてはいたものの、すこし遠い目をして、寂しげであり、懐かしむようであった。
いつもと違う、彼女の挨拶以外の言葉と、微笑みの奥にある表情。
もとより僕は動揺し、混乱し、何故だか焦っていた。
僕も何か言わなくては、何か挨拶以外の言葉を。
何も言わないことは彼女に対して無視するような気がして、彼女を傷つけるような気がして、僕は言葉なんて思いつかないのに気ばかり焦ってしまった。
「……行く?」
僕は彼女を真っ直ぐ見て、少しの沈黙の後、そう言った。沈黙は言葉を探してできたもので、何も考えない沈黙の数倍息苦しく、僕は結局何も考えずに言葉を投げかけてしまった。
言った直後、何を言ってしまったんだろうと、冷や汗が出た。何の用意もない間抜けな言葉だ。
彼女は一瞬目を丸くしたあと僕を見て、僕と彼女は見つめ合った。
この場を早く離れたいのに、僕は彼女から目が逸らせず動けない。
時間は止まってしまったのか。
なんだか音も聞こえなくなり、世界から切り離されたような気分で、その数秒を永遠のように感じた。
静寂を破ったのは彼女の言葉だった。
「はい」
彼女は僕ににっこりと微笑んだ。
その笑顔はいつもの……いや、いつも以上の。いや、わからない。
僕は何も言わず彼女から目を逸らし、少し駆け足で階段を上り、家に帰った。