「手なずけたのは俺だ」と婚約を切られましたが、あの騎士が従うのはわたくしの手。上のお家へまいりますわ
「あの荒くれどもを手なずけたのは俺だ」
ローデリックがそう言い切っても、エレノアは畳みかけた稽古着から手を離さなかった。袖を内へ折り、土埃のついた裾を重ねる。三年使った布は、指が置かれるまま四角く収まった。
「初めは号令ひとつ聞けなかった連中だ。それを精鋭に仕立てた。隊を率いる者の責任というものを、俺は果たしてきたんだ」
壁際に並んだ取り巻きたちは、待っていたように笑った。ハロルドも椅子の肘掛けへ手を置き、息子が「俺」と言うたび、ゆっくり顎を引いた。
責任という言葉は便利だった。ローデリックは晴れの日の閲兵には欠かさず姿を見せたが、ガレスが木剣を放り投げる雨の朝には来なかった。
「ええ、ローデリック様」
「だから婚約はここまでだ。お前でなくとも、ベルガー家の隣に立つ飾りは務まる。むしろ隊の者へ深入りし、個人的な情で統率を乱す女は、将来の妻にふさわしくない」
笑い声がもう一度重なった。ハロルドはそれを止めず、息子の前へ席を譲るように半歩退いた。
「家を支える働きには感謝している。今夜のうちに身の回りを整え、明朝には屋敷を出るといい」
毎朝、まだ灯の残る廊下を稽古場へ向かった時、ハロルドから声をかけられたことはなかった。感謝は、追い出す時になってようやく形を得たらしい。
エレノアは二着目の稽古着を広げた。襟には、ガレスの剣先を避け損ねた時についた浅い裂け目が残っている。
左肩を庇う時ほど、ガレスは声を荒らげた。そこで名を呼び、踏み込まずに一拍待つ。そうすれば振り上げた刃は、いつも彼自身の手で下ろされた。
ほかにも、右脚が冷えると半歩遅れる者がいた。柄を強く握りすぎる者もいた。型は同じでも、人まで同じではない。
「返事はそれだけか。俺があの連中をまとめたことに、異論があるなら言え」
ローデリックの語尾が重なる。エレノアが襟を揃えているあいだ、返答を待つ気配は一度もなかった。
「異論などございません。ただ、一つだけ」
エレノアは畳んだ二着を重ね、角を合わせた。
「あの者たちを動かすのは、号令ではございません」
「口惜し紛れか。では明日から、余計な手出しはするな。俺の隊だ」
取り巻きの一人が、また笑いかけた。エレノアは稽古着を腕に載せ、初めてローデリックを正面から見た。
「承知いたしました、ローデリック様。今夜を最後に、わたくしの手を引きます」
ローデリックは片眉を上げた。何を引かれるのか、それを尋ねる代わりに、彼は取り巻きへ自分の功を語り直した。
◇
夕刻の稽古場には、踏み固められた土の匂いが残っていた。騎士たちはいつもの間隔で並び、エレノアの手元を見て得物を構えた。
「始めます」
剣が動く。最初の一巡で、右脚の遅れる騎士の列だけが半歩ずれた。
エレノアはその男の前に立ち、靴先で踏み込みの幅を示した。肩へ指を添え、身体が傾く前に腰を戻す。男は低く応じ、同じ型をもう一度なぞった。
「それで結構です。冷える日は、初めから一歩を狭くなさい」
「はい、副隊長」
次の騎士は柄頭を握り込んでいた。エレノアが指を二本差し入れると、強張った手がわずかに開き、剣先の揺れが止まった。
全員を一巡するまで、ローデリックは現れなかった。彼が稽古を見に来るのは、客席が設けられる日だけである。
以前、アデライド・ローヴェルが訪れた日もそうだった。ローデリックが磨かれた鎧の中央に立つ一方で、エレノアは列の端から騎士を一人ずつ名で呼び、わずかに違う足の位置を直した。
アデライドは帰り際、誰の剣が最も優れていたかを尋ねなかった。
「あなたは、全員の名を覚えているのね」
「覚えずに触れれば、避けられる傷も増えますので」
それだけの応答を、エレノアは今になって思い出した。目の前ではガレスの木剣が肩より高く上がり、切っ先が横へ流れている。
「ガレス。左を急いではなりません」
「急いでなんかいねえ」
