家の味は嫁が継ぐものだそうなので、料理長の私は退職して食堂を開きます
ブラント伯爵家の厨房には、朝五時から火が入る。
私、ノーラ・ミューラーは、そこで十年間、鍋を振ってきた。
祖母のハンナが料理長を務めていた頃からだ。祖母が亡くなって二年、私が厨房を預かっている。伯爵家の食卓の味は、今も私の舌と手が作っている。
「ノーラ、ジャガイモの仕入れ、今日も良いのが来てるぞ」
裏口から声をかけてくれるのは、青果商のヨナスさん。いつも泥だらけの手で、いつも新鮮な野菜を運んでくれる。
「ありがとう。今日は根菜のスープにします」
「ああ、あれか。あれは、あんたの婆さんの味そのものだ」
褒められ慣れていないので、顔が熱くなる。
そのとき、厨房の扉が勢いよく開いた。
「ノーラ、ちょっと来なさい」
伯爵夫人だった。後ろに、見慣れない令嬢を連れている。
「紹介するわ。三男のベルトランの婚約者、商家のご令嬢のカトリーナさん」
「はじめまして」
カトリーナ様は、にこやかに会釈した。
ベルトラン様の婚約者。
幼い頃、祖母と一緒に厨房に立っていた私を、ベルトラン様は「大きくなったら結婚しよう」と言ってくれた。もちろん子どもの戯言だ。分かっている。
それでも、胸の奥に小さな痛みが走った。
「当家には、昔からの家訓があるの」
夫人は胸を張った。
「嫁は、家の味を継ぐこと。これは代々の決まりです。ですから、ノーラ、あなたが作っている料理のレシピを、すべてカトリーナさんに伝授しなさい」
「……すべて、ですか」
「ええ。今夜から、カトリーナさんが厨房に立ちます。あなたは補助に回って。三日あれば覚えられるでしょう」
三日。
祖母が五十年かけて作り上げ、私が十年かけて受け継いだ味を、三日。
「夫人。確認させていただきたいのですが」
「何かしら」
「家の味を継ぐ、というのは、私が作ってきた味を、嫁になる方が受け継ぐという意味ですね?」
「そうよ。当たり前じゃない」
「では、私は料理長の職を解かれるのですね」
夫人は少し言葉に詰まった。
「それは……カトリーナさんが覚えるまでは、あなたも手伝って」
「覚えた後は?」
「もう、いらなくなるわね。使用人は、他にもいるし」
はっきりと言われて、かえって清々しかった。
「承知しました」
私は前掛けを外し、きれいに畳んで調理台の上に置いた。
「それでは、ただ今をもって退職いたします。レシピは、お伝えしましょう」
カトリーナ様は目を輝かせた。夫人も満足そうに頷いた。
私は祖母の形見の帳面を開き、一枚だけ紙を破いて、カトリーナ様に差し出した。
そこには、根菜のスープの材料が、一覧で書かれていた。
分量は、書かれていない。
「あの、ノーラさん、分量は?」
「それは、手が覚えています。毎日、鍋の前に立って、少しずつ変えながら作るものですので」
「変える?」
「季節によって、野菜の水分量が違いますから。でも、大丈夫です。お嫁さんなら、三日で覚えられるはずですもの」
最後の一言は、少しだけ意地悪だったかもしれない。
私は深く一礼して、十年間働いた厨房を後にした。
◇
行く当てはなかったが、道は自然に開けた。
翌朝、青果市場でヨナスさんに会ったのだ。
「ノーラ! 伯爵家、辞めたんだって?」
「噂が早いですね」
「あんたが辞めたなら、ちょうどいい。実は、市場の裏通りに、空いてる店があるんだ。前の持ち主が引退して、竈もそのまま残ってる」
彼は少し照れたように頭をかいた。
「あんたの料理をもっと多くの人に食わせたい、とずっと思ってたんだ。伯爵家の中だけじゃ、もったいない」
その日のうちに、私は店を借りた。
看板を掲げる日、少し迷って、祖母の名前をつけた。
『ハンナの台所』
開店して一週間で、店は満席になった。
安くて温かくて、体にしみる味。市場で働く人たちも、近所の主婦も、通りがかりの旅人も、皆が「うまい」と言ってくれた。
