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家の味は嫁が継ぐものだそうなので、料理長の私は退職して食堂を開きます

掲載日:2026/10/20

 ブラント伯爵家の厨房には、朝五時から火が入る。


 私、ノーラ・ミューラーは、そこで十年間、鍋を振ってきた。


 祖母のハンナが料理長を務めていた頃からだ。祖母が亡くなって二年、私が厨房を預かっている。伯爵家の食卓の味は、今も私の舌と手が作っている。


「ノーラ、ジャガイモの仕入れ、今日も良いのが来てるぞ」


 裏口から声をかけてくれるのは、青果商のヨナスさん。いつも泥だらけの手で、いつも新鮮な野菜を運んでくれる。


「ありがとう。今日は根菜のスープにします」


「ああ、あれか。あれは、あんたの婆さんの味そのものだ」


 褒められ慣れていないので、顔が熱くなる。


 そのとき、厨房の扉が勢いよく開いた。


「ノーラ、ちょっと来なさい」


 伯爵夫人だった。後ろに、見慣れない令嬢を連れている。


「紹介するわ。三男のベルトランの婚約者、商家のご令嬢のカトリーナさん」


「はじめまして」


 カトリーナ様は、にこやかに会釈した。


 ベルトラン様の婚約者。


 幼い頃、祖母と一緒に厨房に立っていた私を、ベルトラン様は「大きくなったら結婚しよう」と言ってくれた。もちろん子どもの戯言だ。分かっている。


 それでも、胸の奥に小さな痛みが走った。


「当家には、昔からの家訓があるの」


 夫人は胸を張った。


「嫁は、家の味を継ぐこと。これは代々の決まりです。ですから、ノーラ、あなたが作っている料理のレシピを、すべてカトリーナさんに伝授しなさい」


「……すべて、ですか」


「ええ。今夜から、カトリーナさんが厨房に立ちます。あなたは補助に回って。三日あれば覚えられるでしょう」


 三日。


 祖母が五十年かけて作り上げ、私が十年かけて受け継いだ味を、三日。


「夫人。確認させていただきたいのですが」


「何かしら」


「家の味を継ぐ、というのは、私が作ってきた味を、嫁になる方が受け継ぐという意味ですね?」


「そうよ。当たり前じゃない」


「では、私は料理長の職を解かれるのですね」


 夫人は少し言葉に詰まった。


「それは……カトリーナさんが覚えるまでは、あなたも手伝って」


「覚えた後は?」


「もう、いらなくなるわね。使用人は、他にもいるし」


 はっきりと言われて、かえって清々しかった。


「承知しました」


 私は前掛けを外し、きれいに畳んで調理台の上に置いた。


「それでは、ただ今をもって退職いたします。レシピは、お伝えしましょう」


 カトリーナ様は目を輝かせた。夫人も満足そうに頷いた。


 私は祖母の形見の帳面を開き、一枚だけ紙を破いて、カトリーナ様に差し出した。


 そこには、根菜のスープの材料が、一覧で書かれていた。


 分量は、書かれていない。


「あの、ノーラさん、分量は?」


「それは、手が覚えています。毎日、鍋の前に立って、少しずつ変えながら作るものですので」


「変える?」


「季節によって、野菜の水分量が違いますから。でも、大丈夫です。お嫁さんなら、三日で覚えられるはずですもの」


 最後の一言は、少しだけ意地悪だったかもしれない。


 私は深く一礼して、十年間働いた厨房を後にした。


 ◇


 行く当てはなかったが、道は自然に開けた。


 翌朝、青果市場でヨナスさんに会ったのだ。


「ノーラ! 伯爵家、辞めたんだって?」


「噂が早いですね」


「あんたが辞めたなら、ちょうどいい。実は、市場の裏通りに、空いてる店があるんだ。前の持ち主が引退して、竈もそのまま残ってる」


 彼は少し照れたように頭をかいた。


「あんたの料理をもっと多くの人に食わせたい、とずっと思ってたんだ。伯爵家の中だけじゃ、もったいない」


 その日のうちに、私は店を借りた。


 看板を掲げる日、少し迷って、祖母の名前をつけた。


『ハンナの台所』


 開店して一週間で、店は満席になった。


 安くて温かくて、体にしみる味。市場で働く人たちも、近所の主婦も、通りがかりの旅人も、皆が「うまい」と言ってくれた。


 誰かの「うまい」が、こんなにも嬉しいものだと、私は忘れかけていた。