返事とともに、木剣がさらに上がった。左肩を隠すため、右の肘まで開いている。
いつもなら、エレノアは名をもう一度呼ぶ。彼がこちらを見るまで待ち、肩を押さず、柄の向きだけを戻す。
今夜は木剣へ手を添えたまま、その指を離した。
「……副隊長?」
「次へまいります」
ガレスの剣先は下りなかった。振り抜かれることもなく、傾いだまま宙に残った。
稽古の終わりには、一人ずつの得物を確かめた。刃こぼれ、革紐の緩み、柄の歪み。金属へ指先を置くたび、その名を胸中で呼んだ。
最後はガレスの剣だった。左肩に負担のかからない角度へ鞘を掛け直せば済む。エレノアの指は金具に触れ、そこで止まった。
金具は傾いたまま、手だけが離れた。
「明朝からの稽古は、ローデリック様のご指示を仰いでください」
革手袋を外す音が、ひとつずつ止まった。誰も礼を言わず、誰も次の指示を尋ねなかった。
「今夜をもって、わたくしはベルガー家を出ます」
壁際で得物を掛け直していたオズワルドの手が止まった。剣帯の金具が柱へ触れ、乾いた音を一度だけ立てた。
「婚約が、解かれたのでございますか」
「先ほど」
オズワルドは掛けかけた得物を外し、両手で持ち直した。それ以上は何も言わず、騎士たちへ背を向けて刃を拭き始めた。
ガレスが鞘へ収めそこねた剣を握ったまま、エレノアの前へ来た。左肩が上がり、声は低いところで擦れた。
「どちらへ行かれるんです」
「まだ決めておりません」
「なら、決まってからでいい」
ガレスは後ろを見た。騎士たちは誰一人頷かなかったが、誰一人目も逸らさなかった。
「副隊長がどこへ行かれても、俺たちはついていきます」
「わたくしは、何も命じません」
「聞いてません。俺たちがそうするだけだ」
左肩がまた上がっていた。エレノアは手を伸ばしかけ、稽古着の包みを持ち直した。
「今夜のところは、傷を冷やしなさい。明日のことは、明日ご自分でお決めください」
「副隊長は」
「ガレス」
名を呼ばれると、ガレスの刃が下がった。三年前と同じだった。ただし今夜、エレノアはその型を直さなかった。
◇
翌朝、エレノアの荷は小さな箱二つに収まった。オズワルドが手配した馬車は正門の脇に止められ、御者はベルガー家の紋章へ布を掛けていた。
最後の箱を運び出すには、稽古場に面した回廊を通る。エレノアが角を曲がった時、騎士たちはすでに土の上へ並べられていた。
ローデリックは正面に立ち、閲兵用の上着を着ていた。ハロルドと取り巻きたちは屋根のある見物席に腰掛け、整列した騎士を眺めている。
「昨日までと同じ稽古をする。俺の号令に合わせろ」
ガレスの剣帯は傾いたままだった。左肩が上がっている。列の端では、右脚の悪い騎士がいつもより広く足を開き、その隣で柄を握り込む手が白くなっていた。
精鋭など、位さえあれば誰が率いても従う。
ローデリックが剣を抜いた。
「構え!」
鞘走りの音は、ひとつしかなかった。
ローデリックの剣先だけが朝の光を受けていた。騎士たちは両腕を下ろし、得物へ触れもしない。
「聞こえなかったのか。構えろ!」
取り巻きの一人が笑いかけた口を閉じた。隣同士で顔を見合わせ、椅子の背へ引いていた肩を戻す。
「隊長殿」
ガレスの声が稽古場を打った。
「俺らの名をご存じで?」
「何を言っている。今は稽古中だ」
「肩を上げるな、足を開くな、列を乱すな。それで、どいつを直してるつもりです」
「口答えをするな。お前が乱すから全体が崩れるんだ」
ガレスの左肩が跳ねた。剣を抜く手が柄へかかり、その拍子に隣の騎士も足を引く。広すぎる踏み込みと強く握られた柄がぶつかり、鞘が鞘を弾いた。
「お前、列へ戻れ!」
声を重ねられるほど、ガレスの身体は前へ出た。騎士たちの間隔も崩れたが、ローデリックは名を呼ばず、乱れた列そのものへ怒鳴った。
「俺の隊で勝手をするな! 誰のおかげでここまで来たと思っている!」
ガレスの手が柄を握り込む。左肩は耳の近くまで上がっていた。
