第8話 冷めた紅茶と、抜かれざる刃
剪定鋏のバネが弾ける感触が、まだ指先に残っている。
午後二時。薔薇の館の応接室には、招かれざる客がふんぞり返っていた。
ヴァルダー伯爵。第一王子ウィリアム殿下の側近であり、古狸とあだ名される陰湿な男だ。
「……して、新しい生活はいかがですかな? リディア嬢」
伯爵は出された紅茶に口もつけず、値踏みするような視線で私を舐め回した。
「第一王子殿下に捨てられた身で、まさか弟君に拾われるとは。貴女もなかなかに……逞しい」
言葉の端々に、「恥知らず」「あさましい」という侮蔑が滲んでいる。
隣に座るエリオット殿下から、ピリッとした殺気が放たれるのが分かった。
けれど、私はテーブルの下で彼の手を軽く叩き、制した。
――大丈夫です、殿下。
これは私の仕事です。庭の雑草を抜くのに、主人の手を汚させるわけにはいきません。
私はソーサーを持ち上げ、優雅に微笑んだ。
手の中にある**磁器のティーカップ**は、光にかざせば透けるほど薄い。けれど、このカップは沸騰した湯を注がれても決して割れたりしない。
「お褒めにあずかり光栄です、伯爵。リサイクルこそ、資源を大切にする王国の美徳ではありませんか?」
「なっ……」
「ウィリアム殿下には不要な石ころでも、エリオット殿下にとっては城壁を築くための礎石となることもございます。見る人によって物の価値が変わる……商売にも通じる真理かと存じますが」
さらりと返すと、伯爵の顔が赤黒く歪んだ。
嫌味を嫌味で返さず、「正論」という名の刃物で切り返す。
相手が「捨てられた女」というレッテルを貼るなら、私はそれを「再評価された人材」と定義し直すだけだ。
「口の減らない小娘だ……! これだから殿下に見限られたのだ!」
伯爵がダンッ、とテーブルを叩いた。
カップの中の紅茶が波打ち、ソーサーに溢れる。
私は眉一つ動かさず、静かに溢れた雫をナプキンで吸い取った。
「伯爵。テーブルマナーをお忘れですか? 王族の御前ですよ」
冷ややかな私の指摘に、伯爵がさらに激昂して腰を浮かせかけた、その時だった。
「――そこまでだ」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
エリオット殿下だ。
彼は優雅に足を組み替えただけだが、その碧眼は絶対零度のごとく冷たく伯爵を射抜いていた。
「私の婚約者に対し、これ以上の無礼は許さない。彼女の言葉は、私の総意だ」
「で、ですが殿下! このような傷物の令嬢など――」
「傷物?」
エリオット殿下は低い声で笑った。その笑声には、愉悦ではなく、純粋な怒りだけが込められていた。
「彼女のどこに傷がある? 私には、愚か者の目には見えない輝きしか見えないが」
「っ……!」
「帰られよ。貴殿の曇った眼では、ここの茶の味も分かりますまい」
完全な拒絶。
圧倒的な王者の威圧に、伯爵は顔面蒼白になり、逃げるように部屋を去っていった。
* * *
扉が閉まり、静寂が戻る。
私は大きく息を吐き、緊張で強張っていた肩の力を抜いた。
ふう、と息をつくと、手が微かに震えているのに気づいた。
さすがに怖かったか、私。
いや、これは武者震いだ。任務を完遂した興奮の余韻だ。
「……リディア」
横から伸びてきた手が、震える私の手を包み込んだ。
エリオット殿下の体温が、冷え切った指先を溶かしていく。
「すまなかった。あんな男に、君を晒してしまって」
「いいえ。私が対応しなければ、殿下の評判に関わりますから」
「強がりを言うな。手が、こんなに冷たいじゃないか」
彼は私の手を両手で擦り合わせ、温めようとしてくれる。
その必死な様子に、私は胸の奥が痛んだ。
申し訳ありません、殿下。
貴方はご自分の「所有物」が他人に傷つけられそうになって、不愉快だったのですよね。
大切なコレクションに泥を塗られたような気分でしょう。
だからこそ、こうしてメンテナンスをしてくださる。
「私は平気です。……これで証明できたでしょうか」
私は彼を見つめ、問いかける。
「私は、殿下の盾として機能しましたか?」
エリオット殿下の手が、ぴたりと止まった。
彼は悲しげに眉を寄せ、何か言いたげに口を開き――そして、諦めたように微笑んだ。
「……ああ。君は最強の盾であり、私の自慢の婚約者だ」
合格だ。
その言葉を聞いて、私は安堵した。
テーブルの上には、冷めきった紅茶が残されている。
波紋ひとつないその水面のように、私は心を平穏に保たなければならない。
彼が私を守るのは愛ゆえではなく、私が有用な駒だから。
その前提を間違えさえしなければ、私はこの場所で生き残れる。
私は彼の手を握り返し、ビジネスパートナーとしての信頼を込めて頷いた。