誰かの「うまい」が、こんなにも嬉しいものだと、私は忘れかけていた。
◇
一方、ブラント伯爵家では、大変なことが起きていた。
らしい、とヨナスさんが教えてくれた。伯爵家に野菜を納めている彼は、裏の事情にも詳しい。
カトリーナ様は、三日で覚えられなかった。
当たり前だ。祖母のスープは、玉ねぎを炒める火加減と時間が、日によって違う。手で触って、匂いで決める。紙に書けるものではない。
十日目には、スープが塩辛くなったり、味がぼやけたりを繰り返し、伯爵が眉をひそめた。
そして二週間後。
伯爵家は、王弟殿下をお招きする晩餐会を開いた。
王弟殿下は、ブラント家の料理を昔から気に入っておられた。祖母が料理長だった頃からの常連で、毎年必ず、この家の食卓を楽しみに訪れる方だ。
出された一皿目のスープを、殿下は一口すすって、静かに匙を置いた。
「これは、ハンナの味ではないな」
食卓が凍りつく。
「いや、殿下。これは我が家の味を継いだ者が作りまして」
「継いだ者、とは?」
「その、嫁になる娘が」
「ハンナの孫のノーラは、どうした」
王弟殿下は、ご存じだったのだ。祖母の味を継いでいたのが誰なのか。
伯爵夫人が、冷や汗を浮かべて答えた。
「ノーラは、辞めまして」
「辞めた? この味を作れる唯一の人間を、辞めさせたのか」
「いえ、決してそういうわけでは」
「ならば、どこにいる」
◇
その翌日の昼、『ハンナの台所』の扉を、王弟殿下がくぐった。
お忍びのお姿で、従者を一人連れて。
私は鍋を前に、手を止めた。
「ノーラ・ミューラー殿とお見受けする。席は空いているかな」
「申し訳ありません。今日は満席ですので、順番に並んでいただきます」
気づけば、反射的に口にしていた。
従者が慌てたが、殿下は声を上げて笑った。
「結構。並ぼう。ハンナの店では、王も順番を待つ決まりだ」
三十分後、殿下の前に、根菜のスープを置いた。
一口すすった殿下は、目を閉じて、長く息を吐かれた。
「ああ、これだ。変わらない。ハンナの味だ」
その目元に、うっすらと涙が見えた。
そこへ、扉が開く音がした。
入ってきたのは、伯爵夫人とカトリーナ様だった。殿下の後を追ってきたのだろう。
「ノ、ノーラ。戻ってきてちょうだい」
夫人は、息を切らしながら言った。
「家の味は、あなたでなければだめだったの。厨房に戻って。待遇は、前の倍にするわ」
「お断りします」
「どうして? 倍よ、倍!」
「ここが、私の店だからです」
私は、きっぱりと言った。
「家の味を継ぐのは嫁だと、家訓でおっしゃいましたよね。私は伯爵家の嫁ではありません。ですから、家の味は、私の手には残りません。祖母の味は、祖母と私の味です」
夫人は唇を震わせた。
殿下が、静かにスプーンを置く。
「ブラント夫人。家の味とは、家が作るものではない。作る者の手が作るものだ。そのことを、理解するには少し遅かったようだな」
夫人は何も言えなかった。
その後ろで、ヨナスさんが、そっと私の隣に立った。
「ノーラ、スープ、冷めるぞ」
「あ、はい」
私は笑って、殿下の二杯目を注いだ。
窓の外では、市場の朝市が賑わっている。
湯気の向こうで、ヨナスさんが耳まで赤くしながら、小さな声で言った。
「あのさ。店の裏の小さな部屋、空いてるんだ。配達の帰りに、毎日寄ってもいいか?」
「毎日、ですか?」
「毎日。ずっと。……いや、いつまでも」
私は鍋の火を少し弱めて、頷いた。
「それなら、賄いは三人前、作りますね」
「三人?」
「ええ。祖母の分も」
ヨナスさんは目を丸くして、それから、嬉しそうに笑った。
店の奥の小さな神棚の上で、祖母の古い帳面が、静かに湯気に包まれていた。
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