エレノアは回廊の柱の横に立った。箱を抱えたまま、口を挟まない。昨夜、手を引くと告げた。
最初にこちらを見たのは、右脚の悪い騎士だった。次に柄を握り込んでいた男が顔を向け、ひとり、またひとりとローデリックから目を外した。
ガレスも振り返った。上がりきった肩はそのままなのに、柄へかけていた指だけが開いた。
誰も構えない。
騎士たちの身体は列に残り、顔はエレノアの立つ回廊へ向いていた。
「エレノア。何をしている。お前からも命じろ」
ローデリックは剣を下ろさないまま、土を踏んだ。先ほどまでの号令より、声が一段低かった。
「わたくしは、もうベルガー家の者ではございません」
「まだ門を出ていない。最後くらい役目を果たせ」
ハロルドが見物席から下りてきた。息子へ剣を収めろとは言わず、エレノアの進む先へ回り込んだ。
「ヴァルモン嬢。家を支えた働きには、私も感謝している。騎士たちが落ち着くまで残ってはもらえまいか」
昨夜までなかった敬称が、朝の土の上へ落ちた。エレノアは箱を抱え直した。
「昨夜、明朝には出るよう仰せになりました」
「事情が変わったのだ」
「わたくしの働きは変わっておりません」
ハロルドは道を塞いだまま、後ろを見た。騎士たちは一人も彼を見ていなかった。
正門の外で、車輪の止まる音がした。ほどなく門番に先導され、アデライド・ローヴェルが回廊へ入ってきた。
ローデリックの剣先が下がった。
「ローヴェル様。本日は、なぜこちらへ」
「ヴァルモン嬢に会いに来ました」
アデライドはローデリックの返事を待たず、エレノアの前で足を止めた。ローデリックは口を挟まず、剣を鞘へ戻して頭を下げた。
◇
「迎えに来るのが遅かったようね」
アデライドはエレノアの箱を見てから、稽古場へ視線を移した。乱れた列、抜かれていない剣、傾いたガレスの剣帯を、端から端まで一度で見た。
「わたくしを、でございますか」
「ええ。以前から、ローヴェル家の稽古場を任せたいと考えていました。今日、ベルガー家との婚約が解かれたと聞きましたので」
エレノアの箱を抱える指が、角で止まった。アデライドはそこへ手を貸さず、騎士たちの前へ歩み出た。
「ただし、あなた一人を連れていけば済む様子ではありませんね」
「ローヴェル様、この者たちはベルガー家の騎士です」
ローデリックの声は、先ほどの半分も稽古場へ届かなかった。
「ですから、本人たちに尋ねます」
アデライドは列の端に立った。騎士たちをひとまとまりとして扱わず、端の一人から順に顔を見た。
「ベルガー家へ残るか。エレノア・ヴァルモンとともに、ローヴェル家の稽古場へ来るか。自分で選びなさい」
最初の騎士が得物を取った。列から出て、回廊に立つエレノアの後ろへ回る。
次の騎士も剣帯を締め直した。右脚の悪い騎士は狭い一歩で列を離れ、柄を握り込む癖のある男は、一度手を開いてから得物を取った。
アデライドは急かさなかった。騎士が一人動くたび、次の者へ顔を向けた。
土の上から人影が減っていく。ローデリックの前から、人影が消えていく。
最後にガレスが立っていた。傾いた剣帯へ手をかけ、金具を直そうとして左肩を上げる。
「ガレス」
エレノアの声で、その手が止まった。
「ご自分でお決めなさい」
「昨夜、決めました」
ガレスは金具を傾けたまま得物を取り、エレノアの後ろへ並んだ。
「副隊長がどこへ行かれても、俺たちはついていきます」
騎士たちの靴音が一度だけ揃った。号令はなかった。
ハロルドは息子へ何も言わず、回廊の柱から退いた。エレノアの前を塞いでいた道が開く。
オズワルドが屋敷の奥から現れた。昨夜掛け直さなかった得物を腰に帯び、古い外套を片腕へかけている。
「オズワルド」
呼ばれると、彼は足を止めた。低く頭を下げ、外套を抱え直す。
「私も、お供を」
エレノアの視線が、彼の擦り切れた袖口で止まった。箱の上に重ねていた手をほどき、目を伏せる。
後ろには騎士たちがいる。三年前、互いに背を預けることさえ拒んだ者たちが、命じられずに同じ方角を向いている。