 ◇


 一方、ブラント伯爵家では、大変なことが起きていた。


 らしい、とヨナスさんが教えてくれた。伯爵家に野菜を納めている彼は、裏の事情にも詳しい。


 カトリーナ様は、三日で覚えられなかった。


 当たり前だ。祖母のスープは、玉ねぎを炒める火加減と時間が、日によって違う。手で触って、匂いで決める。紙に書けるものではない。


 十日目には、スープが塩辛くなったり、味がぼやけたりを繰り返し、伯爵が眉をひそめた。


 そして二週間後。


 伯爵家は、王弟殿下をお招きする晩餐会を開いた。


 王弟殿下は、ブラント家の料理を昔から気に入っておられた。祖母が料理長だった頃からの常連で、毎年必ず、この家の食卓を楽しみに訪れる方だ。


 出された一皿目のスープを、殿下は一口すすって、静かに匙を置いた。


「これは、ハンナの味ではないな」


 食卓が凍りつく。


「いや、殿下。これは我が家の味を継いだ者が作りまして」


「継いだ者、とは?」


「その、嫁になる娘が」


「ハンナの孫のノーラは、どうした」


 王弟殿下は、ご存じだったのだ。祖母の味を継いでいたのが誰なのか。


 伯爵夫人が、冷や汗を浮かべて答えた。


「ノーラは、辞めまして」


「辞めた? この味を作れる唯一の人間を、辞めさせたのか」


「いえ、決してそういうわけでは」


「ならば、どこにいる」


 ◇


 その翌日の昼、『ハンナの台所』の扉を、王弟殿下がくぐった。


 お忍びのお姿で、従者を一人連れて。


 私は鍋を前に、手を止めた。


「ノーラ・ミューラー殿とお見受けする。席は空いているかな」


「申し訳ありません。今日は満席ですので、順番に並んでいただきます」


 気づけば、反射的に口にしていた。


 従者が慌てたが、殿下は声を上げて笑った。


「結構。並ぼう。ハンナの店では、王も順番を待つ決まりだ」


 三十分後、殿下の前に、根菜のスープを置いた。


 一口すすった殿下は、目を閉じて、長く息を吐かれた。


「ああ、これだ。変わらない。ハンナの味だ」


 その目元に、うっすらと涙が見えた。


 そこへ、扉が開く音がした。


 入ってきたのは、伯爵夫人とカトリーナ様だった。殿下の後を追ってきたのだろう。


「ノ、ノーラ。戻ってきてちょうだい」


 夫人は、息を切らしながら言った。


「家の味は、あなたでなければだめだったの。厨房に戻って。待遇は、前の倍にするわ」


「お断りします」


「どうして? 倍よ、倍!」


「ここが、私の店だからです」


 私は、きっぱりと言った。


「家の味を継ぐのは嫁だと、家訓でおっしゃいましたよね。私は伯爵家の嫁ではありません。ですから、家の味は、私の手には残りません。祖母の味は、祖母と私の味です」


 夫人は唇を震わせた。


 殿下が、静かにスプーンを置く。


「ブラント夫人。家の味とは、家が作るものではない。作る者の手が作るものだ。そのことを、理解するには少し遅かったようだな」


 夫人は何も言えなかった。


 その後ろで、ヨナスさんが、そっと私の隣に立った。


「ノーラ、スープ、冷めるぞ」


「あ、はい」


 私は笑って、殿下の二杯目を注いだ。


 窓の外では、市場の朝市が賑わっている。


 湯気の向こうで、ヨナスさんが耳まで赤くしながら、小さな声で言った。


「あのさ。店の裏の小さな部屋、空いてるんだ。配達の帰りに、毎日寄ってもいいか?」


「毎日、ですか?」


「毎日。ずっと。……いや、いつまでも」


 私は鍋の火を少し弱めて、頷いた。


「それなら、賄いは三人前、作りますね」


「三人?」


「ええ。祖母の分も」


 ヨナスさんは目を丸くして、それから、嬉しそうに笑った。


 店の奥の小さな神棚の上で、祖母の古い帳面が、静かに湯気に包まれていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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(そもそも貴族の奥方は調理しないモノなのに名声だけ欲しがって追い出したなコレ)
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