「わたくしの後ろは、楽な場所ではありません」
「存じております」
オズワルドはそれだけ答え、騎士たちの端へ並んだ。
アデライドがエレノアの箱を一つ持ち上げた。止める暇を与えず、馬車へ向かう。
「ローヴェル様、そちらはわたくしが」
「稽古場ではあなたが働くのです。今くらい、私に持たせなさい」
回廊を出る前に、アデライドはローデリックへ一度だけ振り返った。
「人を従わせる方ではなく、人が従いたくなる方を迎えたい」
ローデリックは頭を下げたまま、返事を言い切れなかった。エレノアが歩き出すと、後ろで得物を取る音が重なった。
◇
出立は翌朝になった。騎士たちの支度を待つあいだ、エレノアは客間で最後の稽古着を畳んでいた。
扉が開き、ローデリックが一人で入ってきた。父も取り巻きも連れていない。上着の留め具は一つずれ、昨日まで呼びつけていた従者の姿もなかった。
「エレノア。話がある」
エレノアは袖を内へ折った。三年前から使っている稽古着は、朝の光の下でも襟の裂け目を隠さなかった。
「何でございましょう、ベルガー様」
ローデリックの口が、次の言葉の形で止まった。
「その呼び方は……いや、今はどうでもいい。騎士たちを連れていくのをやめろ」
「騎士たちは、それぞれご自分で行き先をお決めになりました」
「お前が何か言ったんだろう。三年もそばに置けば、情に流される者もいる。今なら不問にする。隊へ戻れ」
エレノアはもう一方の袖を畳んだ。ローデリックは机の前まで来て、返答を待たずに言葉を重ねた。
「お前がいないと隊がまとまらぬ。昨日のような醜態を、客人の前で二度も見せられない。ローヴェル様にも、お前から事情を話せ。騎士を整えた功はお前にも認めてやる」
稽古着の端を揃えていた手が止まった。
「ベルガー様」
「何だ」
「あの者たちを動かすのは、号令ではございません」
「だから、お前が戻って教えればいいと言っている」
「教えるのは、号令のかけ方ではございません。ガレスの肩が上がった時、昨日のあなたは何と呼びましたか」
「そんなことをいちいち覚えていられるか。騎士は命令を聞けばいい」
「右脚を庇う者が誰か、ご存じですか。柄を握り込んでしまう者は」
「隊長が一人ずつ機嫌を取れるものか」
ローデリックの声が大きくなりかけ、廊下を通る靴音で痩せた。扉の外を、ローヴェル家の従者が荷を運んでいく。
「俺には家も位もある。騎士を率いるのは俺だ。お前は黙って、以前のように整えればいい」
エレノアは止めていた手を動かした。襟を内へ入れ、稽古着を四角く畳み終える。
「どうぞ、あなたの号令でお束ねになってくださいまし。あの者たち、喜んで従いますでしょう」
ローデリックの指が机の縁へかかった。エレノアは畳んだ稽古着を抱え、脇を通り過ぎる。
「待て、エレノア。話は終わっていない」
呼び止める声は廊下まで追ってきた。エレノアは振り返らず、開かれた正門を出た。
◇
ローヴェル家の稽古場は、朝の光が端まで届いた。壁に並ぶ得物には持ち主ごとの高さが与えられ、古い傷のある者には、初めから短い間隔が空けられている。
アデライドは二階の窓から一度だけ稽古場を見渡し、何も命じずに去った。オズワルドは柱のそばで腕を組み、騎士たちが並び終えるまで口を開かなかった。
エレノアは列の端から歩いた。右脚の踏み込みを狭くし、握り込んだ指の間へ二本の指を差し入れる。触れた得物ごとに、その持ち主の名を呼んだ。
最後に、傾いた剣帯の前で足を止める。
「ガレス、左肩を急いではなりません」
「急いでません」
声は荒かったが、刃は上がらなかった。エレノアが柄の向きをわずかに戻し、剣帯の金具を左肩へ響かない位置まで下げる。
「では、もう一度」
「はい、副隊長」
名を呼ばれた騎士は、口元を隠しそこねたまま剣を構え直した。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




